天使のかたわれ 第33話
夕日が家々の屋根へ沈もうとしている。
混雑する道を避けて奏が車を走らせているので、奏のマンションへ帰るのではなければ、穏やかなドライブ帰りだ。
もう季節は冬に入っていた。
あの日、マンションに完全に監禁されると恵美は悲しく思っていたが、幸い奏は毎日仕事を終えるとまっすぐに帰ってきて、買い物や食事に連れ出してくれる。休みの日には今日のように遠出もしてくれた。奏はそれで、恵美のストレスの軽減をはかっているようだ。
奏は圭吾と違って、恵美の身体を無理に奪うことはなかった。その行動はまるで雅明と協定でも結んでいるかと疑いたくなるほど、彼と酷似しており、せいぜい口付けるか抱きしめてくるくらいだ。同じベッドで眠っても決して手を出しては来なかった。
最初の頃は何度も逃げようとした。だが、部屋からは飛び出せても、エレベーターを降りた地点で管理人に捕まってしまう。非常階段も同様だ。外出時はどこからともかく奏の部下が現れて連れ戻された。
なので、今では逃亡をほとんど諦めている。
どうやって結婚を諦めさせるか、そればかりを恵美は考え、今日も立てた妙案を実行する。
「貴方は家へ帰らないの?」
「家?」
運転しながら、奏は首をかしげた。
「ああ、……親が住んでいるところへですか? 帰りませんね基本的に」
「仲でも悪いの?」
「そもそも、実家は出勤するホテルからだいぶ離れていますし、帰る必要は感じませんが。俺もいい大人ですからね」
「そう」
早くに両親を亡くした恵美には、理解できない考えだ。あの安らぐ場所が今あったなら、遠くに住んでいても絶対に帰りたい。
奏の両親に訴えるという目論見は、諦めるしかなさそうだ。奏は恵美の考えを読んでいるのか、くすりと微笑した。
「スーパーへ寄ったら、もう帰ります。今日は俺が夕食を作りますよ。貴女は先ほど買った本でもご覧になっていればいい」
「……わかったわ」
奏は、佐藤の気配のする場所へは絶対に近寄らない。それは徹底していた。それ以外なら恵美の希望を必ず聞く。今日なら大型書店へ寄り、恵美の欲しかった本を購入してくれる。
奏は恵美に絶対にお金を使わせなかった。行動ルートがばれそうな、銀行通帳やキャッシュカード、クレジットカードは取り上げられていた。
だが、すでに貴明は恵美の居場所を突き止めているはずだ。それがわからない奏ではない。これは恵美を渡さないというポーズなのだろう。
スーパーで買い物をしてマンションへ帰ると、奏はさっそく夕食作りに取り掛かった。
「今日はいい鯛がありましたから、寿司を握りますね」
奏はご機嫌そうに笑い、スーパーで買った鯛を捌き始めた。秋刀魚や鯵ぐらいしかおろしたことがない恵美は、それが珍しくて、つい対面キッチンの向こう側から見入ってしまう。
奏は家事一般が恵美以上にでき、洗濯以外はすべて彼がしている。学生時代にはすでに独立して自炊していたらしい。貴明がそんな感じだったが、奏はさらにその上をいく。
ばりばりと鯛のうろこを取って、三枚におろし、あらはすまし汁にするため、適当な大きさに叩き切る。そして湯を沸かした鍋に入れて、臭みを取り、ざるにあけて水できれいに洗った。そして再び湯を沸かしてあらを入れて加熱し、味付けしてねぎを散らす。
捌いた身の方は、丁寧に水分をぬぐったあとに、丁寧に一枚一枚、一口分のネタに切っていく。よくテレビで見かけるような、やたらと大きい切り身ではなく、上品に食べられる大きさだ。
「気になりますか?」
さすがにこれだけ見ていたら、奏が気づかないはずが無い。恵美は本をテーブルに置いて、奏の近くに行った。
「前から思っていたけれど、上手なのね。板前さんのようだわ」
「本当は、旅館経営がしたかったんです。小さな温泉宿のような」
「ペンションみたいな、家族で経営する感じの?」
「ええ」
ネタを切りつくすと、奏は用意していたシャリの入った容器を引き寄せ、握り、皿に寿司をきれいに並べていく。一流の寿司職人のようだ。
奏が作るご飯は圧倒的に和食が多い。いずれも手が込んでいて、家庭料理とは言い難かった。
「……私は旅館なんてする気は無いわよ」
結婚するつもりがないと匂わせると、奏はおかしそうに笑った。
「安心なさい、俺は仙花グループを継ぎますから、貴女は旅館の女将になどなる必要はありません」
「社長夫人もにもならないわ」
「今はそれで構いません」
手際よくすべて握り終えた奏は、寿司の皿を恵美に手渡した。
奏は食にこだわりのある男で、料理も皿も高価そうなものばかりだ。いつもいつも、食事のたびにどこかの旅館に来ている気がする。
ここへ連れてこられた当初、恵美はほとんど口を聞かなかったが、いつまでも続けるのはさすがに不可能だった。話せる人間が奏しかいないから仕方ない。
「どうですか?」
奏が寿司の出来を聞いてきて、おいしいと答えると、奏はうれしそうに微笑む。無邪気な表情に、恵美は子供たちを思い出した。
本当にこのまま子供たちに会えないのだろうか。
自分は奏を愛せない。
誘拐したこと以外は、奏は普通の人間で、御曹司で、美男子で、女性などいくらでも掴み取れるだろうに、どうして自分なのかわからない。
早く諦めて欲しい。恵美は毎日そればかりを願い、叶わないまま月日だけが過ぎていく……。
翌日、奏が出勤したのを見計らったかのように、来客があった。
しかしここは恵美の部屋ではないので、どうしたら良いのかわからない。第一扉が開けられない。
放っておけば帰るだろうと思っていると、鍵が勝手に開けられ車椅子が入ってきた。この時に逃げたらよかったのだが、車椅子に座っている初老の女性が奏に酷似していて、その気が削がれた。
初老の女性は、恵美に優しい笑顔を向けて、頭を下げた。
「貴女、恵美さんでしょう? 初めてお目にかかるわね。私は仙崎美和子、あの子の母親です」
「は……あ」
呆気に取られている間に扉は閉まり、若い無表情の男が車椅子ごと押して入ってきた。
「あの、私……」
「さあさあ、こんなところではなんですから、リビングへ通して頂戴。あの子、家へちっとも帰ってこないから、最近どうしているか気にしていたのよ」
そんなことをいきなり言われても、恵美だって、奏のことなどほとんど知らない。なんとかしてくれと男性に視線を投げたが、お茶を用意させてもらうと言って、キッチンへ入っていってしまった。
すぐにおいしそうなケーキがテーブルに置かれ、紅茶の香り高い匂いが漂った。美和子はにこにこしている。
「突然来てごめんなさいね。ずっとお会いしたいと思っていたの。圭吾が愛した女性ってどんな方なんだろうって……」
「は……あ」
なぜ圭吾の話なのか、恵美は理解できない。この場合、まず奏について話すべきではないだろうか。
「あの子にした仕打ちは、許される事ではないとわかっているんです。だから恵美さんも私の事をよく思っていらっしゃらないでしょう。だけどお伺いしたくて今日叶いました。そして今とても安心しています。こんなに素敵な女性だったなんて」
「…………」
なんと言葉を返していいかわからず、恵美は美和子にとまどいがちの視線を向けるしかない。
美和子は、世間知らずのお嬢様がそのまま年を取ったような、そんな危うさが漂っている。圭吾から聞かされた話では、男に身体を売っていたらしいが、そんな過去がある女性にはとても見えない。どこまでも澄み切って穢れが無い瞳だ。
圭吾や奏のような息子がいるのが、不思議に思えるくらいだ。
「圭吾もちゃんとした女性とおつきあいできて、赤ちゃんまで生まれたって聞いてお会いしたかったの。でも今日はいらっしゃらないみたいね」
彼女は、奏から何も知らされていないのだろう。
付き添いの男性が何かを言おうとした時、リビングの扉が大きな音を立てて開いた。
「母さん!」
奏だった。誰かから知らせをうけて直行したのだろう。
どかどかと足音も荒く入ってきた奏に、美和子は不満げに顔を歪ませた。
「まあ乱暴ね。家族でも、部屋に入る時はノックぐらいはするものよ」
「何故勝手にここに来たんです。家にはいずれ連れて行くと言ったでしょう?」
「いつまでたっても来ないから来たのよ。それに、女同士の語り合いに男はいりません」
「松島! お前もお前だ。何故止めなかったんだ」
母親に言っても無駄だと悟った奏が、付き添いの男性を睨み付けた。松島というらしい。
「申し訳ございません」
頭を下げる松島を、美和子がかばう。
「松島は悪くはないわ。私がどうしても恵美さんに会いたかったの」
「勝手な事をしないでください!」
恵美は黙って三人の言い合いを見ていた。
おかしい。奏は何故ここまで怒っているのだろうか。恵美の監禁がばれたからだろうか? しかし、美和子は監禁だとは思っていないようだ。
では何に怒っているのか。恵美を気にしているのはわかる。それはなんなのか。
「とにかく今すぐ帰ってください! 松島! すぐに連れて行ってくれ」
「しかし……」
当惑する松島に、奏が痺れを切らして、母親の車椅子に手を出したその時だった。
「圭吾、いい加減になさい!」
そう美和子が叫び、美和子以外の人間がその場に凍り付いた。
恵美はまじまじと美和子の顔を見た。奏がさらに何かを言おうとする美和子を押しとどめようとしたが、美和子はそんな彼には目もくれず申し訳なさそうに恵美に謝った。
「ごめんなさいね恵美さん。圭吾はいつまでたっても私を許してくれないものだから……。図々しいとはわかっているんです、でも美雪ちゃんと一緒に、いつか私たちの家に来てくださるかしら?」
「……え……え」
驚きすぎて、恵美はなんと言えばいいのかわからない。
奏が車椅子を玄関側へ向けた。
「さあもういいでしょう、帰ってください!」
「何よ、そんなに母親を邪魔にするの……」
奏は文句を言い続ける美和子の車椅子を強引に押して、リビングを出ていった。
しばらく玄関で美和子と奏の言い争う声が続いていたが、やがて扉のしまる音と共に静かになった。
一人、リビングに入ってきた奏は、少年の様に傷ついた顔をしていた。恵美と向かい合わせのソファに座り、情けなさそうに笑う。
「……あの人は、俺をずっと圭吾兄さんだと思っているんです。ギリシャで言いましたよね? 母は孤児院から兄を引き取れなかったと」
恵美は無言でうなずいた。奏はソファの背もたれに肘を乗せ、額に手を当てて俯いた。
「母はそこから心を壊していったのでしょう。俺が生まれた時、『この子は圭吾だ。孤児院から戻ってきてくれたんだ』と言って聞かなかったそうです」
「…………でも」
「母を溺愛している父も、俺を兄さんとして扱う。母はずっと俺を圭吾だと思ってる。俺が佐藤グループを経営していると、そう信じている」
震える睫毛を伏せて、奏は首を横に激しく振った。
「父は、俺に兄さんの性格をまねさせた。小さな頃からずっと。父は兄さんの近辺をさぐらせていたから、兄さんの癖も何もかも知っていて、少しでも兄さんがしない事をすると、こっぴどく叱りました。物置に食事抜きで数日間閉じ込められるなんてざらで……、だけど、俺は二人に愛されたくて兄さんの真似をした」
「ひどい……」
そんなのはまともではない。
「でもその愛は兄さんのもので、俺に向けられたものではない。辛くてたまらなくて、俺は兄さんに仙崎へ来て欲しいと何度もかけあった。だけど母を憎んでいる兄さんは絶対に会ってはくれなかった。当然ですよね……俺だって兄さんみたいな目に遭ったらそう思う」
「圭吾に会ったことがあるの?」
「いいえ、いつも人づてに追い払われていました……。俺は直に兄さんに会ったことはありません」
恵美は静かに立ち上がり、奏の隣に座った。
好きでない男だが、傷ついて苦しんでいる人間を見ると、放っておけない。
奏はすぐ恵美にもたれ掛かかかった。
「だが、俺は兄さんがうらやましかった。あの自信に満ちた帝王の眼差しも、身を焼き尽くす炎のような情熱も……。そして貴女を得て、幸せな家庭を築いているその姿も」
「……奏さん」
奏に縋りつかれるように抱きしめられ、母を求めるようなその抱擁に、恵美は胸が切なくなった。
(……あ)
窓の向こうの景色から、小さな光の点滅が恵美の目に飛び込んできた。その光の点滅の仕方を恵美は知っていた。まさかと思ったが、その光の点滅は暫く経ってから同じ様に繰り返される。
”美雪と穂高だよ。雅明おじちゃんもいる。指輪をひねったら通信できるよ。返事をして。助ける手段があるから”
モールス信号を、恵美親子は自分達流に変えて遊んでいた。その光の点滅が窓の外から発せられているのだ。
「恵美さん」
奏に顎を取られて視線を合わせられる。奏の目は悲し気に揺れていた。
「俺は誰からも愛されない。父も母も仙崎奏を見てない。恵美さん、貴女もそうなんですか?」
恵美は首を横に振る。
圭吾は、こんな壊れそうな表情はしなかった。妻に愛されないと悲しそうにはしても……。
「……貴方は圭吾じゃないわ」
奏は、とてもうれしそうに顔をほころばせた。
「貴女は、俺を奏と呼んでくれるんですね」
「他にも居るでしょう?」
「名を呼ぶ人は誰も居ません」
あんまりな奏の境遇に、恵美の心に深い同情が湧きあがってきた。それが奏の計算だったなら、恵美は見事に嵌められた事になる。
「好きです。とても、愛してます」
そっと静かにソファに倒され、奏が覆いかぶさってくる。
熱く唇が重ねられた。
恵美は左手の親指で、そっと薬指のブルーダイヤの指輪を撫でた。その左手首は、恵美の頭上で奏に押さえつけられていた。
(ここを出たい。子供たちに会いたい。だけど見捨てられない……この可哀想な人を)
窓の外では、光の点滅が続いている。