天使のかたわれ 第34話
眠れないまま、恵美は朝を迎えた。
時計は五時半を指している。眠るのを諦めて、恵美はベッドから起き上がって着替え、顔を洗った。
二十四時間空調システムが働いている部屋は、真冬でも快適な温度が保たれている。自分の家なら、震えながらストーブに火を入れるところだ。
奏はまだ眠っているようで、リビングはしんとしている。
暗闇しか見えないのにカーテンを開け、恵美は静かにソファに座った。
昨日、奏はあれから、やたらとうれしそうに恵美に礼を言い、会社へ戻っていった。
あの顔をどこかで見た気がする。圭吾だっただろうか、違う。圭吾はあんな無邪気な笑顔を浮かべるような男ではなかった。
(誰だっけ……、結構親しい人だと思うんだけどな)
貴明。
正人。
雅明。
彼らでもない。
一体誰だったか、どうしても思い出せない。ひょっとすると昔佐藤邸で転落した時に、失った記憶がまだあるのかもしれない。
そんなことはありえないとわかっていながら、それでも考えてしまう自分に、恵美は、ばかばかしくなって苦笑した。
正人なら何か知っているのかもしれないが、もう彼はこの世には居ない。
(正人……)
美雪を出産した時、それまで外国に居た正人が日本へ帰ってきて、そこで初めて恵美の陥っている境遇に驚いて、病院へ助けに来てくれた。
あの時から、正人は間違いなく自分の家族だった。
最後まで男としては愛せなかったが、夫として家族としてとても大切な男だった。
彼が今生きていたなら、きっとまた助けに来てくれるのだろう……。
恵美はゆっくりを首を横に振った。自分はいつもこうだ。
「駄目だな私は。ずっと進歩してない」
今もこうやって奏の檻の中に囚われて、ただひたすら誰かが助けてくれるのを待っている。
きっと麻理子なら、いろんな機転を利かせてとっくに脱出できているに違いない。奏を上手く説得するか、秘書の奈津を動かして自分をここから出すように誘導できる気がする。いや、絶対にできるだろう。
考えていくうちに夜が明けていく。黒から紺碧へ、そして紫から赤へ……薄くなってそして太陽が、はるか遠くの山から顔を出した。
このマンションはとても景色がいいので、それだけは恵美は気に入っていた。だからこうして、時々日の出を眺めることにしている。
監禁生活の唯一の楽しみともいえた。
足音がして、奏がリビングに入ってきた。
「時々早起きですね」
「……日の出が見たいの」
奏はくすりと笑った。
「この部屋は東向きですからね。今日の予定ですが、都内の本社ビルに行かなければならないので帰ってきません、ごゆっくりとお過ごしください。食事は管理人に運ばせます」
「そう」
恵美はソファから立ち、窓際へ寄った。すると奏が隣に来た。
太陽はますます輝きを増している。
恵美はちらりと奏を見上げた。その横顔はとても疲れている様に見えた。儚げといってもいい。
圭吾が決してしなかった表情だ。彼はどんなに疲れていても消えそうな雰囲気はなかった。顔かたちは似ていても、どんなに奏が圭吾を真似しようとしても、あの帝王のような存在感は奏にはなかった。
「最近おかしな輩が、マンションの周囲をうろついているようですね」
恵美は胸をどきりとさせた。昨日のモールス信号が頭をよぎる。
ゆっくりと奏が恵美を見下ろした。その切れ長の目は探るように光り、恵美のささいな表情の変化も見逃さないかのようだ。恵美は目を逸らした。
「うろついたって……入れやしないじゃないの。この部屋のドアは指紋認証でしょう」
「……そうですね。でもどこかの誰かにとっては、なしのごとしでしょう。何しろ闇の組織に所属しておいでだ」
「何の話かわからないわ。貴明じゃあるまいし」
「佐藤社長はこの件では動けない」
「何をしたの」
「何も。ただ、彼以上に力を持つ人間は、いくらでもいるということでしょうか」
心の中で恵美は貴明と麻理子に謝った。自分のせいで、なんらかの損害や制裁があったのかもしれない。
だから、できる限り関わりあいにならないようにしていたのだ。
奏の手が伸びて抱きしめられた。
「そろそろ俺に応えてもいい頃でしょう?」
「…………」
唇を噛み締め、恵美は奏の腕を振り払う。
奏はさびしそうに笑った。
「何が違うんでしょうね、俺と兄さんと。兄さんはもっとひどかったはずだ。貴女を無理矢理奪って傷つけた。恋人だった佐藤社長をこれ以上は無いほどに痛めつけた、冷酷非道な男だったのに」
「圭吾は……!」
「わかっています。貴女は佐藤社長の想いに引きずられただけで、彼を愛してなんかいなかった。彼の恋人という迷惑極まりない誤解をされ、彼の家のごたごたに引き込まれた」
「それは……」
「貴女は、最初から兄さんを愛していた。だからすべて許したんでしょう」
「勝手なこと言わないで……」
ずばり心中を当てられた恵美は動揺し、部屋から出ようとしたところを奏に引き戻されて、再び抱きしめられた。
「俺に兄を見たっていいんです。俺だけが、貴女の最愛の佐藤圭吾を再現できる」
……奏は何を言っているんだろうか。わけがわからない。昨日、奏として見てくれる人はいないと、さびしいと言ってはいなかったか。
なぜそんなに自分を傷つけるのだろうか。
その日の昼、恵美はまたあの信号の光がピカピカ光るのを見た。ブルーダイヤを時計回りに回してみると、本当に回ったので恵美は驚いた。そっとその指輪に話しかける。
「……私よ」
がさがさと音がして、かすかに雅明の声が響いた。
『恵美、やっと返事してくれたな」
「美雪と穂高は?」
『今日は平日だから学校。代わりに私が信号を送ったってわけ。今お前は一人だな?』
「一人だけど出られっこ無いわ。管理人は出入り口に見張ってるし、指紋認証の鍵だし」
『大丈夫だ。すぐにそんなドア開けられる』
久しぶりに聞く雅明の声だ。切なさと愛おしい想いに恵美は胸を詰まらせた。
やっぱり好きだ。こんなにも雅明を求めている。沸き上がる熱い想いに恵美は目頭を熱くさせた。雅明と居ると自分が自分で居られる。自由でいてもいいよと言われている気分になる。
話すのに夢中になり、恵美はかすかに開いた玄関の扉の音に気づかなかった。ひそやかに忍び寄る足音に気づいて振り向く前に、抱きつかれ甲高い悲鳴をあげた。
『恵美?どうした?』
「は……」
きつく抱きしめられ息が詰まる。
目の前の壁の鏡に、本社ビルに行っているはずの奏が微笑みを浮かべている。とても恐ろしい感じがする微笑みだ────。
「これに気づいてないと思っていましたか? ギリシャで貴女から奪った時に、既にわかっていたんですよ。やっと尻尾を出した……ふふふ」
「あ……」
手を強く引かれ恵美はよろめいた。
リビングの隣の奏の部屋に引き入れられ、床に突き飛ばされた。したたかに身体を打ち付け、痛みをこらえて立ち上がろうとした恵美の耳に、何かおかしな音が入ってきた。
軽い音だ。けれど、今何故それが必要なのか。
奏が手にしているのは、刃を多めに出したカッターナイフだった。段ボールなど切る為の太い刃渡りが包丁を思わせた。
「奏……さん?」
恵美は恐ろしさのあまり立ち上がれず、震えながら座ったままじりじりと後ずさった。狂気がにじみ出ている奏が、ゆっくりと近寄って来る。恵美はすぐに壁に行き着いてしまい動けなくなった。前に奏がしゃがみこむ。
「俺の母は、車椅子に乗っていたでしょう?」
「え……え…………」
「生まれつきではありません。……父が、金で雇ったやくざにわざと切らせたんです。母の足の腱を」
「うそ……」
恐ろしく暗い瞳とまともに視線がぶつかって、恵美は戦慄した。彼は愛を通り越して、どうしようもない執着心だけで自分に向かっている。冷や汗が幾筋も背中を伝わり、手足が冷たくなった。逃げなければと思うのに、奏の視線に射すくめられてしまって恵美は動けない。
「父は、母の足を奪って、母を完全に自分のものにした。逃げられないと観念した母は、すべてを諦めるしかなかった。そして兄は戻らない……それで心を壊したんです。母が本当に愛していたのは、兄と、一緒に逃げようとして殺された男だけだった」
脂汗がにじみでている恵美の首筋に、奏の唇が滑っていく。その唇は冷たく、恵美の震えはますますひどくなった。
奏の大きな手が、震える恵美の細い左足首を手にした。
「貴方の足首も切ってあげる。二度と私から逃れられない様に。心配しなくても良いですよ。永遠に深く深く愛してあげますから」
「や……いや!」
「雅明さんと連絡しようとさえしなければ、貴女はこんなふうにならなかったんです。貴女のせいだ」
「違う……!
声を震わせる恵美の唇に、狂気の微笑みを浮かべて奏がキスをしてくる。
誰か! 誰か助けて!
恵美はもう声すらも出ない。喉から出てくる声は言葉にならなかった。
この男は圭吾とは正反対だ。灼熱の炎のような圭吾とは似ても似つかない、奏は固く冷たく凍り付いた心しかもっていない……!
鈍く光るカッターの刃が、恵美の足首をすっと切った。とても薄く切られたというのに鋭利な痛みが走り、恵美は歯を食いしばった。奏はその傷口から流れる血を、気の済むまで舐めてくすくす笑った。
「さ……思い切り力を込めてあげる。なに、すぐに麻酔を打つから、痛みはほんの数分ですよ。ふふふ……」
ふたたび血塗れているカッターの刃が、その足首に押し付けられていく。
もう駄目だ……自分はここまでだと、恵美は迫り来る大きな痛みを思って固く目を閉じた。
脳裏をたくさんの顔が横切った。美雪と穂高と正人。麻理子と貴明、……圭吾。
そして────。
「恵美!」
男の声が響き、どかっとものすごい音がした。恵美がおそるおそる目を見開くと、銀色の髪の男が奏を壁に押し付けている。
「とんでもない男だな貴様。思い通りにならないからと言って、足首を切るか普通? こういう男だと見抜いていたから、貴明も私もお前を寄せ付けなかったんだよ!」
雅明は一旦壁から奏の顔を離し、再び叩き込んだ。鈍い音がして、奏は額から血を流しながらその場に倒れた。
「大丈夫か?」
雅明に抱き上げられた恵美は、恐怖で混乱してがくがくと震えるばかりで、それに返事すらできない。
そのまま部屋を出て行こうとする雅明の足を、奏の震える手が掴む。
「行か……せるか! 恵美は、俺のものだ!」
冷たい目で奏を見下ろした雅明は、その手を簡単に蹴りほどき、思い切り踏みつけた。
「ぐ……!」
「ふざけるなよ。卑怯な事をしやがって……! お前のせいでどれだけの人間が泣いてると思ってるんだ」
容赦なく雅明は、奏の腕をぎりぎりと踏みつける。その力が恵美の身体にも伝わってきた。ようやく話せる様になり、恵美は雅明にかすれ声で言った。
「……止めてあげて。奏さんは可哀想な人なの……」
「可哀想な人だったら恵美は結婚するのか? 足首切られて動けなくなっても良いのか?」
「しないわ。だけど、こんなふうになったのは奏さんのせいじゃ……」
「ふざけるな!」
雅明が力任せに奏を蹴飛ばした。奏の身体が床を這い転がる。
「仙崎、お前が親から受けた仕打ちは知っている。私は佐藤圭吾が大嫌いだ。そんな私でもあいつの気持ちは分かる。何故あいつが仙崎の家に帰らなかったかがな!」
「………………」
起き上がろうとして奏は失敗し、膝を床についた。額から流れる血が床にぽたぽたと落ちていく。
「本物が帰ってきたら偽物のお前はどうなる……? 圭吾が仙崎の家に帰ったら、お前の居場所は本当に無くなってしまう。あいつはそれを思って、お前たちと一切連絡をとらなかったんだよ!」
信じられないというふうに奏は雅明を見上げた。雅明の瞳に苛烈さが増し、火花が散った。
「貴様みたいな奴に恵美は渡さない! 返してもらうぞ!」
再び雅明が奏を蹴り上げた。奏はその場に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。
「奏さん!」
「大丈夫だ殺しちゃいない。手加減はしている」
雅明は壊した玄関のドアを肩で開け、マンションの廊下に出た。そのままエレベータに乗り一階に下りる。いつも恵美を捕まえにきた管理人も現れない。何の障害も無く、恵美は雅明に抱かれたまま外に停車していた車に乗った。
車を運転していたのはなんとアネモネだった。
「久しぶりね恵美……あら?」
極度の緊張から開放された恵美は、雅明の腕の中で静かに眠っていた。