天使のかたわれ 第36話

 美雪と穂高は恵美の姿を目にした途端、それぞれ持っていたものを放り出し、思い切りしがみついてきた。

「お母様っ!」

「おかあさんっ!」

 恵美もしっかりと二人を抱きしめた。この数ヶ月会いたくて気が狂いそうだった。子供たちも同じ思いだったとすぐにわかり、そんな気持ちをさせてしまった自分が申し訳なくて、何度も何度も謝った。

「ごめんね、ごめんね……」 

 二人を連れてきてくれた麻理子は涙ぐみ、そのまま貴明と二人で部屋を出ていった。

「寂しくなかった?」

 恵美が聞くと、美雪は怒った。

「お母様のほうが寂しかったでしょう? 私と穂高は皆が居てくれたから……!」   

 子供二人には、前もって事情が知らせてあったので恵美を責めることはなかったが、恵美はそれがとても辛かった。ふたりとも甘えたいさかりで、もっとわがままを言ったりすねてもいい年代なのだ。それなのに母子家庭という境遇も手伝って、二人はある一面でとても大人であることを自分に課している。五歳の穂高でさえそうなのが、健気で痛々しい。

 喜びあった後、久しぶりの親子水入らずの団欒になった。

 話は尽きなかった。恵美は子供たちの近況をすっかり聞きたかったし、子供たちも話したがった。二人は恵美がいなくて寂しい思いをしていたものの、佐藤邸の皆や学校や保育園の友達と楽しく過ごせていたようで、恵美はその点ではとてもホッとした。

 全て話し終える頃には夜になっており、夕食が終わっていた。

 一緒に食器などを片付けていると、美雪が言った。 

「お母様がとても心配だったけど、雅明おじさまがいらしたから大丈夫だと思ってたわ。ね? 穂高」

「うん!」

 穂高がお皿を差し出してくる。恵美は複雑な気持ちで受け取った。

「……そうね。でも、雅明さんにはご家族がおいでだから、今までみたいに馴れ馴れしくしたらだめよ?」

「わかってるわよ」

 美雪は不満そうに頬を膨らませ、つまんないなとつぶやいて、お皿を水で濯いでコーナーに立てかけていく。恵美はそれを拭いて、戸棚に順に片付けていった。

 片付け終わると二人はお風呂へ入りに行く。一緒に入っても良かったが、今日はナタリーと入る約束になっていたらしい。寝る時は一緒だと約束させられ、恵美は迎えに来たナタリーに二人をお願いした。

 二人がいなくなった途端に、部屋はしんと静まり返った。

「雅明さん……か」 

 死んだと思われていた家族が生きていた以上、雅明がそれを見捨てるなどできるわけがないと、三人共わかっている。だから今までのようにこの部屋に来るのは難しいだろう。

 子供二人は本当に雅明によくなついていたので、その分落胆も大きいようだ。父親になってほしかったのは恵美も同じで、すべてが消え失せてとても寂しい。

 世の中には、立派に母一人で子供を育てている人がごまんにいるというのに、自分はできていない。それどころかあっさり誘拐されて、心配までかけ、不安な気持ちにさせている。

 自分は弱い。誰かに寄りかかって安心したくてたまらない。

 不安に押しつぶされそうになり、恵美は必死に胸を抑えた。

(母親失格だわ、私)

 隣の寝室に入ってベッドに腰掛け、サイドテーブルの圭吾の写真を見つめた。

(圭吾。怒ってるのね。私が雅明さんを受け入れようとしたりしたから)

 きっとこれは、心を動かされた罰なのだろう。

 圭吾を愛する気持ちは変わりない。

 でも雅明も愛してしまった。圭吾はもう逢えないから諦めも付くが、雅明には逢える。だが、想い人として逢うことは許されないのだ。

 ギリシャで想いを捨てたはずなのに、どうしてもその想いは消えてくれない。そして消えないその炎が、冷たく恵美を焼いていくのだ。

(皆、また、すり抜けていくのね……) 

 涙がぽろりと零れ落ちた。

 奏が自分を諦めていない以上貴明に頼るしかなく、当分この佐藤邸に住まなければならない。遠く離れたらその距離分だけ、雅明に逢えない切なさが消えてくれるのに、近いぶんとてもつらく感じられる。

(駄目よ。こんなに助けてくれる人達がいるのに、勝手に不幸な人間になって馬鹿じゃないの。あんたは恵まれてるんだから、笑顔でいなさい!)

 子供たちが扉をノックする音がする。

 恵美は急いで立ち上がり、笑顔で扉に向かった……。 

 

 奏は、負傷した頭部を奈津に手当させながら、マンションの管理をしていた部下の男二人に毒づいていた。

「揃いも揃って偽情報にだまされるとは、俺も情けない部下を持ったものだな」

 二人は、恵美が外部との接触に成功して逃亡したという、雅明からの偽情報に騙されて、逃げた先と思われる方向へ車へ出たところを、雅明にマンションへ侵入されたのだった。

 包帯を巻き終えた奈津が言った。

「支配人。もうよろしいではありませんか。恵美さんのことは……」

「よろしいとはなにを? 彼女は俺と結婚するんですよ?」

「支配人……」

 狂気を一瞬目に過ぎらせた奏は、すぐに優しい穏やかさを取り戻した。

「手は打ってありますから、すぐに戻ってくるでしょう」

「手を打った?」

 奈津は奏の専任秘書だが、何から何まで把握しているわけではない。奏はホテル以外の業務には奈津を使うことは滅多になかった。恵美に紹介したのは、結婚したらしょっちゅう顔を合わせるからと思ったからにすぎない。

「あれだけ広い邸で、多人数が出入りしているんだ。俺の手の者を紛れ込ませるのはたやすい」

「そんなに甘くないと思いますが」

「ばれていてもいい。目的さえ達成できればね」

「支配人……」

 奈津が何かを言おうとするのを、奏は片手をあげて止めた。

「貴女はホテルの仕事だけしていればいいんです。恵美に関することは、頼まれた時だけやってください。自発的に何かしようとか考えないように」

「…………はい」

 奏はわずかにふらつきながらも立ち上がった。病院へ行こうと奈津が強く言ったのだが、奏は不要だと切り捨てた。

「それからこれは、仙崎の家には内密に。母の具合が悪くなりかねませんから」

 奈津達は頷く。奏の母の病気は周知の事実で、奏の悩みの種のひとつだ。それだけに、跡継ぎの奏の配偶者に、いやに期待が寄せられている。実家には降るように良家の令嬢の見合いが持ち込まれていた。仙花グループという大企業と繋がりを持ちたい人間はたくさんいる。

 しかし、恵美に執着している奏は、それらを受ける気は毛頭なかった。

 一人になりたいからと全員を下がらせ、奏は気が抜けたようにぐったりとソファに横たわった。呼吸が荒い。ずっと我慢していたが、例の発作が起こって来たようだ。

「薬……」

 汗みずくの額を拭い、奏は悲鳴をあげている身体に鞭を打ってよろよろと立ち上がり、仕事机の引き出しから、白い錠剤が入った小瓶を取り出した。数錠取り出して口の中に放り込み、そのまま飲み下す。瓶の蓋を適当にしめて引き出しに戻し、再びソファに横たわった。

 やがて発作は、ゆっくりと治まっていった。

 普通の呼吸に戻ると、奏は微笑した。

「恵美……。きっと、きっと幸せにしますから。待っていてください」

 自分にはまだ勝算があると奏は思っていた。

 恵美の愛しかけている雅明には、死んだと思われていた家族がいるのだ。優しい恵美のことだから、己の身を引くに決まっている。雅明が何を言おうとそうするに決まっていた。あの男は恵美を愛する資格など、もはやない。そして過去の恋人?だった貴明にはもう妻がいる。二人はどうやっても恵美を手に入れられないのだ。

「圭吾兄さんの代わりに、俺が貴女を護りますから」

 スーツの胸ポケットのスマートフォンが鳴る。奏はそれに出て内容を聞き、今度は声を出して笑った。

「ええ、そのまま実行してください。謝礼ははずみますよ」

 通話を切り、再び胸ポケットにしまう。

 身体は普通の調子に戻っていた。

 奏は机に座り仕事を始めた。

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