天使のかたわれ 第38話
そんなことがあった翌日、ソルヴェイが一人で恵美の部屋へやってきた。その目は遠慮気味ではあるものの、雅明について話したがっているのがすぐにわかった。
「どうぞ、お入りください」
恵美は緊張気味にソルヴェイを部屋に迎え入れ、彼女のためにコーヒーを入れた。麻理子が以前、ソルヴェイがコーヒーを好きだと言っていたのを、聞いたことがあったからだった。
ソルヴェイは、置かれたコーヒーに口をつけず、向かい合って座っている恵美に言った。
「あの、アウグストを誘惑するの、止めていただけませんか?」
「…………、誘惑?」
「困るんです。私とミハエルにはもうアウグストしか居ないんです。それなのにあの人は冷たくて、ドイツへ二人で早く帰れと言うばかりで。聞いたら、貴女と結婚すると触れ回っているとか」
「え、……え」
「貴女は乗り気でないと聞いています。それならきっぱりと断ってください。お願いしますから」
なんと答えたらいいのかわからず、恵美は困惑した。
「貴女はとても男性に人気があって、引く手あまただと聞きました。何もアウグストに拘る必要はないと思います」
「こだわる……」
「そうです。伺ったら、ハリウッドの方や、日本の御曹司の方とかも貴女に求婚されているとか。その方達の中から選べばよろしいのではないですか?」
誰が言ったのだろうと恵美は思いながら、ドイツ人でありながら日本人にしか見えないソルヴェイの容貌を見つめた。長く伸ばされた真っ直ぐな黒髪は、まるでもうひとりの自分だった。
その視線に気づいて、ソルヴェイは軽く笑った。
「アウグストは勘違いしているんです」
「勘違い?」
「そうです。貴女を私だと。私達は死んだことにされていました。寂しさをまぎらわせるために、アウグストは私によく似た貴女を愛していると勘違いしているんです」
恵美は絶句した。そして急激に心が冷えていくのを感じた。そんなことはないはずだが、確かに恵美とソルヴェイは容姿があまりに似通っている。
ソルヴェイは、恵美の置かれている事情をよく知っていた。雅明が説明したのだろう。
「貴女がどこかの御曹司に誘拐されて、それをアウグストが助けたのは知っています。貴女がここにいるしかないということも」
「はい」
「でも、それって変だと思いません?」
「変?」
「そうです。セキュリティなんて簡単に破れるんですよ。日本人の貴女にはわからないかもしれませんけど、私達の住んでいる国では、建物より人に重きを置きますもの」
「そうなんですか?」
「ええ。それにこんなに大人数がいるお屋敷ですもの。すでにええと……その仙崎という男の手の者はメイドの中にもいるはずだわ。日本人は建物に頼って人を頼りにしないんですね」
ありえないと恵美は思った。
麻理子もナタリーも、自分たちの周りの世話をする人間については、徹底的に調べ尽くしているのを、恵美は二人から聞かされていた。奏の息のかかった人間が近寄れるとは思えなかった。
そして同時に、ソルヴェイに対して疑問が湧いた。本当にこんなふうに言ってくる女が、雅明の愛した女なのだろうか。勝手に自分の想い人を威嚇する女を、彼が愛していたとは思えない。人間の性格などそう簡単には変わらないのだから。出方が変わるだけで、根本は一緒のはずだ。
だが。
彼女がすがれるのは雅明だけなのだ。恵美には貴明たちが居てくれる。三人きりではない。なので、不安な気持ちはとても良くわかる。自分も数ヶ月前まではそうだった。この先母子三人でやっていけるか、不安で仕方がなかった。
昨日までは雅明のために会わないようにしていたのに、あんなふうに言われて、気持ちは大いに揺らいでいる。揺れ方は、大学生の時に貴明に流された時のあの揺れ方と同じではない。あの時は貴明の情熱にほだされて、自分の気持を偽った。今は、偽っている自分に気づいて揺らいでいるのだ。
どうしたって今は、雅明を愛している。
それをどうソルヴェイに返事しようかと思っていると、具合の良いことに麻理子がノックの音とともに入ってきてくれた。
麻理子はソルヴェイが好きではないらしく、彼女の姿を目にした途端に硬い笑みを浮かべた。
「こんなところにいらしたの、ソルヴェイさん。お子様がお探しでしたわ」
「もう大きいのですから大丈夫です。
ご足労をおかけしたのに、申し訳ございません」
「別に、貴女を探しにきたわけではありません。恵美さんと内密の話がありますの。出ていってくださるかしら?」
ソルヴェイは面白くなさそうに立ち上がり、すれ違いざまに麻理子を横目で睨みつけて部屋から出ていった。
やや乱暴に扉が閉じられると、麻理子が不満そうに声を低くした。
「なんなのかしらねあの方。招かれもしないのにこの邸に居座って、あつかましいったらないわ」
居座っている恵美は、いたたまれない気持ちになり出されていたコーヒーに目を落とした。麻理子が慌てて言った。
「恵美さんは違いますよ! 勘違いなさらないで」
「わかっています。わかっていますけど……他の人はそう思ってると思います。邪魔なのは私達家族ですから」
「違います! ああもう! あの変な人のせいで空気が悪くて嫌になりますわ……。まったく、貴明もさっさと追い出してくれないから……。変なところで人に気を使うんだからもう!」
どうも麻理子は、恵美に愚痴をめずらしく言いに来たらしい。妊娠六ヶ月に入りメイド服ではなく、妊婦のゆったりとした服装を着た彼女は、それでもキビキビと仕事をしていて、恵美はそんな麻理子を尊敬していた。
「麻理子さん。お腹の赤ちゃんのために、ちょっと休まれたら?」
「ハエが一匹居たら、苛ついて眠れやしません」
ソルヴェイをハエ扱いしている。そうとう嫌いらしい。麻理子がこんなふうに人を貶めるのを見るのは初めてで、恵美は麻理子とソルヴェイとの間に何かあったのだろうと察した。
恵美はりんごとさつまいもを煮てマッシュし、それに干しぶどうとシナモンをふりかけたデザートと、ハーブティーを麻理子のために出してやった。食事制限をしている麻理子は、大喜びでそれを食べた。
「美味しい! 恵美さんってこういうの作るの上手ですよね!」
「ただ煮てふりかけただけよ。お菓子とも言えないわ」
「え? 私には思いつきませんよ。ちゃんとしたレシピがやたらと必要なものばかりしか、浮かびませんもの」
「メイドさんですから、こんな変なの出せないでしょう?」
貴明がこんなものを嬉しそうに食べていたら、お笑いだ。多分甘みが足りないとか文句を言うだろう。アメリカナイズしている貴明は、味覚がイマイチずれている時がある。
「そういえば、赤ちゃんの性別わかったんですか?」
麻理子が母親のような笑顔を浮かべた。
「ええ! 男の子ですって。貴明ってば大喜び」
「そりゃ喜ぶでしょうねえ。麻理子さんも安心ね」
跡継ぎを要求される立場の彼女だ。先日までそれを気にしていたのを恵美は知っている。
お腹を撫でながら麻理子が言った。
「本当はお仕事も休んだほうがいいのかもしれませんけれど、じっとしているのって性に合いませんの」
「そりゃそうでしょうね」
恵美はげんに今その状態だ。麻理子が真顔でじっと見てきたので、恵美は仕方ないからと微笑む。
「それにしても、本当に一体、あの人は私の何がそんなにいいんでしょうね。理解できない。とびきりの美人ならわかりますけど」
まだ奏が諦めていないのを疲れ気味に言うと、麻理子はこてんとと首を横に傾げた。
「だって、恵美さんと一緒にいると、安らぎますもの」
「そりゃ親しい人と一緒に居たら、誰だって安らぐんじゃないんですか?」
「私と恵美さん、会って数ヶ月です。でも私、最初にお会いした時から、ずっと一緒にいたい方だなあと思いました」
「……えーと」
それは初耳だ。
「貴明もそうだし、雅明さんだってそうでしょう。お母様だって。だからなんだと思いますけれど。うちのメイドも言ってます。恵美さんは全部自分でしてしまわれるから、部屋に行けないとかぶつぶつ言ってましたよ」
当然とばかりに麻理子が言うので、恵美は面食らった。
「なんですかそれ」
おもしろおかしく見ているのではなかったのか。
麻理子はだってと言った。
「本当に、恵美さんのところに来ると、ほっとできるんです。また頑張ろうって気持ちがわいてくるんです」
「私、滋養強壮剤じゃないんですけど」
「当たり前です。とにかく、本当に、皆、恵美さんをお慕いしているんです。それを邪魔するあの女は皆に嫌われてますけれどね」
「たしかに私は、雅明さんを誘惑する邪魔者ですから。だから早く出ていったほうが……」
「恵美さん!」
いきなり尖った声で名を呼ばれて、恵美はぎくりと肩を強張らせた。
「貴女は自分を過小評価しすぎです。貴女は、御自分を愛してくださり、慕う皆のためにももっと堂々となさるべきです。お子様のためにもっと気を強く持たれませんと!」
「で、でも。私は、普通の主婦で……。麻理子さんたちみたいに立派な人間じゃ……」
「普通の主婦が駄目で、私達みたいな働いている女のほうが立派だとだれが言っているんです? お金を生み出さない者は皆駄目人間なんですか? そうじゃないでしょう?」
「麻理子さん……」
「お金は大切でたくさんあったほうがいいのは確かです。ですが、あくまで生きる手段に過ぎません。それを使う人間が確かな心を持っていませんと、お金も生きられないんです。恵美さんはそれができる方、だから、自然とそれをもっている人間が、引き寄せられてしまうんだと私は思ってます」
それはそうかもしれないが、と恵美は思ったが、どうやら麻理子や邸の皆にとって、自分は邪魔な存在ではないらしいとわかり、それだけは恵美は安心した。
「ですから、私は心無い人間がお金を持つのを危険だと思っています」
麻理子は女豹のように目をきらりとさせ、恵美の背後の窓際の花瓶にいけられている花を見た。
「私は貴明の気持ちがとてもよくわかります。恵美さんがここにいてくださらないと、不安で仕方ないんです」
「何かあったのですか?」
黙っていたのですがと麻理子はつぶやき、首を残念そうに横に振った。それは彼女の夫の貴明がよくやる仕草で、一瞬彼と麻理子が重なって見えた。
「本当にあの男はしつこいです。油断がなりません」
あの狂気に満ちた奏の目を思い出して、恵美はぶるりと背中を震わせた。
「恵美さんは、どうか、私達を助けると思ってここにいらしてください。あの女の言うことに耳を貸さないでくださいね」
「……はい」
そう言ってはみたものの、隠されている何かが恵美に早くここを出ていかねばと急かしていた。ひょっとすると、自分は佐藤邸の皆をおかしくさせているのではないのかと。この邸で慕われるべきはこの麻理子と貴明なのだ。自分であってはならないのだから……。