天使のかたわれ 第40話
「まったく、いい加減にしてほしいな。早くあの女を追い出せ」
貴明が刺々しく、窓際に持たれて煙草をふかしている雅明に言う。
部屋の隅のベッドで眠っている恵美のそばには、麻理子が居て様子を見ている。
雅明は恵美をちらりと見ただけで麻理子に睨まれるので、彼女に近寄ることもできない。本当に好きなら懇願してでも様子を見るだろうにと、麻理子はますます雅明をきつく睨むが、雅明はどこへ吹く風とばかりに知らんふりだ。おおよそ好きな女に対する態度ではない。先程の恵美を見て心配の表情すら見せない雅明の薄情さに、麻理子は反吐が出る思いでいる。
「タイムリミットは二週間だ。それくらいは許してほしいが」
雅明の返事に、貴明が近くのテーブルをガンと蹴った。
「ふざけるな! 僕には麻理子という妻がいるが、恵美も大事な女だ。こんなふうにされたら親父にも正人にも顔向けができない。よりにもよって、恵美の両親のことを詰りやがって……!」
「実に巧妙だったな……。あんなことをいう女ではなかったんだが」
他人事のように言う雅明に、貴明は花瓶から薔薇を一輪引き抜き、突きつけた。わずかに雅明は薄茶色の目を見開く。
「あれは本当にお前の妻だった女なのか?」
「そのはずだ」
薔薇を挟んで、二人は火花を散らした。
「……恵美のように聡明だった女が、あんなふうに変わるものか?」
「変わるしかなかったんだろうな……」
紫煙を揺らしながら、雅明は薔薇を貴明から受け取り、くるくると回す。その薔薇は精巧に作られた造花で、内部にマイクが仕掛けられていた。
雅明は恵美を放置しているわけではなく、ソルヴェイが居る時だけ、このマイクから恵美の様子を伺っていた。それを知っているのは貴明と麻理子だけだ。
「ソルヴェイは、昔は、私の中の日本そのものだった……」
過去のソルヴェイとの蜜月を思い出しながら、雅明は目を細めた。貴明がふんと鼻で笑った。
「おそらく昔からそうだったんだろうよ。案外、お前との駆け落ちだって、ヨヒアムとソルヴェイ親子の陰謀かもしれんぞ。シュレーゲルの権威を失墜させるためのな」
「そうかもしれないな」
香りもしないのに、雅明は薔薇に鼻を寄せる。
「とにかく僕も麻理子も我慢の限界だ。あの女は何もかもわかってて、こんなふうに振る舞っている。なんとかしろ!」
空気が険悪になっていくので、麻理子は雅明への怒りを忘れてはらはらする。雅明は先程から、貴明を怒らせようとしているようにしか見えない。
「だが、それでもソルヴェイは私の愛した女で、ミハエルは息子だ」
「そんなことを言っているんじゃない! 恵美を傷つけないようにしろと言ってるんだ!」
貴明が乱暴に雅明の手から薔薇を奪い取って、花瓶に再び刺した。
ふうと雅明はため息をつき、煙草を近くの灰皿に押し付けて火を消した。
「恵美は大丈夫だ。これしきで参りはしない」
完全に貴明の怒りのスイッチが入った。
「本気で言っているのなら、兄のお前でも殴るぞ!」
鷹のように鋭い目で雅明をにらみつける。対して雅明の瞳の色は凪いだままだ。
「本気だ」
聞くが早いか貴明が雅明を殴り、麻理子が悲鳴をあげる。殴られた雅明は花瓶にぶつかり、花瓶がカーペットの上に落ちて転がった。薔薇も水もぐちゃぐちゃだ。
ぶるぶると拳を震わせながら、貴明が人差し指を突きつけて命令した。
「雅明、お前に恵美を愛する資格はない。さっさとあの女と息子を連れて、ここから出て行け!」
口の中を切ったのか、雅明は口の端から血を流しながら何も言わずに立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。
ドアが閉まると麻理子は貴明に近寄り、拳を開かせた。
「大丈夫なの貴明……?」
「知るか! 勝手にしたらいいんだ。僕にはもうあいつがわからない。とにかく恵美が大事だ。あんないい加減な男は駄目だ」
「……どうなさったんでしょう。先程恵美様に拒絶されたのがショックだったのかしら?」
「あんな奴。拒絶されまくればいい。僕は仕事に戻る」
そこまで言って、貴明は顔色が良くない麻理子に声をやわらげた。
「麻理子、お前は休め。心労は子供に良くない」
「でも、恵美さんは」
「別のメイドを呼ぶ。当分目は覚まさないから大丈夫だ」
「はい……」
麻理子は納得していなかったが、自身の疲れを感じていたので、貴明に従った。軽くキスをして貴明は部屋から出ていく。
兄弟姉妹がいない麻理子は喧嘩などしたことがないので、二人が険悪なままだったらどうしようと不安だった。
翌日目を覚ました恵美は、麻理子から昨夜の諍いについて聞いた。
「貴明が……雅明さんを殴ったの?」
「あの言い方は無神経すぎたと思います。私でも平手打ちをお見舞いしたいくらいでしたもの」
「……なんか」
「なんか?」
変だと、恵美は言いかけて口をつぐんだ。この間の雅明の求愛の時と、えらい違いの態度だ。まるで別人のように。
(まって、別人?)
恵美はソルヴェイと雅明を脳内で並べ、考えた。明らかに釣り合っていない。容姿とか身分とかそういうのではなくて、雰囲気が違いすぎる。
「……ソルヴェイさんの十代の頃のお写真とか、あるかしら?」
「さあ? 貴明なら調査かなんかで持ってるかもしれませんけど、今はカンカンですから無理です」
「そう。ごめんなさい」
「恵美さんが謝る必要なんて、一ミクロンもありません。みーんな、あの雅明さんが悪いんです。ちょっとはいい人なのかと思ってただけに、腹が立って腹が立って」
妊婦なので感情の制御がうまくいかないようだ。恵美はそんなふうにさせている自分が悲しくなった。こうやって、人を災いに巻き込んでいるのだろう。
「麻理子さん。本当に私のことは大丈夫ですよ?」
「何を仰ってるんですか! 病気は治りましたけど、あの仙崎奏はぜんぜん大丈夫じゃないです!」
「そりゃそうですけれど、一度彼と会って話をしたみたいんです」
とんでもないと麻理子は首を横に振り、恵美の両手を握った。
「先に言っておきますけれど、恵美さんに言い寄る連中は皆貴明が追い払いました。しつこいのも居ましたけどね」
「それなら」
「でも仙崎奏はまったく話に応じません。こちらの話に耳を傾けようという姿勢すら見せません」
「…………」
「ですから……」
「私が、話をしたいと伝えてもらってもですか?」
「危険です」
「誰かつけてもらったら……、たとえばアネモネとか」
「雅明さんのお仲間とかいう女性ですか?」
「ええ、ギリシャではしてやられたから、きっと今度は何が何でも守ってくれると思います」
麻理子は自分のスマートフォンを取り出し、自分のお付になっているみどりを読んだ。すぐにみどりはやってきて、アネモネは有能でガードマンとしては最適だと答えた。
「みどりが言うのなら信用するけれど、貴明には伝えます」
「構わないわ。当然ですから」
「恵美さん」
麻理子がうつむく恵美の顔を覗き込んだ。
「なんですか?」
「恵美さんはご存知ですよね? 私の両親が従兄に殺されたことを」
「……はい」
「今でも時々夢に見ます。幸せだった頃からいきなり不幸の暗闇に転落して、苦しんで、私はそれから逃れたくて走っているんです」
「今でも?」
「ええ、今でも。決して癒えません。薄れはしても忘れません」
麻理子に両手を握られる。そこからは何かが流れてくるようだった。
「恵美さんはご自分のせいで、ご両親や先代、正人様が亡くなったと思っておいでなんでしょう。でも、それはただの思いこみです。一方、私の両親は、確実に私のせいで亡くなりました。私との結婚を申し出た従兄を、両親が拒否したからです」
初めて聞く話に恵美は目を見張った。
「私を不幸だと思いますか?」
恵美にはその質問は重くて答えられない。両親が殺されたことは確実に不幸だ。だがそれを今口にすることは、麻理子の矜持を傷つけることにほかならない。今まで麻理子は、その影を人には決して見せなかったし、これからも見せないだろう。
「私も恵美さんもとても幸せです。こんなに愛されて、愛して、幸せではないなんて、誰が言うでしょうか」
言いたいことはわかる。
けれども、だからこそ恵美は、貴明や麻理子を傷つけたくないのだ。二人に幸せに暮らしてほしいと、心から願うのだ。