天使のかたわれ 第43話

 自分の身体が腐っていく感覚とは、こういうのを言うのだなと、恵美は突き上げを受けながら感じる。

 そして、心底望まない交わりというものが、この世に存在するのだと。

 圭吾や貴明に無理に抱かれた時でも悦楽を感じていた自分は、一体何だったのだろうか。わからない。若かったからなのか、精神を麻痺させていたのか……。

「あぁ……っ!」

 座位で後ろから貫かれていたのを、今度は向かい合わせにされて再度貫かれる。何度も吐き出された白濁で、結合部分はぬちゃぬちゃと淫靡な音を立てる。

 奏はしつこかった。

 一体どれほどやれば気が済むのか、また、何時間経っているのか、時計が見当たらないのでわからない。

 ただなんとなく、部屋が明るくなってきたような気がする。

「やはり……貴方は、いい」

 抱きしめる奏が耳元で囁く。

 好きでもない男の褒め言葉に、一層、身体は腐敗を訴えた。

 でも仕方ないのだ。

 小山内恵美は仙崎恵美になった。

 自分は仙崎奏の妻。夫婦ならこうして当たり前だ。拒否すれば恐ろしい何かが待っている。

 想像しかけ、慌ててそれを打ち消した。

 それなのに心は持ち主を無視して、勝手にめちゃくちゃに乱暴される雅明が浮かべる。

 違う! それはない。だって奏もソルヴェイも、雅明を売らないと約束してくれた。そう信じたいのに、本当に約束を守ってくれるのかと、誰かが疑う。

「や……っ」

 胸の先を甘く噛まれて仰け反る。すると奏は楽しそうに笑って恵美をベッドに倒して、足を抱えあげて狂ったように突いてきて、頭の中がかき回されているかのように、何も考えられなくなる。

「もっと狂って……俺に堕ちればいい」

 そう言う奏の目には狂気が宿っている。

 似た顔なのに圭吾とは全く違う。圭吾の瞳はいつも人を惹きつける炎が燃えていた。こんなふうに狂った光を宿したりしなかった。

 愛せるはずなどない。何も惹かれない。

 何度目かの白濁が吐き出された。

 

 泥のように眠って目覚めたら、もう昼過ぎになっていた。すでに起きていた奏が恵美に振り向いて、優しく微笑む。

「シャワーを浴びてきたらいい。そして昼食を取りましょう」

 恵美は黙ってうなずき、部屋の奥にあるバスルームへ入った。ただただだるい。

 全身の鏡を見て悲鳴を上げそうになった。

 おびただしい数の赤いあざ。柔らかな白い肌一面にそれは散らばっていた。同時にどくりと注がれたものが粘着質な音を立てて内腿を伝っていく。

 吐きそうな気分にとらわれ、恵美はあわててバスルームに入ってシャワーの湯を出した。

「…………」

 ずっとバスルームから出たくなくても、そんなわけにはいかない。しぶしぶ脱衣所に出てタオルで身体を拭く。すると服を入れる籠に見知らぬ新しい服が置かれていた。

 曲線を強調した高級ブランドのそれは、恵美の好みの服ではなかった。それでもそれしか着る服がないので、仕方なくそれを着て出ると、奏がうれしそうに抱きしめてきた。

「よく似合っていますね」

「……ありがとう」

 反抗すると何をされるかわからないので、恵美はそれだけを言った。奏は満足そうにうなずき、用意させた昼食を恵美に勧めた。食欲などまったくなかったが、黙って事務的に口へ押し込む。なんとか食べ終わると、秘書の奈津がドアをノックして部屋に入ってきた。

「奈津にメイクアップしてもらってください。これから俺の両親に紹介しに、家へ行きますから」

「今日!?」

「だってそうでしょう? 俺と貴女は結婚したんだ。すぐに報告しないとね」

 あんまりにも早すぎると恵美は思ったが、何も言わずにドレッサーの前に座った。奈津が挨拶もそこそこに髪を整え、化粧を施していく。終わると、奏の隣に並んでも遜色ない女性ができあがっていた。

(こんなの私じゃないわ)

 内心でそう呟いたが、恵美は奈津に礼を言った。奏が手を差し伸べてきて、嫌でたまらなかったが自分の手を重ねる。

(我慢しなきゃ……)

 逃げ出したい気持ちを必死に押さえ込み、ホテルから車で仙崎の屋敷へ向かった。

 仙崎の屋敷は平屋建ての広大な敷地を持つ、奥ゆかしい日本家屋だった。何から何まで洋式で華やかで明るかった佐藤邸とはまったく違い、重厚さだけが嫌に漂っている。

 長い木の廊下を歩いて母屋へ案内され、広い和室に入った恵美は、それだけでもう帰りたくなった。

 ただただ、場違いだと思う。

 しばらく経って奏の両親が部屋へ入って来た。美和子は例の松島という男に横抱きにされていて、背もたれのついている座布団に座り、奏の父の敦史がその隣に座った。いかつい顔つきは奏にまったく似ていなかった。

 美和子はうれしそうににこにこしていたが、敦史はそうではなかった。恵美を見るなり、

「本気でこんな女と結婚するつもりか?」

 と言い放ち、出て行けと言わんばかりに、手のひらをひらひらとさせた。

「あなた! なんてことを言うの!」

 美和子が抗議の声をあげるが、敦史は鼻で笑っただけだ。

 奏は涼しい顔で言った。

「こんな女ではありません。妻になる恵美です」

「その女については調べさせてもらったが、素性が知れない捨て子で、さらには佐藤グループの前の社長と今の社長の子供が居るそうじゃないか。そんな尻軽女をお前の嫁としては認められんな」

「二人は俺の子供にします」

「奏。お前は正気を失っている」

 苦虫を噛み潰したような顔をした敦史は、肩身狭い思いをしている恵美に冷たい視線を向けた。

「お前。男をたぶらかすことだけは一流のようだが、ほかは三流以下だ。奏がうるさいから一月は仙崎の嫁の教育を受けさせてやるが、ま、どれだけ続くか見ものだな……!」

 敦史は恵美が名乗るのすら許さなかった。ただ、恵美が両手をついて頭を下げると、ふんと言って、そのまま席を立って部屋を出て行った。

「ごめんなさいね恵美さん。あの人はいつもああなの。悪い人じゃないのよ?」

 美和子が優しく恵美を励ますように言う。

「貴女がすばらしい女性なのは、圭吾が選んだことからわかるわ。だからきっと花嫁教育も平気よ」

「ふつつかな私ですが、よろしくおねがいします」

「夕食で会いましょう。ではね、奏も」

「はい、また後で」

 松島が再び現れて美和子を抱いて出て行くと、恵美も奏に連れられて母屋を出、これからすむ事になる離れにつれて来られた。離れは母屋ほど息詰る空間ではなく、恵美はほっとした。

 中年の女性が入ってきて、お疲れ様でしたとお茶菓子やお絞りを持ってきてくれる。

「恵美。こちらはうちで働いてもらっている坂野亜梨沙さん。結婚していて、夫の昇さんは運転手をしてもらっている」

「恵美です。よろしくお願いします」

 恵美が頭を下げると、亜梨沙は慌てた。

「若奥様。私たちに頭を下げる必要なんかございませんよ。いろいろございますから、最初は戸惑われるかもしれませんけれども、おわかりにならないことは何でもお聞きくださいませね」

 亜梨沙は恵美を歓迎してくれているらしい。恵美はそれにほっとして、お世話になりますとまた頭を下げた。

「さっそくお給仕からお教えしますから、16時に厨房までおいでくださいませ」

「わかりました。よろしくお願いします」

 仙崎の嫁になるのは、どうやら大変なことらしい。

 二人きりになると、奏が謝った。

「すみません。父は昔かたぎの人間なので、いちいちうるさいのです。なるべく俺もフォローしますから」

「気にしていません」

 恵美はなんでもないことのように言い、奏の謝罪を受け付けなかった。奏は傷ついたように顔を歪ませたが、無理に婚姻届にサインさせたような男に好意的になれるはずもない。

 夕食では、恵美は同じ席に着くことどころか食事さえできなかった。敦と奏と美和子の給仕をずっとさせられ、彼らの食事が終わると厨房で食べるのだという。昔、そういう話を小説やテレビなどで読んだことがあるが、実際にいまだにやっている家庭があることに恵美は驚いた。

 食事中、ずっと恵美は敦史や美和子から注意を受け続け、奏に庇われた。それが気に入らないのか敦史は機嫌が悪い。美和子は悪意はなさそうだったが……。

 食事を終えると、敦史は恵美が出したお茶をまずいと言って、同じく恵美が用意したデザートにぶちまけた。

「この女……まったくなってないな。坂野さん、人前に出しても恥ずかしくないように躾けてください」

 坂野はお任せくださいと頭を下げた。

「そうだ」

 亜梨沙に新しいお茶とデザートを出させた後、敦史は奏に言った。

「その女の子供だが、佐藤貴明が自分の子供にして育てると言って来た」

「な……!」

 驚いたのは恵美だけではなく、奏もそうだった。

「どういうことですか! 彼はもう結婚している。そんなところに」

「知らんが、都合がよいではないか。あちらの種の子供二人など、うちに引き取ったところでうっとうしい悩みの種にしかならんよ。すっぱり縁を切るんだな」

「馬鹿な! 母親が親権を握るべきでしょうが!」

「世間一般ではな。そんな尻軽女の馬鹿ぶりでは、裁判したところでまともな教育など無理と判決されて、向こうに取られるだろう。いいじゃないか、母親より父親の方が余程しっかりしているのだから」

「しかし!」

 奏の抗議も敦史の前では無力だった。力関係は敦史のほうが上なのは見ていて明らかだ。美和子は残念だわと言うだけで、おとなしくデザートを口に運んでいる。

 敵だらけだ。

 亜梨沙の気遣う視線を頬に感じ、恵美は壊れてしまいそうな心を必死に押し殺した。

 そうだ、こんな家に連れてこられるより、佐藤邸に居たほうが二人はのびのびと楽しく成長できるに決まっている。

 奏と敦史の言い合う声は食事中続き、恵美は黙ってそれを聞いていた……。

 給仕が終わった後、恵美が厨房の片隅で食事を一人で取っていると、亜梨沙がお茶をいれてくれた。

「大変でしょうが、慣れればなんてことありませんからね」

「はい」

 恵美はむしろ敦史らと一緒に食事のほうが苦痛そのものなので、一人で食べる方が有難かった。これが続くのならなんとかやっていけそうだ。

 だが。

 子供と圭吾、または正人や雅明と一緒に食べる食事は本当に美味しかった。

 ここに居る限り、そんな日は絶対に来ない……。

 あの場でサインをしたのは軽率だったのだろうか。また、やはり貴明や麻理子の言うとおりに、佐藤邸にずっといればよかったのだろうか。

 もう過ぎたことだ。考えて無駄なことだと首を横に振る。

 貴明と麻理子には悪いが、子供二人の世話を頼むしかない。子供たちにも我慢してもらうしかない。むしろ、こんな母親は居ないほうがいいのかもしれない。

 とことん考えが後ろ向きになるが、ここに居る以上は幸せなど望めそうもなかった。

(いいえ!)

 子供たちを捨てておいて、自分だけが幸せになるなど、とんでもない事だ……。

 箸を置くと、亜梨沙が顔をしかめた。

「もっと食べなければ、奥様の身体が持ちませんよ! こんなにまだあるじゃありませんか」

「もとから食べられないんです。お気になさらず」

 恵美は笑顔を貼り付けて、言いつけられた通りに全員の食器を洗っていく。こんな時、あの家に住んでいたら子供たちと洗って楽しかった。たまに雅明が手を滑らせてお皿を割ったりして、わざと怒ると子供たちが大笑いし、二人も笑って……。

(駄目ね。私ったら……)

 すぐに思い出してしまうのは未練があるからだ。

 自分の心の弱さが、恵美は腹立たしかった。

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