天使のかたわれ 第44話
奏が仕事を終えて実家へ帰ると、亜梨沙が出迎えた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま池谷さん。今日はどうでしたか?」
奏の質問に亜梨沙の顔は曇った。
「お勉強をされている他は、ぼんやりとされているだけで……。食事もあまり召し上がっていらっしゃいません。一度奏様からご注意なさってください」
「慣れない環境で戸惑っているんでしょう」
「旦那様がまたきついことをおっしゃってました」
「そうですか。引き続き助けてあげてください。俺からも言います」
「はい」
もう夜の七時も過ぎているというのに、離れは真っ暗だった。奏が電気をつけながら廊下を歩き、居間に入ると、恵美は畳の上に座布団を敷き、壁に持たれて宙を見つめていた。照明をまぶしそうにしたあと、奏の帰宅に気づいて、さっと立ち上がった。
「……おかえりなさい」
「ただいまかえりました。どうして電気をつけないんですか?」
「つける必要がないから」
恵美はそう言い、いつもするように亜梨沙の居る厨房へ電話し、奏の夕食を持ってくるように言った。
一週間ほどは敦史達と食事をしていたが、あまりにも恵美への扱いがひどいので、奏が別にしたのだった。
奏の着替えを手伝う仕草は手慣れていても、心は全くこもっていなかった。かといって仕方なくやっている風でもなかった。ただ、ただ、恵美の奏を見る目は空虚だった。
「坂野さんが、料理が口に合わないのかと心配していました。どうして食べないのですか?」
「……多すぎるから」
ぽつりと恵美は言い、奏のスーツを続いている隣の部屋のたんすにしまった。
亜梨沙が夕食を運んできて、恵美が手伝って配膳する。仙崎の家の嫁教育としてこの一月の間やらされているので、最初の頃に比べて見違えるように上手になった、が、やはりそこは空虚しかない。温かみも冷たさもない雰囲気に、亜梨沙が気づかわし気に奏を見る。奏は安心させるように亜梨沙に微笑み、退がらせた。
恵美は極端に少食になった。奏の五分の一ほど食べただけで、もう箸を置いてしまう。
「それだけでは少ない。もっと食べなければ、体力が持ちませんよ?」
「心配はいらないわ。皆覚えてるし、褒めてもらってるわ」
それは全くの事実で、華道、茶道、社交術、マナー、いずれの講師も恵美は飲み込みが早いと褒めていた。奏は素晴らしい伴侶を得たと、口をそろえて言う。美和子は手放しの喜びようで、文句を言うのは敦史だけだ。
奏は箸を置いた。
「父が、俺が居ない間に、なにか言いましたか?」
「何も」
恵美はそっけなく返事する。奏が見つめても、恵美は自分の前の夕食を見ている。食べもしないのに見ているだけなのだった。
一月経っても、奏の父の篤史は恵美との結婚に大反対していた。追い出しはしないものの、恵美が居る前で、然るべき家の令嬢をと見合い話を持って来たりもする。だから、様々な講師を雇って恵美を教育し、なんとか父親に認めさせようと奏は躍起になっていた。
奏が手を伸ばすと、恵美は黙ってされるがままになって、抱き寄せられた。
「すみません。あんなに父が頑固だとは思っていませんでした。子供のことも…」
その言葉を聞いた恵美は、涙をみるみる目に浮かべて溢した。会いたくてたまらないのだろう。何度も何度も奏は謝り、背中をあやすように撫でる。
「今は駄目でもいつかは絶対に……」
「いいんです。そんなことは、もう」
「いやよくない」
「もう……いいの」
子供を何よりも大切にしている恵美に、この仕打ちはひどいものだと奏も今ではわかっている。マンションでの恵美はまだ覇気があり、憎まれ口も叩くぐらいの元気もあった。それなのに今の恵美は、ただ生きているだけで、未来へ何の希望もない抜け殻のようだ。
マンションで元気だったのは、奏から逃げられるという希望があったからだ。今はそれがない。奏との婚姻届にサインをし、雅明が居ない今、助けなど永遠に来ない。
愛する者が居ない世界など生きている意味がない。未来などどうでもいい。自分などいつ死んでも構わないから、食事がおざなりなのだ。
奏は何度も貴明に交渉して子供を引き取ろうとしたが、恵美を一人でこちらへ寄越さなければ応じないと強気だ。親権は母親の恵美にあるのだから、あっさりと引き取れると奏は思っていたが、そうはうまく行かなかった。恵美の既往歴を貴明側が指摘したからだ。精神的に恵美はもろい上、病弱なのだ。
(強引な婚約でも、いつかきっとこの人も父もわかってくれる)
奏はそう信じている。
また、そう思わなければ、愛する人と共にいるのに愛されないという地獄には、耐えられそうもなかった。
恵美は何も奏から欲しがらない。
欲しいものを買い与えようとしても、全て持っているからと言う。
想いを伝えても、空虚な心で微笑むだけ。
そんなものを奏は望んでいたのではなかった。
「愛しているんです。恵美、本当に心から」
「ありがとうございます」
ちっともうれしそうでない恵美に、奏の心は深く傷ついていく。でも仕方がない、愛する雅明から無理矢理引き離したのは、他でもない自分であったのだから。
「お子さん二人は元気そうですよ」
「そうですか……」
子供のことを話す時だけ、恵美は表情を見せる。とても寂しそうに。
奏の心は、乾いて潤わない砂漠のようだった。
翌日も、いつもと変わらない毎日が始まった。
表情のない恵美に送られ、父親からは恵美と別れるように言われ、必死に仕事をする。
頑固な父親になんとしてでも結婚を認めさせなければならない。
そして、自分を兄の圭吾だと思い込んでいる母の美和子に、本当は兄ではなく、奏だと悟ってほしい。
なんとかして恵美に愛されたい。
身体を重ねられたのは、婚姻届にサインをもらった日だけだ。
あの初めて会った日のように、子供たちに向けていたような太陽のようなほほ笑みを浮かべて、自分を安心させてほしい。そして心通う交わりを────……。
それなのにそれは、どう手を伸ばしてもつかめない。
ホテルの仕事は順調だ。それだけが救いだ。
だがどこに居ても、奏を苛むものがあった。それが恵美を触らせまいと暴れるので、抱けないのだった。
「く……っ!」
いつもの発作だ。
突然身体がかっと熱くなったかと思うと、動悸が激しくなり立っていられないほどの脱力感に襲われる。汗が恐ろしいほど滲み、それはソルヴェイからもらった薬でなければ治まらない。しかし数日前から彼女と連絡がとれなくなっている。ドイツへ帰って、もう奏などどうでもいいと思っているのかも知れない。
それでは困る。
悲鳴を上げる身体を叱咤して、いつもの引き出しから効くかどうかもわからない薬の瓶を取り出し、何錠も口に放り込んで噛み砕く。死んでしまいそうな恐怖におののきながら、その場にうずくまって、ただ嵐が通り過ぎるのを待つ。
秘書の奈津は、幸い奏の言いつけた用事で席を外していていない。
頻繁に発作が起こっているのが知れたら、今の地位を奪われかねない。誰にも知られてはならなかった。
今の、たかだかホテルの総支配人程度では、できることは知れている。
なんとしても頂点を、仙花グループを手に入れるのだ。
そうしたら、もう怖いものなどない……。
あの佐藤貴明もしのげたら、きっと幸せになれるはず。皆認めてくれるはず。
「苦しそうだねえ。思いっきり麻薬の断薬症状だな」
聞き覚えがある声に、何故こんなところにこの男がと奏は発作に苦しみながらも、かすみがちな目で声がした壁際を見た。
そこにはドイツへ帰ったはずの恋敵、石川雅明が両腕を組んで凭れていた。