天使のかたわれ 第48話
「恵美様、奥様がご一緒に外出をと申されております。お着替えください」
いつものお茶の稽古の後、亜梨沙にそう言われ、恵美はありえないその言葉に首を軽く傾けた。
「……奏さんが良いと言ったの?」
奏は美和子と恵美の接触を嫌がっていたはずだ。どういう心境の変化だろう。
「もちろんですわ」
亜梨沙は恵美のクローゼットから、品のいいスーツを出して、恵美に手渡した。
「…………」
最近の奏はずっと体調が悪そうだ。悪そうだと想像するしかないのは、具合が悪くなりかけると奏が母屋にある自分の部屋へ引っ込んでしまうからだ。恵美に心配をかけたくないというより、知られるのを恐れているようだった。
何を恐れるのか恵美にはわからない。男のプライドかなと思ったりもしたが、もっと根深いな何かだと恵美の深い洞察力が告げていた。
「あの、奏さんは今日はいつお帰りなんですか? 朝いつの間にか出社されてしまって……」
「さあわかりません。秘書の方ならご存知でしょうが。さ、早くお着替えください。私は奥様を見てまいりますので」
取り付く島もない。恵美はいったい何なのだろうと思いながら、スーツに着替え、軽くメイクをして髪を後ろに纏めた。
じきに亜梨沙が迎えに来るだろう。
恵美は座布団に座り、なんともなしにため息をついた。
ずいぶん久しぶりの外出だ。監禁されているわけではないので、出かけようと思えば亜梨沙について来て貰えばできたのだが、ずっと気分が滅入っていたのでまったくしていなかった。昨年も佐藤邸に引き取られてから、ギリシャ旅行以外ではずっと引き篭もっていた。
「私って、こんなに屋内が好きだったかしら?」
子供達と暮らしていた頃は、なんやかやと外へ出ていた。その辺の散歩などは雨の日以外は必ずしていたし、近所のみちえ達の家に行っておしゃべりを楽しんでいた。それが今ではこんな有様だ。
「圭吾や正人が見たら……怒るかもしれないわね」
子供のためを思うのなら、もっと自分に気を配れと。雅明に言われたっけ……。
雅明を思い出した途端に涙が浮かびそうになって、恵美は慌てて考えるのを止めた。大丈夫だ。雅明はちゃんと佐藤邸に返してもらえたはずだ。元気にやっているはずだ。何も心配ない。
しばらくして亜梨沙が戻ってきた。
「すみません。だんな様に今来客があって、奥様が同席される必要があるので、先に行っていてくださいとの事です」
「あの、どこへ行くんですか?」
「〔あやめ〕という料亭です。予約時間がありますので、先に行かれてお待ちになったほうがよろしいですわ」
「……そうですか」
それなら仕方がない。しかし、一人で外食してもおいしくない気がする。
「私もご一緒します」
亜梨沙がにっこり笑ってくれたので、それならばと恵美は腰を上げた。
久しぶりの外出はいい天気だったのもあり、気分が晴れ晴れした。凍てつくように寒くても、太陽の光を見上げるだけで心が幾分かは浮上してくれる。
「〔あやめ〕は、お寿司がとても美味しいんですよ。それを目当てに訪れる人が大半なんです」
「そうなんですか、楽しみね」
数十分ほどで料亭に着いた。歓楽街の中にあるのだろうと恵美が思っていたとおり、〔あやめ〕は一等地に広い庭園を持つ、大きな料亭だった。老舗らしい趣のある門を潜って石畳をしばらく歩くと、美しい所作の仲居が二人を出迎えた。
「仙崎様。ようこそお越しくださいませ。先ほどからお連れの方がお待ちでいらっしゃいます」
「連れ?」
差し出されたスリッパを履いて亜梨沙に振り向くと、亜梨差はよくご存知の方ですよと意味深に笑った。
誰なのかまったく想像がつかない。
中は沢山の部屋があり、案内されなければ迷いそうになるほど入り組んでいた。繁盛しているらしくどの部屋も客の気配がする。廊下から見える庭はどれも見事なものだった。
「こちらでございます」
不安半分期待半分で一番奥の部屋に入った恵美は、そこで出迎えてくれた子供二人にびっくりした。
「……美雪、穂高!?」
夢ではないかと恵美は目を擦った。だが二人は本物で、大喜びで恵美に抱きついてきた。
「お母さん!」
「かあさん!」
三人とも大泣きをした。泣かずにはいられなかった。恵美は泣きながら二人を置いて結婚したことを詫び、二人に叱られながら、その頭を何度も何度も撫でた。
人が居るからとか考えられない。ただ、この温かさを感じていたい。三人とも同じ思いだ。
ひとしきり泣いた後、美雪が言った。
「お母さんは悪くないよ。だって、悪い人から雅明おじ様を守ろうとしたんだから……」
恵美は自分のハンカチで、美雪の涙を拭き取ってやった。
「いいえ、貴方たちを置いて出て行ったのは、悪かったわ」
「でもこうして会えたもの。それに、お母さんがいなくて私も穂高も寂しかったけど、貴明おじさんも麻理子お姉さんもよくしてくれる。だから、私達は大丈夫なの」
「そう。お礼を言わなきゃね」
ぎゅっと穂高が恵美の腰に強く抱きついた。
「雅明おじちゃんも遊んでくれるよ」
「そうなの。よかったわ……」
雅明はやっぱり無事なのだ。恵美は心の底からほっとした。同じ言葉を、マンションから救い出された時に聞いた気がする。恵美は貴明や麻理子や雅明に深く感謝した。
美雪がようやく泣き止んだ。
「お母様は大丈夫? 奏って人にひどい事されていない?」
「大丈夫よ。その人が今日私達を会わせてくれたの。さあ、もうじき仲居さんが料理を運んでいらっしゃるから、あちらへ座りましょうね」
恵美は奏に初めて感謝しながら、二人に言った。
料理が次から次へと運ばれてくる。二人とも大喜びだ。
「恵美様」
「何?」
恵美は子供のためにお茶を入れてやって、隣に座った亜梨沙にも湯飲みを手渡した。
「恵美様は、食事が終わりましたら、このまま佐藤邸へお帰りください」
恵美は顔を強張せた。亜梨沙も微笑んではいない。
「どういうこと? 皆それを承知しているの?」
「もちろん奏様には内緒です。詳しい話は雅明様からお聞きください」
どうやら亜梨沙は雅明と繋がりがあるらしい。
しかし、ソルヴェイやアネモネの豹変振りを経験して、悲しいことに恵美は亜梨沙の言葉を鵜呑みにできず、何かを企んでいるのではと疑ってしまう。亜梨沙があの二人と繋がりがないと、誰が言い切れるだろうか。自分まで売られるようなことになったら、今度は子供達も危険に晒すかもしれない。
「……私は仙崎の家へ帰るわ」
「恵美様!」
恵美は首を横に振る。
愛していなくても、奏は結婚している夫なのだ。
前のようにマンションで無理に監禁されているのではなく、正式な夫婦なのだから、こんな形で逃げるというわけにはいかない。暴力でも振るわれていたら別だが、奏はその点では誠実な夫だった。身体をつなげたのもあの日だけで、あれ以降は恵美を思いやって抱きしめるぐらいしかしてこない。
そんな日は永遠に来ないというのに、奏は恵美が振り向いてくれるのを待っているのだ。
だから早く悟って欲しい。奏を幸せにする女性は他にいるのだと。
その思いが恵美を空虚な状態から生き返らせた。
奏の本当の幸せのために、自分の家族の幸せのために。
恵美は、料理を頬張る子供達を見やりながら、言った。
「それに美和子さんにも、現実をお伝えしたほうがいいわ。あの方は、まだ奏さんを圭吾だと思ってる。圭吾は死んだのだと、わかってもらわないといけないわ。私と子供たちを会わせようとしてくださった方なんですもの、わかってくださるかも……」
甘い考えだと思いつつも恵美が言うと、亜梨沙もそれを否定した。
「危険すぎます。美和子様は正気ではないんですよ?」
それはよくわかっている。奏と恵美の結婚を望んでいるのにも関わらず、恵美をあからさまに苛め続ける敦史に何も言おうとしない、いや、虐めだとまったく気づいていない美和子の精神状態は明らかに異常だ。
だが。
「そうやって、皆で美和子さんを隠し続けてきたんでしょう? 奏さんが小さなうちはそれでよかったかもしれないけれど、もう限界を超えてるわ。このままでは誰も幸せになれない。亜梨沙さんだってわかってるはずよ」
「でもそれは、そこまで恵美様が気遣われることではありません。このまま佐藤邸にお戻りになって……」
足音と車椅子の音が近づいてきて、恵美と亜梨沙は口をつぐんだ。仲居が障子を開ける。
「もうお一人の、お連れ様をお連れしました」
車椅子を松島に押させて、美和子が入ってくる。亜梨沙が肩を落としながら恵美の後ろに下がった。
「遅れてごめんなさい。まあまあ……うふふ、にぎやかそうね」
そう言いながら美和子は部屋を見渡し、美雪に目を留めた。
「まあ! 貴女が美雪ちゃんね!」
「はいそうです」
「うれしい! 会いたいといっているのに圭吾が会わせてくれなくて……。私は圭吾のお母さんで、貴女のおばあちゃんになるの。ああ! 顔をよく見せて頂戴!」
美雪は戸惑ったように恵美を見たが、恵美が頷いたので美和子のそばに歩いていった。美和子は微笑みながら美雪をそっと抱きしめた。
「本当にこんなにかわいい孫がいるのに会えないなんて……。あら?」
美和子の目線が穂高に行くと、その表情ががらりと変わった。
「あなたは誰?」
「僕、穂高。美雪おねえちゃんの弟だよ」
「弟……?」
その言葉の意味を美和子はよくわからなかったらしく、美雪を放した。美雪が言った。
「そうです、穂高は私の弟です」
「……弟?」
「はい。だけど、圭吾お父さんが亡くなった後、穂高は生まれたから────」
「うそおっしゃい! 圭吾は死んでなどいないわ」
美和子が豹変した。恵美は怯える子供二人を自分の背後に隠し、美和子に言った。
「美和子さん。圭吾はもう五年も前に亡くなりました。今貴女の家にいるのは奏さんです」
「奏? 誰よそれ……知らないわ! それより恵美さんこれはどういうこと? 貴女、圭吾がいるというのに他の男の子供を生んでいるの? 恥を知りなさいな!」
怒鳴る美和子に恵美は首を横に振る。松島が美和子を刺激しないようにと目配せしてくるが、恵美は無視した。
もう限界だった。自分達中心の夫婦も、それの犠牲になっている奏を見るのも。巻き込まれている自分も。
「あの人は圭吾じゃない。奏さんです」
「まだ言うの! いい加減にしてちょうだい! よりにもよって……佐藤の家の男と──!」
美和子は貴明を知っているらしい。その口ぶりから、よく思われていないのがわかる。ライバル企業以上の何かがあるようだった。
どたどたと複数の足音が近づいてきて、がらりとこちらの返事もなしに障子が開けられる。
飛び込んできたのは奏と雅明だった。
「恵美! お母さん!」
叫んだ奏を美和子は指差した。
「御覧なさい。ちゃんと圭吾は居るでしょうが!」
「いいえ違います。その人は奏さんです。亡くなった圭吾の弟にあたる人です。美和子さん、貴女が生んだんですよ」
恵美の必死の訴えは美和子には届かなかった。美和子は恵美の背後で震える穂高を睨みつけたかと思うと、近くに置いてある果物の盛り合わせから果物ナイフを掴んだ。
「こんな……っ! こんな子供は認めないわ!」
歩けない美和子が、倒れこむように穂高に向かって突っ込んでくる。穂高を庇うために前に飛び出した恵美だったが、誰かに突き飛ばされて畳に転がった。
「お母さん!」
「かあさん!」
子供たちが寄ってくる。恵美は震えながら上半身を起こし、ぽたぽたと赤い血を左腕から滴らせる奏の背中を見た。
「圭吾! どきなさい。そんな子供は認めません!」
怒る美和子に奏は言った。
「お母さん。貴女が認める認めないの問題ではないんです。二人とも恵美の子供です。俺は恵美を愛している。だから血の繋がりがなくても二人の親になろうと思っています」
「圭吾……」
「俺は圭吾ではない。奏です」
名乗る奏を、美和子は呆然として見上げた。
「は……? 貴方は圭吾でしょう?」
「いいえ、俺は仙崎奏です。母親は貴女だ」
「わたし?」
しばらく奏を見つめていた美和子は、ぼとりと血のついた果物ナイフを落とした。奏は美和子から目を離さない。部屋はしんと静まり返り、二人に皆注目している。
「え……」
美和子は顔色を青くしてがたがたと震え始め、頬に両手を当て、背後に居る松島に振り返った。
「ま、松島……。じゃあこの人は誰なの?」
「それは」
奏を指差す美和子に、松島は言葉を詰まらせた。美和子の爆発が恐ろしいのだ。
美和子は改めて正面に立つ奏を見上げた。
奏は何も言わずに、美和子を見下ろしている。
どうかわかって欲しいと恵美は祈った。圭吾はもうこの世に居ない。どれだけ逢いたくても生きている限りは絶対に逢えない。その悲しみを弟の奏にぶつけ続けるのは残酷すぎる。圭吾の身代わり人形としてしか親に愛されないなど、子供として不幸以外の何者でもない……。
雅明がマンションから奏を救い出す時に、奏に言った言葉を恵美は思い出した。
────本物が帰ってきたら偽物のお前はどうなる……? 圭吾が仙崎の家に帰ったら、お前の居場所は本当に無くなってしまう。あいつはそれを思って、お前たちと一切連絡をとらなかったんだよ!
もう、奏は奏にしてあげるべきだ。
しかし────。
「知らない。……こんな男は知らないわ」
美和子に奇跡は起きなかった。
恵美は、奏の心が割れて砕け散る音をはっきりと聞いた。
「知らない。知らない。圭吾はどこへ行ったのかしら? ねえ……松島?」
美和子は知らないと繰り返し、松島を見上げる。松島は奏と美和子を交互に見て、どうしたらいいのか考えあぐねているようだ。
雅明も恵美も亜梨沙も、動かない奏の背中を見つめた。どれほど願っても美和子の狂気を払えなかった絶望が、いかほどのものか計り知れない。
惑乱する美和子には、もう松島しか映っていないらしい。先ほどまで穂高や恵美に向けていた敵意は、どこかに行ってしまっている。彼女にとって圭吾が何より大切で、それ以外はどうでもいいのだろう。傍目にもそれははっきりとわかった。
「奏様」
松島の声に、ようやく奏は美和子から視線をはずした。
「……松島」
「はい」
奏は穏やかに微笑んだ。
「社長に伝言をお願いします。奏は圭吾と一緒に亡くなりましたとお伝えください」
「ええ? そ、それはしかしっ!」
松島は仰天した。そんな伝言を聞いたら、敦史が怒るのが目に見ている。
そして奏は美和子に言った。
「俺も貴女なんて知りません。後ろの人、早くその女性を連れて帰ってください。部屋をお間違えになったようだ」
松島はさらに慌てているが、美和子が不満げに言った。
「そうよ。私、こんな知らない人たちと一緒の部屋に居るのは嫌だわ。予約をこの料亭が取り間違えたのね。がっかりだわ。早く帰りましょうよ松島」
「お、奥様。しかし」
松島がどうにかしてくれと奏を見るが、奏は出て行くように促す。仕方なく松島は奏に頭を下げ、美和子の車椅子を押した。
開けられたままの障子から、廊下の窓越しに見える冬の庭には、あんなに晴れていたにも関わらず雪が舞いだしていた。
雪は降っても降ってもとけて消えていく……。
「……さようなら、お母さん」
奏にかけられた言葉に、やはり美和子は何も反応しなかった。