天使のかたわれ 第53話

 老年の男性はリヒャルトと名乗り、青年はフィリップと名乗った。フィリップは車の部品を作る工場を、ドイツで経営しているらしい。恵美がドイツ語を解せないので、会話は恵美にも理解できる英語に変わった。

「これに見覚えはありませんか?」

 差し出されたハンカチ? に刺繍されている、薔薇に止まろうとする鳥の紋章に恵美は覚えがあり、頷くと、リヒャルトと名乗った老人は目を和ませた。

「今もお持ちですか?」

「ええ……」

 恵美は立ち上がり、自分の部屋の箪笥の奥にしまってあった、古い毛布を持って来た。

 この毛布は恵美が捨て子だったと知らされた時に、これが恵美を包んでいたと育ての親の房枝がくれたものだ。実の両親の手掛かりになるかもしれないと思って調べてくれたらしいが、わからなかったという言葉と共に。

「これは貴女の母の千代が、もし自分が子供を産んだらこれをプレゼントしたいとデザインした、貴女だけの紋章なんです。知っているのは、彼女が所属していたデザイン事務所の人間だけ、場所もドイツのシュレーゲルにある。遠く離れた日本の方が調べられるわけがなかったのです」

「貴方は何故知っているんです?」

「私は千代と信二……ああ、貴女の父親の名前です、二人の友人だったんです。親友と言っていいぐらい」

 にわかには信じがたい話だ。だが雅明が何も言わないところを見ると、真実なのだろう。

 リヒャルトは、隣に座るフィリップに視線を流し、フィリップは黙って頷き、一冊の古いアルバムを恵美の前に差し出した。

 開くと、自分にそっくりな千代という女性、隣に優しそうな男性、これが多分信二だろう。そしてリヒャルトが写っている。学生時代なのかみな若い。どのページを捲っても三人は楽しそうだ。

「二人は留学生でね。大学で知り合った。そのままドイツで就職したから懇意にしていたんだ。千代は大学時代から男達にとってマドンナ的存在でね……。彼女が二十歳の若さで信二と結婚しても、仲良くしていたよ。二人がこちらのデザイン事務所を辞めて日本へ帰った時もついていって、一緒に新しいデザイン事務所を立ち上げた。本当にあの頃は楽しかった」

 アネモネがごめんくださいの挨拶と共に家にあがってきて、子供たちにおいしいお菓子があるから、こっちに来なさいと誘い出してくれた。子供たちには聞かせたくない内容がありそうなのを、察してのことだった。おそらく雅明が頼んだのだろう。子供たちはアネモネが手にしているケーキの箱に驚喜して、客間を飛び出していった。

 それを見送ったリヒャルトの顔に、暗く影が差した。

「すべてが変わったのが、兄のヨヒアムが日本に来た時だ……。ヨヒアムは、私が話す千代にとても興味を持って、ある時三人で話をしているところへ強引に割り入ってきた。そしてヨヒアムは千代のその明るい人柄に惹かれた……そこまでは良かったんだ。誰でも彼女を好きにならずにはいられない、男を魅了してやまないものが彼女にはあったのだから。だが……私はヨヒアムを巣くう、暗い情念を知らなかった。兄だからという甘えが私の目を曇らせた」

 リヒャルトは重苦しい息を吐いた。

「ある夜……兄の泊っているホテルの部屋に行くと、ヨヒアムが泣いている千代を……犯していたんだ……」

 恵美は息を飲んだ。

「……ベッドのそばには……信二が銃で胸を撃たれて死んでいた。私は知らなかった、兄がそういう組織を作っていた事を。普通の運送会社を経営しているものばかりだと思っていた。だがそうじゃない、兄はいつの間にか闇の世界の住人になっていて、麻薬を密売して、殺し屋を雇って裏の商売をしていた。日本へ来たのは組織拡大の為だった」

 恵美はなんとなくある予感がしてきた。それは外れなかった。

「ヨヒアムは強引に千代を自分の妻にした。だがその時、すでに千代のお腹に殺された信二の子供がいた……。それが貴女だ。ヨヒアムは自分の子供として育てると言って、名前までつけていたが、千代は残酷さを極めているヨヒアムを、全く信用していなかった。彼女は私に言った、子供を産んだらすぐに自分から引き離してくれるようにと……!」

「母は、私を助けようとしてくれたんですね」

「そうだ」

 リヒャルトは毛布に刺繍された紋章を、愛おしむように撫でた。

「千代はヨヒアムに知られないように、彼がドイツに行っている間に計画出産をした。私がこの毛布に包んだんだ。ところがヨヒアムはそれを感知して、赤ん坊を抱いている私を刺客に襲わせた。やはり君を殺すつもりだったのだよ……。千代は全く正しかった」

「では……」

「私は最初、孤児院に君を連れて行くつもりだった。だが病院を出てすぐに刺客に襲われて、君を遠ざける必要があった。私は必死で奴らをまいて君を大木の陰に隠し、自分のコートを脱いで、そこに死んでいた猫の死体を君の代わりにして、奴らの前に行った」

 それが、今はもう壊された恵美の実家の近くにあった、あの公園で、恵美が過去を貴明に告白したあの大木だ。

「奴らは中身を確かめもせずに拳銃で何発も死体を撃って、近くの川に投げこんだ、まるでゴミを捨てるような態度だったよ……」

 その後、恵美の両親たちが公園を通りかかり、恵美を発見して保護してくれたのだ。

 奇跡としか言いようがない。

「私は急いで貴女のもとに戻りたかったのだが、刺客の奴らに、日本へ来ていたヨヒアムの部屋へ千代と一緒に連れて行かれた。貴女が殺されてしまったと、千代は大泣きしていた。私は何も言えなかった、あの寒い吹雪の中で、産まれたばかりの赤ん坊が助かるわけが無いと思ったんだ。そして千代はヨヒアムと無理やり結婚させられ、ドイツに連れてこられてソルヴェイを産んだが……、心労が祟ってソルヴェイの物心がつかないうちに亡くなった。死ぬ間際にソルヴェイを私に託し、千代は笑った。やっとこれで、恵美、貴女に謝りに行けると言って……」

「でも私は生きています。育ての両親に拾われたんです」

 恵美が言うと、リヒャルトは何回も頷いた。そうだ、そうなのだと。

「それを知ったのは、五年前なのだよ」

「五年前?」

「日本の佐藤圭吾なる人物が、この紋章はどこのものだと探していると報告が入ったんだ……」

「じゃあ……これは貴方が」

 圭吾の手紙と書類が入っている封筒を、雅明が二人の前に差し出した。リヒャルトは書類に目を通して頷いた。

「この書類を書いたのは私だ。圭吾は君の写真を出して、この女の親を捜していると言ってきた。私は即座にあの時の赤ん坊が生きていたとわかった。どんなに神に感謝したかしれない。君が佐藤圭吾の愛人としてだが、それでも幸せに生きていると知って、私はうれしくて、うれしくて、だが同時に、決してヨヒアムに知られてはならないと思った。私はすべてを圭吾に打ち明けて頼んだのだ、『出生の秘密を教えるのは五年後にして欲しい』とな。私はその間にヨヒアムを始末することに決めた。実の娘のソルヴェイまで殺してしまうほど、あいつは闇に染まり組織を拡大させていて、その横暴ぶりと鬼畜極まるやり口で、警察にも裏の世界の連中にも目をつけられていた、このままでは私たち一族にも災難が及ぶ。だが、私では無理だった。そこで、ヨヒアムの組織に対抗する組織の力を借りることにした……」

 リヒャルトは雅明を見た。

 雅明は小さく笑った。

 実際にヨヒアムを殺したのは、この雅明だった────。

 さすがに喉が渇いたのか、出されたお茶を啜って、リヒャルトは話を続けた。

「……シュレーゲルの家と我が家は仲が良くない」

「そうなんですか?」

 ヨヒアムという男はともかく、この二人は良さそうな人間だ。

「うちはシュレーゲルのような名家ではないし、会社もまだまだだ。おまけに兄のヨヒアムは裏の稼業の総元締だったしね。それは仕方ないんだ。だから結婚を許されず、アウグストはソルヴェイと駆け落ちするしかなかった」

 そこまで言って、リヒャルトは、ああ勘違いしないでくれと雅明に言った。

「私は駆け落ちした君たちを応援していた。こんな家から出たほうがいいと常々思っていたからね。ヨヒアムは出産が原因で千代が早逝したと思っていた。だからソルヴェイにいつも辛く当たって、私は泣きついてくる彼女を慰めることしか出来なかったんだ。情けない叔父だと思うだろうな。だが、巨大な権力者になっていたヨヒアムに逆らうなんて、当時の臆病者の自分には無理だった」

「ソルヴェイが殺された現場には?」

 雅明が聞く。リヒャルトは重々しく首を横に振った。

「私はその時アメリカにいた。正しくはヨヒアムによって足止めを食わされていた。フィリップもだ。知ったのはすべてが終わった後だった。呪ったよ、無力な自分も、ヨヒアムも。ソルヴェイと恵美を会せる夢が消えてしまったんだ。私は千代たちにとって疫病神だ。生きている価値など何もないとさえも。そんな時にアウグスト……君の情報が手に入った。彼が闇の組織に入ったと」

「と、なると、ヨヒアムの情報を黒の剣に流していたのは貴方か」

 雅明が納得したように言う。リヒャルトはそうだと言い、それしかもう償う方法はなかったのだと付け足した。

「ヨヒアムにばれたら、そのフィリップごと消される危険は考えなかったのか?」

「考えたが、それ以上にソルヴェイの死が身に堪えていた。絶望する私にフィリップが言ってくれた。アウグストの復讐に協力すること、ヨヒアムを死に追いやることが償いだと。そしてアウグスト、それを君は成し遂げてくれた。礼を言う……。そして何もできなかった私たちを、いくら罵倒してくれてもかまわない。君達にはその権利がある」

 雅明は手をひらひらとさせて、それを流した。雅明はリヒャルトを恨んではいないのだ。恵美も同じ気持ちだった。

 恵美は長年の疑問が晴れて、清々しい気分だった。

 自分は捨て子ではなく、望まれて生まれてきた子供だった。それがわかって、いつもどこか空っぽだった心の奥底が満たされ、母の千代から譲り受けた暖かな愛が指先から零れるようだった。

 否定は肯定に変わった。

 自分は生きていていいのだ……。

 愛して愛されていいのだ。

 恵美はリヒャルトの両手をうやうやしく取った。

「知らせてくださってありがとうございます。感謝します」

 リヒャルトの両眼から涙が流れた。

 彼の目の前に居るのは、自分が何度も許しを乞うていた千代で、その千代が変わらぬ慈愛の笑みを浮かべている。

 彼女の心は確かに子の恵美に受け継がれ、今も生きている……。

 リヒャルトはありがとうと呟き、涙を零しながら恵美の手を押し頂いた。

 柔らかな光が差し込んできた。風も止みつつあるようで、窓を叩かなくなった。

 アネモネが子供たちとやって来て、恵美の代わりに新しいお茶とケーキを置いていく。

 リヒャルトはアネモネに礼を言った後、姿勢を正した。

「ドイツのわが館へ来てほしい。千代と信二、ソルヴェイと子供の墓がそこにある。千代はともかく、信二とソルヴェイ、その子供の墓は、ひどい場所にあったのもを内緒で移した。皆きっと喜ぶだろう」

「ヨヒアムによくばれなかったな」

 雅明がからかい気味に言うと、リヒャルトは苦笑した。

「彼は死んだ人間には興味を持たなかったからね」

 愛した妻の千代の墓参りすらしなかったらしい。

 恵美は行くなら今だと思った。まだ春休みも半ばだ。時間はたっぷりある。

 その時、家の電話が鳴った。雅明が立ち上がろうとする恵美を制し、客間を出ていく。ややあって雅明が戻ってきた。表情がとても固く、恵美を緊張させた。

「ドイツから国際電話がわざわざかかってきた。私に伯爵号を継がせるかどうかの、親族会議が始まったらしい」

 恵美と雅明は見つめあった。

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