天使のマスカレイド 第06話

 一週間が過ぎた。

 夏なのに分厚いタイツとセーターを着込み、白い作業着を上に着る。そんな千歳を見て、横で着替えていた惣菜室の木村という女性がおかしそうに笑った。

「今日から倉庫で作業なの?」

「ええ、冷蔵庫の中にいるようなものなので、とにかく寒そうと思って」

「そうねえ隣の冷凍室なんか北極みたいよね。零下に設定してあるから防寒服を着ないと確実に体調壊しそう」

「やっぱり?」

「ボールペンなんかで在庫チェックしてたら、凍り付いて書けなくなるもの。鉛筆は持ってる? シャープペンシルは異物混入の元だから駄目よ」

「ありがとうございます。大丈夫です」

 だるまのように着膨れしながら千歳は笑った。なんとか現場の人達とは仲よくできている。この調子で行けばここではうまくやっていけるだろう。

(でも)

 階下にある工場の現場へ繋がる長い階段を降りながら、昨夜、将貴に噛み付くように暴言を吐いてしまったのを千歳は思い出してしまい、苦い思いが胸に広がるのを止められなかった。

 事の発端は、なんて事のない一言だった。

 昨日までの千歳の仕事は荷物の搬入チェックだった。仕事柄一日中立ち続ける作業は慣れているつもりだったが、外気温が36度で、工場内が20度、倉庫が10度以下、冷凍庫が零下、という温度差がある部屋を一日中行き来していたら身体がついていかない。さいわい冷凍食品の荷物は男性の社員が主に移動してくれるので助かった。

 それでも、ひっきりなしに入ってくる荷物を伝票と照合し、すべて放射温度計で荷物の温度を測定してチェックする工程が手際よく出来ず、他の従業員と同じように処理できない千歳は確実にお荷物だった。社員達が教えてくれたが彼らも忙しくてなかなか千歳まで手が回らない。おまけに膨大な食材の置き場所も一から覚えなければならない。冷凍、冷蔵の食品は品物の温度を上げると質が下がる、時間と早さが徹底して求められた。さらにその箱はかなり重い。力があまりない千歳の身体は筋肉痛になっていた。

 なにより重かったのは調味料などが入っている金属で出来た一斗缶だ。18リットルもあるうえ、中身が液体なものだからきちんと持たないとバランスが保てない。もち手は細い針金のようなもので、そこに指をかけると手に食い込んで痛んだ。質量はかかる面積に反比例するので、他の品物より手を焼いた。軍手をはめていてもあまり効果はない。

(キツイ……、こんなのした事ないってばー)

 夕方スーパーへ寄る余裕もなく、連日の筋肉疲労でガクガクしている身体で自転車に乗るのはかなりの苦行だった。よろよろ状態でアパートに戻ると、ちょうど将貴が夜勤に出勤しようとして靴を履いているところだった。

「いってらっしゃい。今日はとても暑いですよ。ご飯食べてくれました? あれ自信作なんですよー」

『…………』

「たまには召し上がったほうがいいですよ?」

 なんで食べないのよという不満が顔に出てしまった。疲れていたので表情を作るのを千歳は忘れていた。

「佐藤社長だって心配されてました」

 弟の事は耳に入れたくなかったらしい。将貴がむっとして千歳を睨んだ。

『ごみを作ってどうするんだ。食べないのに迷惑だ』

 この言葉に、同棲して二週間近く我慢していた千歳の堪忍袋の緒が完全にぶち切れた。気がついたら、そのまま背を向けて出勤しようとした将貴の右手を、両手で掴んで引っ張っていた。思えば将貴に触れたのは初めてだ。近寄りがたい拒絶のオーラもこの時は全く気にならなかった。それほどの怒りが身体の中で渦を巻いていたのだ。

『離せっ』

「将貴さんは仮にも食品工場のトップでしょ! そんな人が作られた食事をゴミだなんてどういうつもりよ!」

『食べないのをわかってて作る、お前が悪い』

 間近にせまった嫌に綺麗な将貴の顔に、一瞬千歳はひるんだがあえてその青色の目を睨み返した。千歳が唇の動きだけで将貴の言葉がわかるのは、以前の職場に話せない障碍者がいたからだ。手話を覚えている暇もなく、またそういう余裕がない職場だったため、唇の動きだけで話が出来るようになっていた。

「なんで作るのか考えてください!」

 いつもすぐにあきらめる千歳がやたらとしつこく、将貴は面食らったような表情になった。そして千歳が全く引かないので、気まずそうに目を逸らそうとする。千歳はそれを将貴の両腕をつかむ事で阻んだ。

「食事は生きていくうえの基本ですよね? 人間って光合成できないから他の植物とか動物の命を奪って食べてるんですよ! まさか貴方、一人で生きているつもりじゃないでしょうね」

 将貴の瞳が揺れ、痛みに耐えるように唇をかみ締める。

「食べなくてもいいから、ゴミだなんて絶対に言わないでください! 私、そんな台詞は嫌いです。一日三食食べられるのがどれだけ幸せなのかわからないはずがないでしょう?」

 嫌いという言葉に将貴の身体が小さく震え、いつもの生気のない顔に戻った。何かを言いかけて再び唇をかみ締めた将貴は、千歳の腕をゆっくりと解き、黒い幅広のサングラスをしてグレーの帽子を深く被りマスクをした。将貴は顔にコンプレックスでもあるのか、いつも外では顔を隠しているようだ。玄関のドアの閉まる静かな音で、千歳は言いすぎたかもしれないと我に返り、ここへ来て初めて後悔した。何がどうなって失声症になっているのかもわからないのに、病状を悪化させるような言葉を言ってしまったかもしれない……。

 

「でも」

 この数ヶ月の一日一食食べられたら幸せというカツカツ生活を思い出して、千歳は猛烈に腹が立ったのだ。今頃気がついたが、そんな千歳の食生活で、どうして佐藤佑太は自分を将貴の面倒を見させようと思ったのだろう。似た者同士で共倒れになると思わなかっただろうか。ただ贅沢をしないから安全な人間と思ったのか? それなら馬鹿な話だ。貧乏を味わった者ほど贅沢におぼれやすい。曲がりなりにも将貴は御曹司なのだから、一般人には及びもつかない資産がありそうなので、そういう打算が働く懸念もあるはずなのに。

 いや、もう佐藤佑太の思惑などどうでもいい。

「どうしよう……」

 このままさらに将貴が自分の殻に閉じこもるようになったら最悪だ。でも今の千歳にあの奥の部屋を開ける勇気はない。意地になって食事を作るんじゃなかったと後悔した。キッチンへ入って冷蔵庫を開ける。やはり食事には手がつけられていない。深いため息が漏れた。

「自信なんて持てるわけないよ……」

 ほとんど泣き声に近い独り言を漏らし、千歳は冷蔵庫の前でしゃがみこんだ。一体どうやってあの将貴にまともな食生活をさせたらいいのだろう。しゃべってくれないし、目もなかなか合わせてくれない。食べたほうが良いと言っても平然と無視される。今日はごみだと言われてしまった。

 無視というのはかなりの暴力だと千歳は思う。存在そのものが否定されている気がする。職場で挨拶を無視するおばさんが居たが、あれは別にどうでもいい。給料のうちだと思えば内心で舌を出しながらやり過ごす事ができる。だが同居人にずっと空気のように扱われるのはかなり堪える。以前なら友達に電話して愚痴を聞いてもらったり出来た。でも今はできない。千歳自身に起こった出来事の為に、あえて交流を自ら断ったのだ。優しく注意してくれた家族も自分のせいで壊してしまった。

「壊れる時ってほんの一瞬なのよね」

 明け方に帰ってきた将貴には会わずに出てきた。今日は帰りたくない。自分だって殻に閉じこもりたい。そう思った瞬間、はたとした。

(ひょっとして私が来た事で将貴さん、同じように思ってたのかな?)

 食事を作り続ける事が、家に戻るのが苦痛だと思わせるような行動だったのではなかろうか。千歳はショックで暫く階段を降りられなくなり、後から来た社員に咎められるまでその場を動けなかった。

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