天使のマスカレイド 第08話

 将貴は千歳達にすぐ気付き、靴を脱いで畳に上がりまっすぐ歩いてきた。さっき福沢が言っていた意味がわかった。確かに将貴はどんなぼろを着ていても動きが洗練されていて優雅だ。

「思ってたより早かったな。さすがに彼女の帰宅時間が遅いと気になるんだ」

 福沢が面白そうににやにや笑う。千歳にはやはり意味がわからないが、黙って夜に食べに行くのはよくなかったと思われる。帰りたくなくてもメールで連絡ぐらいはするべきだったのかもしれない。スマートフォンの時計はもうすぐ午前0時になろうとしている。実家なら親がかんかんに怒るだろう。

「どうやってここまで来たんだ? 車は持ってなかったろ?」

『お前には関係ない』

「なんでそんなに怒ってるんだお前? 彼女はただの家政婦だろ、食事の支度やほかの事はきちんとしてるんだから、多少夜に出歩いたってどうこう言う権利はお前にはないと思うけど?」

「福沢さん止めて下さい」

 福沢の口調はやけに辛らつだ。険悪な空気を察した同じテーブルの客が面白そうにこちらを見ている。隣のテーブルの男達も二人を見てささやきあう。これはよくない。それなのに福沢は千歳の制止を聞かなかった。

「お前、彼女の飯を食わないそうじゃないか? かわいそうにこの二週間作り続けてるのに捨ててるって聞いたぞ」

「福沢さん!」

 話してないのになんでわかるのだと千歳は焦った。でも佑太が将貴の食生活は最悪だと言っていたし、それを聞いているのなら千歳の悩みも見抜けるだろう。

「そのくせ中途半端に心配して探しに来たりして、馬鹿じゃないか? そんなだから弟にしてやられるんだよ」

「やめてくださいってば!」

 千歳は福沢を睨み、今度は立ったまま見下ろしている将貴に頭を下げた。

「連絡をせずにすみませんでした。あの……」

 最後まで千歳は言えなかった。無言の将貴に左腕を掴まれて、靴が置いてある出口まで強引に歩かされる。ビックリしている千歳に将貴は振り向き、千歳の靴を足元にそっと置いた。そして自分の靴を履いて千歳にも履くように促す。福沢は追いかけてこない。とりあえずは帰るべきかと考え直し、千歳は靴を履いて将貴に続いて表へ出た。

 外は変わらず飲み屋などの看板が煌々と光っていて、人が出歩いている。狭い道から大きな道へ歩く最中、ずっと将貴が千歳の右手を握って離してくれないので困った。自分が迷子になるとでも思っているのだろうか。暫く歩いた先にタクシーが停まっていて、将貴がドアを開けた。乗れという事らしい。後部座席に乗った千歳の横へ将貴が座るのと同時にタクシーが動き出した。

 将貴はじっと前を向いたまま沈黙を保っていたので、千歳も何も言わずに流れる夜景を見ていた。もっとも国道を越えると田畑しかないので、真っ暗闇しか見えなかった。今頃気付いたが今日は闇夜だ。やがてアパートの前にタクシーが止まり、将貴がクレジットカードで料金を支払った。深夜なのでさすがに他の部屋の電気は皆消えていた。

 静かに階段を上がり部屋に入ると、朝、あんなに気が重かったのがうそのように、何故かほっとして気が抜けた。どうも緊張していたようだ。将貴は帽子とサングラスを取って靴箱の上に置き、室内用のスリッパに履き替えた。

「将貴さん、あの……」

 リビングへ入った千歳は床のカーペットに正座し、謝ろうとした。でも膝を崩して座った将貴がそれを制して、怖い目で口を開く。

『篤志はお前が好きだから注意したほうがいい』

「……は?」

 見当はずれな注意をされ、千歳は謝る言葉が頭からぼろりと抜け落ちてしまった。呆けている千歳に将貴はいらついたらしい。ふうとため息をついた。

『あいつは気に入った女しかあそこへ誘わない。お前がその気なら止めないけど、そうじゃないと思ったから迎えに行ったんだ』

「……なんか誤解しているようですけど、副工場長はただ単に悩み相談してくださっただけですが」

『馬鹿かお前は。好きでもない女をこんな夜中に連れまわすわけないだろ』

「でもそれは仕事が遅かったから」

『そもそも悩み相談など会社ですれば済む話だ。下心があるから連れていく。自転車まで持っていかれてお前馬鹿か?』

「…………」

 こんなに話せる人だったのかというのが、新鮮な驚きだ。おまけに口が悪すぎる。人形だと思っていた物体が、いきなり命を吹き込まれて動き始めたように見えた。何か変だとまじまじと将貴を見ると、確か青色の瞳だったはずなのに緑色に変化している。瞳の色が変わる人間など初めて見たので、いろんな意味で千歳は驚きすぎて言葉が出てこない。将貴がさらにわいわい言っているが、もう唇の動きを見ていても言語にならない。

(そういや誰かが色彩が薄い人間の目って、感情で変わるって言ってたっけ。日本人も本当は変わってるけど色が濃いから皆気付いてないだけだとか。って、違う! それも気になるけど違うって!)

 一体どうしてご飯に誘われただけで、好意を持たれていると思い込めるのか不思議だ。将貴という男は余程純粋培養されて育ったのだろうか。謎だ。御曹司の考え方はよくわからない。

『聞いてるのか!』

 カーペットを将貴が力任せに叩き、千歳は怒っている将貴をスルーしていた自分に気付いた。美形が怒ると迫力倍増とどこかの小説で読んだが、確かに鬼気迫るものがある。しかし何故かまったく怖くない。何故だろうと考えるとすぐに答えは出た。あれだけ拒絶していた将貴が自分に向かい合ってくれるのがうれしいのだ。怒りだろうが、笑いだろうが、誤解だろうが、なんらかの感情をぶつけてくれるのは存在を認めているに他ならない。うれしいに決まっている。

「聞いてますよ」

 千歳が笑ったので、将貴は今度は呆気に取られたらしい。長い睫をぱちぱちさせてじっと千歳を見た。

「今日は……連絡もしないで外食してすみませんでした。ただ、副工場長は本当に私のことをどうこうしようと思われたんじゃないんです。私がまだ仕事に慣れてないから心配してくださっただけなんです」

『お前はあいつの本性を知らないんだ』

「あれくらいなら大丈夫です。私もそれなりの修羅場をくぐってるんですから」

『何かあってからじゃ遅いんだぞ』

「心配してくださったんですね。ありがとうございます」

『う、いや、そんなんじゃない』

 将貴の容姿は西欧人の血が強く出ている。赤くなるとすぐにわかるのがおかしい。困っているのが見て取れたので千歳はそれ以上は追及せず、とりあえず喉が渇いたから麦茶でも飲もうと思い、立ち上がってキッチンに入ろうとした。それなのに酷く慌てている将貴が、何故かキッチンに入ろうとする千歳を阻む。

「喉が渇いたので……、あの?」

 まったくもって意味不明の行動だ。取り合えずここで待てと押し止めてくるので、千歳は仕方なく入り口で止まった。将貴はキッチンに繋がっている引き戸をぴしゃりと閉めた、一体キッチンで何をしているのだろう? 暫く待っていると皿が床に落ちて割れる音がした。これはよくない。千歳は引き戸を開けた。

「将貴さんっ大丈夫ですか!?」

 将貴は皿を洗っていて、洗剤で手を滑らせてしまったらしい。来るなと口が動いていても千歳は無視した。早く掃除をしないと欠片で足を怪我してしまう。千歳はとりあえず大きな欠片を集めようとして、すぐ隣にあった箒とちりとりを持った。そして何気なくテーブルの上を見た。

「あ……」

 一瞬見えたものが信じられなかった。将貴が止めた理由がわかった。

 うれしすぎてぼんやりしていると、将貴が乱暴に千歳の手から箒とちりとりを奪い取り、欠片を集めてビニール袋に入れた。そして近くに置いてあるハンドクリーナーでさらに細かい欠片をすべて吸い取ってしまう。

「将貴さん……」

 掃除を終えた将貴はいつもの無表情に戻っていたが、わずかに頬が赤らんでいた。皿を洗うのを諦めたようで、さっさとキッチンを出て行ってしまい、いつものようにリビングの奥の部屋に消えた。いつもなら拒絶に見えるそれは、今日はただの照れ隠しにしか見えなかった。

 千歳はテーブルの上の食事のあとを見て、自然に笑みを零した。こんなにうれしいと思ったのは何年ぶりだろう。昼に作って冷蔵庫へ入れておいた夕食が、一人分だけ完食された状態で皿だけになっている。あきらかに食べてくれたのだとわかるそれは、当たり前の事を貴重な一瞬に変えるのに十分だった。将貴が初めて千歳のご飯を食べてくれたのだから……。

 全然何も通じてないと思っていた同棲生活。まったくの無駄足に思えたが実際は少しずつ変化があったらしい。いつもならさっさと片付けてしまうのに、今日は使用済みの汚れた食器を洗うのが勿体無く思える。こんな素敵なものを洗い流すのはどうかしている。喉が渇いていたのを思い出し、千歳は冷蔵庫を開けて、さらにうれしいびっくりを発見した。残り少なくなり、今夜新しく作ろうと思っていた麦茶のボトルが満杯の状態になって冷えている。シンク見るとやかんが使われた形跡があり、生ゴミ受けに茶葉のパックがあった。将貴が作ったのだ。

「……やだなあ……、ちゃんと言ってくれたらいいのに」

 顔中が微笑んでいるのに千歳は涙が止まらなくなった。家で誰かが自分のために何かをしてくれるという、小さな幸せをずっと忘れていた。思えば鈴木の場合、それが空気のように当たり前になっていて、別れる前はなんらの心の動きも無かった気がする。

 千歳は麦茶をグラスに注いでテーブルに置き、ボトルを冷蔵庫にしまうと椅子に座った。目の前にあるのは後片付けをひたすら待っている食器達だ。麦茶を口に含むと、それは千歳が作ったものとまったく同じ濃さで、将貴がよく見てくれていたのがわかる。

「おいしいなあ……、ただの麦茶なのに変なの」

 朝はあんなに気が重くて後ろ向きだったのに、たったこれだけで前向きになって舞い上がる自分を単純だと思う。でもそれでもいいじゃないと心が肯定する。奥の部屋はいつもと同じように静まり返っている。きっとまだ起きているだろう将貴が、今どんな表情をしているのかと思うとワクワクした。

「ありがとう将貴さん」

 千歳は、ようやく自分の居場所をはっきりとつかめた気がした。

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