天使のマスカレイド 第09話

 外は相変わらずうだるように暑かった。アパートから一番近い田舎の駅から電車で一時間ほど揺られ、千歳はパンツスーツ姿で市街地の大きな駅から出てきた。指定されたホテルは駅前に聳え立つシティホテルだ。ホテル内はクーラーが効いていてとても涼しく生き返る心地がした。レセプションの案内でエレベーターに乗り、指定された部屋のドアを千歳がノックすると、佑太の秘書の柳田がドアを開けて千歳を招きいれた。

 まず一生泊まる予定はないであろう、一泊十万は余裕でしそうなシティホテルのスイートの部屋は、思っていたほど華美ではなく機能的でスッキリしていた。ただとても広い。普通なら若い男とホテルの部屋に二人きりなどという状況はありえない。しかし千歳はこの男達とは全然違う世界の人間だとわかっていたので、自分は絶対に襲われないという自信があり、呼び出されても何も疑問に思わず赴いた。

 交通費は佑太が持つという事で、わざわざ月一の報酬の受け取りの為に千歳はこんな面倒に付き合っている。

「外は暑かったでしょう?」

「……ええ」

 千歳は佐藤佑太が苦手だが、柳田という男も苦手だ。妙な完璧さと洗練された動作が自分の田舎臭さを責めているような気がして気後れしてしまう。最もたる将貴などと対すると、自分は同じ人間なのかと疑いたくなる。不思議なのは将貴は佑太より緊張しない。あまりにも差がありすぎると気にならないのかもしれない。

 窓際のテーブルの椅子を勧められ、千歳は静かに座った。ブラインドが何故か下がっていたので、開いていたら外の景色が見れたのになと残念に思う。簡易キッチンから柳田が顔だけ出して尋ねた。

「コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか? アイスの方がいいですよね?」

「喫茶店に来たわけではないので早く済ませて欲しいのですが」

「ではアイスティーに」

 ちっとも話を聞いていない柳田がむかつく。千歳の思いなどどうでもいいのに何故尋ねるのかわからない。つきかけたため息を飲み込み、テーブルに生けられているピンクの薔薇の花を眺めた。そういえば最近花など見ていなかった気がする。余裕が出てきたという事だろう。借金取りに追いかけられなくなったという安堵がとても大きい。昼も夜も彼らのあざ笑う視線は常に千歳を追い詰め、精神を削り疲弊させていた。

 柳田はご丁寧に氷をいれたグラスにレモンまでつけて、千歳にアイスティーを作ってくれた。そして普通の紅茶を自分の前に置く。手先が器用なのかまるで本当に喫茶店で注文したようなアイスティーだ。

「さあどうぞ。暑い中いらしてくださったのですから」

「あの、それより……」

「千歳さん」

 親しいわけでもないのに名を呼ばれ、千歳は少し気味が悪くなった。でも顔には出さず、黙ってアイスティーのグラスを持って、ストローを手に取り、そっと飲んだ。柔らかな中に人を観察する冷たい視線が気になる。その紅茶はとても美味しかったが同時に千歳は驚き、乱暴にグラスを置いた。

「昼間っからお酒を飲ませるなんて、何を考えてるんですか? しかもかなりアルコール度高いですよね?」

「ええ、試してみたかったのでスピリッツを入れました。美味しいでしょう?」

 しゃあしゃあと言ってのける柳田を千歳は睨みつけた。まったくもって不愉快だ。さっさとこんな忌まわしい場所から退散すべきだと思い、右手を差し出した。

「今月分の報酬を早くください」

「これは驚いた。本当に酔わないんですね。度数80度を超えるのを半分以上入れたのに」

 とんでもない事をいう柳田は相変わらず千歳を無視している。千歳の声が尖った。

「聞こえなかったんですか? 私は早く家へ帰りたいんです!」

「成る程。これなら安心です。社長は本当に見る目がおありになる……」

 感心している柳田に千歳は手を引っ込めて苦笑した。

「そうでしょうか? 秘書を選ぶ目はないと思います。貴方みたいな社員がついてるなんてたかが知れてるのでは?」

「言いますね。セクハラ面接の時は何も言えなかった貴女が」

「いつまでも世間知らずの小娘ではありません」

 柳田はどうやら千歳を怒らせたいらしい。それを悟った千歳は感情を押し込め、努めて冷静に言い返した。他に穏やかにかわす方法があるのかもしれないが、自分はそこまで大人ではない。とにかく早く報酬が欲しい。ひょっとすると柳田は、千歳をこのように怒らせないと報酬を渡してはいけないとでも佑太に言われているのだろうか。その割には柳田の目は楽しそうに光っている。人をこんなふうに扱って楽しむなど悪趣味もいいところだ。

 一方で頭がすっと冷めた。なぜこんな事を言い出したのだろう。千歳は柳田を睨みながら頭の隅で考え、数日前に将貴が怒っていた事柄を思い出した。まさかとは思うが……。

「私は副工場長が相談に乗ってくださると思ったから、食事の誘いに応じただけです。他の方の誘いにはほいほいついていきません。面倒ごとはごめんですから」

 ビンゴ、だったようだ。柳田の目からからかうような色が消え、いつもの冷静な穏やかさに戻る。

「……福沢篤志は、なかなか油断がならない男です。気をつけなさい」

「下種の勘ぐりというものです。福沢さんが私に何をすると言うんです?」

「貴女に気があるというだけでも危険なのに、あの方は将貴様になみならぬ感情をお持ちですから」

 この男も勝手に勘違いしている。どうして食事に誘われただけで気があるになるのだろう。千歳はなんだか面倒くさくなってきた。福沢は結局あれ以来仕事以外で声を掛けてくる事は無い。むしろ避けられているのではと思う位何も言ってこない。会社の休憩室で昼食をとっていても現れず、千歳は一人で過ごしていた。それを言うと柳田は笑った。

「そら。やっぱり気があるじゃないですか。あの男は高校の時からずっと変わらない」

「……? 失礼ですが柳田さんはおいくつですか?」

「将貴様、福沢と同じ歳です。ちなみに高校も同じでした」

「は?」

「大学だけ別々だったんですよ。もっとも私は二人と交流はわざとしていませんでしたけどね。会長の命令で将貴様を見張るのが仕事だったので、下手に交流を持つと警戒されますから」

「…………」

「なんで将貴さんを見張る必要があったんですか?」

「家柄のせいです。誘拐などの危険がありますから。もっともあの方は別の危険の方が多々ありました。手出し無用と言われていたので見ていただけでしたが」

「……見ていただけ? 何を?」

 柳田は言い過ぎたかとわざとらしく言い、紅茶を口に含んだ後ソーサーにカップを戻した。

 

「殴られる、蹴られる。閉じ込められる。他人がやった悪事……万引きの濡れ衣。私物を隠されたり壊されたり。ひどい時は机を廊下に出されたり、身体に水を掛けられたりと酷いものでしたよ」

「…………」

「私はただ黙ってそれを見ていました。将貴様の心の崩壊の様を他人事のように。毎日学校から帰ったら、会長へ報告するんです。当時は社長でしたが、あの方はいつも無言で聞いて無言で私を追い出しました。感情というものがないのかと疑いたくなりましたね。将貴様がああなったのは確実に家族のせいですよ」

 嫌な話に、千歳は無表情の将貴を思い出した。

「……私に何をしろというんです? 私にその傷を癒せとでも?」

「気になっているでしょうからお話しました」

「確かにそうですが」

「貴女は本当に妙な人だ。普通の女なら根掘り葉掘り聞きたがるものなのに」

「私は……、もうまがい物ですから。まがい物が人の不幸を聞いたってまともに受け止められるわけがありません。自分の事で精一杯です。私ができるのは将貴さんがまともに生活できるように表向きを整えるだけです」

「そうかもしれません。ですが、そこに感情が入る余地はありませんか?」

「感情? うれしかったですよ、ご飯を食べるようになってくださったので」

「そうではなくて。あの方に心惹かれたりしませんか?」

 福沢と同じ事を言う。千歳は微かに酔っている自分を自覚しながら、熱くなった右の頬をそっと押さえた。

「綺麗な男だとは思いますが、それだけです。私はもう誰も愛さないと思います。相手の男性も、私みたいなまがい物に想いを寄せられたりしたら迷惑ではないでしょうか。私が生きているのは命があるからなのと、大切な人と幸せになると約束したからです」

「なら」

「大切な人は結婚して幸せになれといいました。でも私は誰も好きになりませんから当然一生結婚はしません。構わないじゃないですか、私一人結婚しなかったところで地球が滅びるわけでもないし」

「千歳さん」

 千歳は柳田に再度右手を差し出した。

「私はただの家政婦なのを弁えています。今日は報酬を貰いに来ました。早く下さい。夕飯の支度が待っていますから」

「…………」

 報酬を受け取った千歳がホテルから出て行くのを柳田が開けたブラインドから見下ろしていると、隣の部屋のドアが開いて佑太が入ってきた。柳田はテーブルに放置されていたグラスとカップをトレイに載せて回収する。佑太はさっきまで千歳が座っていた椅子に座って足を組み、肘掛で頬杖をついた。

「鋼鉄みたいな女だな。あんなのは母さんや婆ちゃんだけかと思ってたよ。兄さんの過去聞いても眉ひとつ動かさなかったぞ。見たかお前?」

 なにやら痛く感心している佑太に、柳田は呆れた。

「……突然現れないでください。どうやってここを通らずに奥の部屋に入ったんですか?」

「秘密。ここは父さんが買い取った部屋だからいくらでもからくりがあるんだ」

 柳田は簡易キッチンで洗い物を始めた。佑太は自分で持ち込んだ缶コーヒーをごくごくと飲む。暫く二人は何も言わなかった。洗い終わると柳田はグラスとカップをふきんで丁寧に拭いて棚に片付けた。そして佑太のためにミネラルウォーターをグラスに注いでテーブルに置く。

「会長は朝から検査入院でしたが、一緒に行かれなかったのですか?」

「一緒に行ったからといって良い結果が出るとは限らないし、母さんが一緒だから心配ない」

「それはそうですね」

「ああいう夫婦になりたいものだと思ってたな。実際なってるけど」

「のろけは結構です」

「ふ……」

 佑太は笑った瞬間に顔を不機嫌にゆがめ、机をひとさし指でトントンと叩いた。それは父親の貴明の癖だったのだが、見事に佑太に遺伝している。あまり見ていていいものではない。

「あの女と兄さんが結婚する確立は限りなくゼロに近いみたいだな」

「ゼロであればいいほうですね。マイナスです」

「ああいう女が兄さんの好みだと思ってたんだけど」

「ご冗談を。あの方が好きなのは、もっと大人しくて素直で優しい女でしょうに。髪も長くて濡れ羽色みたいにつやつやしていないと」

 柳田は明らかに特定の女の特徴を口にした。

「……好みって変わらないかな」

「現実を直視なさったほうがよいのでは? 所詮あの二人は雇い主と家政婦以外にはなりません」

「だけど福沢が食事に誘った時怒ったらしいじゃないか」

「恋愛感情ではないでしょう。将貴様は貴方と違ってとてもお優しい方ですから」

 面白くなさそうに佑太は鼻を鳴らした。

「馬鹿な話だ。お優しいからああなるんだ」

「社長」

 緩めていたネクタイを締め、佑太は繊細な将貴の容貌を目の前に見るような目つきをする。それは敵意に満ちていた。

「兄さんは勘違いしている。優しさと弱さを混同してる。だから何もかも無くしたんだ」

「ご自分を正当化されるとは思いませんでしたよ」

「正当化? 事実を言っただけだ。まったく、あの兄にはイライラさせられる。父さんも母さんもほっときゃいいのに、馬鹿らしい」

「社長!」

 出された水に手を付けずに佑太が立ち上がる。その目はもう氷のように冷え切っていた。普段にこやかなこの男は時折このような冷酷さが露呈する。それは経営者としての性なのかもしれなかった。

「これだけお膳立てしてやっているんだ。ただでさえ忙しいのに、こんな事までやらされる僕の身にもなってほしいね」

「……御自分で何もかも奪っておきながら、と、将貴様はおっしゃるでしょう」

「奪われる方が悪いのさ。大事なものはそれこそ命がけで護るべきだ。護りきれずに敗れた奴に文句をいう権利は無い」

「強者の論理です」

「弱肉強食は世の常だろ。人間だって例外じゃない。この話はもう終わり。お前もさっさと支度をしろ、社に戻る」

「……はい」

 隣の部屋に着替えるために消えた佑太を見送り、柳田はスーツの上着を羽織った。フロントへ電話をして車の手配をすると荷物をまとめる。そしてこれからの佑太のスケジュールを確認して佑太が出てくるのを待つ。

 ふと、まっすぐな千歳の視線を思い出して、柳田は微笑した。

「まがい物、ね。あれをまがい物だと言うのなら、世の中まがい物だらけだ」

 開けたブラインドからは、いよいよ太陽の陽射しがきつく突き刺さってくる。同じような強さを心内に秘めている千歳が、ひどく柳田は頼もしく思えるのだった。

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