天使のマスカレイド 第13話

 鈴木は闇金融の中でもとびきりたちの悪いところからお金を借りていた。破産宣告をしたら殺すと脅され、自分の貯金から支払おうとしたところ、定期預金がたかしによって勝手に解約されていて、7年かけて貯めていた何百万円という金が消えていた。普通預金もぎりぎりにまで引き落とされて残金が数百円しかなく、震える千歳に城崎は実家はどこだと聞いた。千歳は迷惑をかけるのを恐れて口を割らなかったがすぐにばれ、千歳の家族達が身包みはがれた。それでも借金は半分に減っただけで、おまけに数千万円という巨大な額だ。

 地獄の数日間の後千歳に残されたのは、一生かけても返せそうもない借金と孤独という闇だけだった……。

 気付いた千歳は、休憩室の隣に併設されている宿泊部屋に寝かされていた。たまに泊りがけで勤務する必要がある社員が使用する和室六畳の小さな部屋で、シャワー室が隣にある。布団はふかふかとしていて気持ちよかったが千歳の気分は最悪だった。

「はあ……情けな…………」

 将貴に健康管理について言われたのに、このざまだ。こんなふうに言われた事すら実行できない人間だから、鈴木に捨てられたり、借金を背負ったりしたのかもしれない。もちろん悪いのは鈴木だが、千歳はあまりにも世間の仕組みや人間について甘く見ていた。そのしっぺ返しが家族に行ったというのが一番堪える。あの事件が起こる前まではひんぱんに実家へ帰り、家族仲はかなり良かったのだ。自分ひとりなら自分が耐えるだけで済む。しかし家族が自分のせいで遭わなくてもいい被害に遭ったというのは、どうやって償えばいいのだろう。

「……ごめん、幸せなんて無理」

 それはほとんど涙声だった。ちょっと具合が悪いだけでまた泣き虫な千歳が出てきた。将貴にご飯を食べてもらえなかったり、少し嫌な目に遭っただけですぐにこれだと千歳は情けなくなる。ああ駄目だ駄目だ。早く元気になってアパートに帰ってご飯を作らないと。それがもう一つの千歳の仕事だ。

 壁時計を見ると倒れて20分ぐらいしか経っていない。まだだるくて身体を動かすのも億劫だ。とにかく立ち上がれるようになるまで休もうと思い、千歳は再び眠りに吸い込まれた。

 今度は夢を見る事もなく、だんだんと身体が楽になっていくのをうつつに感じた。この調子なら帰れそうだ……。

 暫く眠っていたようだ。からりと戸が開く音がして再び千歳は目が覚めた。起きて倒れた事を謝らないといけないと思ったが、なんだか面倒くさくて寝たふりをする。パートの誰かで、勤務時間が終わったと告げに来てくれたのかも知れない。それならそうと言って起こしてくれるだろう。

(…………?)

戸が閉まる音が静かに響いた。畳をゆっくりと踏む音が近づいてくる。

(おかしいな。あ、そうか。私が寝てるから様子だけ見てるのかな?)

 入ってきただれかは静かに千歳の枕元に座り、千歳の額に手を当てた。それは大きな男の手だった。

(パートのおばちゃんじゃない。誰?)

 相手から千歳と同じ柔軟剤の匂いがふわりと漂った。この香りがする服を作業着の下に着ているのは将貴しかいない。そういえば将貴もあの場所に居た。

(将貴さんだったのね。それなら話せなくても仕方ないな。もう起きようかな)

 千歳の額に掌を乗せられていた手が何故か頬に滑った。その動きはとても柔らかくて指の質感が気持ち良かった。幼い頃父親にこんな感じで撫でて貰ったのを思い出す。起きるのが勿体無くて千歳は寝たフリを続けた。もう少し家族の思い出に浸っていたい……。

 ふいに匂いがきつくなった。

(え……?)

 何か生暖かいものが唇に当てられ、それがなんなのかわかった途端千歳の身体は少し硬直した。驚きすぎて動けない。やがてゆっくりとそれは離れていった。じっと自分を観察するような視線を感じる。ほんの数秒なのに今の千歳には何分にも思え、息苦しい時間だった。

『…………』

立ち上がる気配がして、将貴は千歳を起こす事無く、入って来た時と同じように静かに部屋を出て行った。

 戸が閉まると同時に千歳は飛び起きた。心臓がバクバクうるさく騒いで身体が震える。おそらく顔は真っ赤になっているだろう。千歳は将貴がキスした唇に両手を重ねた。

「な……何今の?」

 あれは間違いなく将貴だ。顔が赤いのは何故だろう。ドキドキが止まないのも何故だろう。嫌悪は皆無だ。将貴は嫌いではない。しかし将貴は千歳が好きだとかそういうそぶりを見せた事はない。このキスの意味がしりたい。外見は西欧人ではれっきとした日本人の将貴が、挨拶代わりにキスをするとは思えない。それに今は挨拶するような状況ではない。

「わ、たし……」

 千歳は将貴の唇の熱さを思い出して、その瞬間にハッキリ悟った。自分はもう将貴が好きになっている、と。あのぶっきらぼうでよくわからない御曹司に惹かれている。だから…………。

「私……」

 もう気分は悪くない。でも胸の高まりはまだ治まらない。好きだ。好きだ。誰も愛さないと思っていたのはつい先日の事の様なのに、今日はもう将貴の虜だ。鈴木の悪夢を見た後だから余計に強く感じる。

 トントンと戸を叩く音がして、今度は福沢が入ってきた。

「起きてたか? 今終わった。送っていくから帰ろう。将貴は夜勤だし」

「ははは、はいっ」

「ん? 顔が赤いな……。熱でも出たか?」

 福沢の口調が以前のようなものに戻っている。千歳はそれに安心して微笑んだ。

「や、なんかこの部屋暑くて」

「クーラーが壊れかかってるんだ。パートのおばちゃんに頼んで着替えを持ってきてもらおうか?」

「大丈夫です。もう歩けます」

 千歳は布団から出て丁寧にたたんだ。大丈夫だ。福沢は更衣室の外で待っていると言って、戸を開けたまま出て行った。更衣室ではパートの皆が心配してくれた。千歳はひとつひとつに礼を言いながらも、ほとんどが上の空だった。パート達はそれをまだ具合が悪いのだと取り、早く帰るようにと言って帰っていく。

(どうしようどうしよう……。明日の朝どういう顔で将貴さんに会えばいいの?)

 そもそも将貴は千歳を起こさなかったし、起きていたとは思っていないはずだ。何でキスをしたの? なんてとても恥ずかしくて聞けない。また顔がかーっと熱くなってきて、更衣室の端に備え付けてあるドレッサーの横の洗面所で、冷やす目的で千歳は顔を洗った。鏡の向こうにいるのは、顔を妙に赤らめている25歳の女だ。学生時代なら可愛い少女で見れるのに、今の自分だとなんだかみっともない。

 でも福沢を待たせるわけにはいかない。外は暗いし顔などそうは見ないだろう。千歳は両頬をぱしりと軽く叩き更衣室を出た。更衣室の外ではすでに福沢が待っていた。千歳は遅くなったと頭を下げ、気にしてないからと言う福沢の後に続く。途中で通る品質管理室の照明は静かで、曇りガラスにうっすらと作業している将貴が見える。するとまたドキドキしてきた。思い出すたびにこれでは明日は病院行きかもしれない……まったく別の理由で。

(と、取りあえず帰ろう。そんでご飯食べよう)

 外は熱帯夜でとても暑かった。

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