天使のマスカレイド 第14話

「今日は大変だったな」

「皆さんにご迷惑をお掛けしました」

 千歳は隣で運転している福沢に頭を下げた。渋滞する国道の交差点も、午後10時過ぎの今は信号を一回見送るだけで済んだ。もしもこれが夕方の5時から6時だと、信号を4回ほど見送る羽目になる。普通に行ければ10分ほどでアパートに着くのに、その時間帯だと20分ほどかかり、自転車と大差ない。

「最近将貴の様子が変わったよ」

 福沢がハンドルを軽く操作しながら言った。千歳は今その名前を聞きたくなかったが、下手に反応すると勘ぐられそうなので、そうですかとだけ答えた。

「今日なんか、結城さんが倒れたのを見て慌てて走って行ったんだ。あいつがあんなに慌てるの初めて見た」

「はあ……」

 何気なく答えながらも、千歳はまた顔に熱が集まるのを感じる。福沢はくっくと押し殺すような笑い声を立てた。余程楽しかったのだろう。

「あんな非力そうな男が倒れた結城さんをさっと横抱きにしてさ、群がる皆を押しのけてずんずん歩いてくんだ。パートのおばちゃんらが喜んで騒ぐ騒ぐ。しばらくラインは止まったままで仕事にならなくて困ったよ。普通人が倒れた場合は、担架を持ってきて男二人で運ぶ事になってるんだけどね」

「は……あ」

「まあ仕方ないから、俺もその将貴の後に続いてあの休憩室に入ったわけ。そしたらまた休憩室で休んでた連中が騒ぐ騒ぐ。えーとお姫様抱っこ? されてるのを生で見ると興奮するんだろうな。でもあの目立つのが大嫌いなあいつが奴らの視線をまったく無視して、足で宿泊室の戸を開けたんだ。あの将貴がだよ?」

 そんな乱暴な真似をする将貴を想像できない。千歳は福沢が自分をからかうために嘘をついているのかと思った。

「俺が敷いた布団に結城さんをさも大事そうにおろして、俺が上掛けを掛けようとすると、お前がするなと言わんばかりに奪い取って静かに被せてるの。どれだけお姫様扱いなんだと笑いそうになったよ」

「…………」

 千歳は右の頬をそっと掌で押さえた。車の冷房が効いているのにやっぱり熱い。そんなに心配してくれていたのかとうれしくなる自分が困る。ふいに車が向きを変え、アパートの近くのあぜ道に入った。千歳は福沢が気を利かせてわざとアパートまで行かなかったのだと思い、シートベルトを外してドアに手をかけた。

「今日はありがとうございました。明日明後日と休みなので会社には行きませんが、今度は事務所の皆さんのお世話になります。よろしくお願いします」

「うん、そうだな。まあ事務所は体力というより精神力勝負だからゆっくり休んで」

「はい」

 千歳はそこでドアがロックされていて開かない事に気付いた。横の福沢を見ると、面白そうに千歳を見ている。またたちの悪いいたずらだ。

「すみませんが疲れていますので、からかうのはやめてくださいますか?」

「……もっと面白い話があるんだけど」

「なんですか? 手短にお願いします」

 福沢はくすくす笑い、千歳に顔を向けたままハンドルに頬杖をついた。

「将貴はね、自分がタクシーを呼んで結城を送るから、余計な事はするな。って言ったんだよ」

「…………!」

 将貴の言葉を拒否したのだと福沢は言外に臭わせた。千歳の中でじわりと福沢に対する恐れのようなものが、足元から冷たさと共にあがってきた。将貴も柳田も福沢は自分に気があると言っていた。目を見開いてドアに張り付く千歳に、福沢がシートベルトをゆっくりと外してにじり寄ってきた。福沢の身長は190センチ近くあり、そんなに近くに寄られると威圧感で胸が苦しくなる。からかいだと思いたいのに、千歳の腰に手を回した福沢の目にからかいの色はなかった。なんとか気を逸らそうと千歳は思い、作り笑いを苦労して浮かべた。

「あのですね。私、アパートの皆さんには将貴さんと夫婦って設定になっていますので、こういうからかいは非常に困るんですけど?」

「そうだな。佐藤社長に聞いてるから知ってる。それで?」

 将貴の時とは正反対の感情で胸が騒ぎ、危険だ逃げろという警告だけが頭に鳴り響く。福沢から目が離せない。気が抜けたような声で千歳は言い返した。

「……誤解されたら仕事ができなくなるのですが」

「それならもう必要ないんじゃないか? あいつ、話せないけどまともな生活を送るようになったようだし、結城さんのおかげで」

「それを決めるのは佐藤社長だと思います」

 千歳は福沢が耳朶を指で愛撫するようになぶるのを耐えた。多分にセクシャルな触り方が、緊張だけを高め、嫌な汗が滲んで服に貼りつく。福沢は副工場長だし、己の立場をよく弁えているはずだと自分に言い聞かせる。

「やっぱり結城さんはあいつの母親に似てるね。普通の女ならこんな真似上司にされたら、ぎゃあぎゃあ喚いて被害者面するのに?」

「将貴さんのお母様がどんな方かは存じ上げませんけど、騒いだところでどうこうなるものでもありませんので」

「へえ……、こんなふうにされても?」

 目の前が唐突に陰り、千歳は福沢に口付けされた。まさかここまでされると思っていなかった千歳はさすがに驚いた。それは将貴のキスより短くあっという間に福沢は離れて行ったが、悔しくなった千歳は左手で福沢の頬を思い切り叩いた。

「……てえー……。将貴の時は叩かなかったくせに」

 福沢は余程痛かったのか、頬をさすりながら助手席側のロックを解除した。千歳は怒りで頭がどうにかなりそうになるのを必死に押さえ込みながら、足で蹴り上げながらドアを開けた。かなり乱暴な開け方でドアは全開に開いた。虫達の大合唱が千歳の立てた物凄い音で静まり返る。

「何で知ってるんですか!」

「当たったの? へえ、あいつもやるじゃん」

 カマをかけられたのだとわかり、再び千歳の中で怒りが噴火しそうになった。もう一発ぐらい殴ってもいいかもしれない。しかし、ふりあげたその手を福沢が掴んだ。千歳が思い切り睨むと、福沢はゴメンとあやまった。そして顔を近づけて小さく笑う。

「俺さ、結城さんが好きだ」

「は?」

 冗談はやめろと言おうとして、再び千歳は福沢に唇を許す真似をしでかした。将貴が気をつけろとしきりに言っていたのを、そんな事あるはずがないと軽く受け流した自分を後悔しても、こんなふうにされた今では何もかもすべてが遅い。今度のキスはとても長く、千歳は必死に歯を食いしばった。何しろ相手は男で力がある、押しのけようとしても本気を出されたら開放されようがない。

 しばらくして唇を離した福沢は、それ以上は何もせずに千歳をそっと開放した。千歳は息苦しかったせいで肩を息をする。もう殴る気力もない。はあはあと呼吸を繰り返しながら自分の足元を見下ろした。

「貴方、最低……」

 ようやく搾り出せたのがそれの一言で、あまりインパクトがある言葉とは言い難い。語録が少ない自分に嫌気がさすが、それ以外何も浮かばない。

「そうだな、最低だと思う。だけどこうでもしないと結城さんを将貴に持っていかれるから、キスした」

「……は?」

 千歳はやたらと「は?」とか「はあ」を言っている自分があほらしくなった。隣の福沢は加害者の癖になぜか被害者のように傷ついた横顔だった。

「信じる信じないはまかせるけどな。入社してきた時の結城さんに一目ぼれした」

「……信じられませんね」

 ようやく息が落ち着いた千歳は、こんな車に長居は無用だとばかりにそそくさと車を降りた。そのまま後ろに回ってトランクから自転車を下ろす。礼を言う気にはなれない。助手席のドアが開いたままなのに気付き、そのまま力任せに閉めようとした千歳を、福沢が腕を伸ばして止めた。

「結城さんみたいなまっすぐな目の女、初めてだった。ずっとあの将貴と居ても頑張ってて、嫌な事があってもひたすら頑張ってる結城さんを見てるとたまらなくなる。すごく好きなんだ」

 車の中から見上げる福沢の顔は真剣そのものだった。普通の女ならそんなふうに告白されたらうれしくて舞い上がるだろう。だが千歳は違う。

「……そう言われても。第一福沢さんぐらい整った顔立ちの方なら、沢山の綺麗な若い女の子が寄って来ると思います」

「結城さんじゃないのなら、邪魔なだけだ。今すぐとは言わないけど、とにかく考えておいて欲しい。あと……フェアじゃないのを承知で言うよ。卑怯だと詰ってくれて構わない。将貴には一生忘れられない女が居る」

「私は別に将貴さんが好きじゃありません!」

 そう言って千歳が力任せにドアを閉めようとするのに、福沢は腕を突っ張って閉めさせない。

「あいつを選ぶなら相当傷つくのを覚悟しないと駄目だ。俺としては結城さんがこれ以上傷つくのは見たくない」

「いい加減にしてくださいっ!」

「言っとくけど本気だから。俺は好きな女しか車に乗せない、食事にも誘わない」

「そうやって女の人渡り歩いてるんでしょ!」

 ぐいぐい閉めようとする千歳だが、福沢は片手一本で軽くそれを阻止し続ける。

「……そうだな、でもそれは大学卒業までの話。嘘だと思うなら佐藤社長の秘書の柳田あたりに聞いてみたらいい」

「聞く必要もありませんよっ!」

 やっとドアを閉められた千歳は、自転車のハンドルを持ちながら肩を怒らせて、アパートに向かって歩き始めた。まったく何て日だ。思い出したように自転車に乗りかけた千歳に、福沢が背後からクラクションを鳴らした。頭にきた千歳が振り返ると、車内灯をつけた福沢が千歳に軽く手を上げて口だけでおやすみと言った。そのまま車はユーターンし、元来た道へ走り去っていく。外灯の心細い灯りの下で千歳は脱力した。立ち止まると蚊がわんさかと襲ってくるので直ぐに自転車に乗る。ペダルを扱ぐ足はやはり重く本調子ではないようだ。空を見ると沢山の星が美しく瞬いている。

 あの星のどれかが自分と運命を共にする星だとどこかで聞いた。それならばその星に聞きたい。自分は一体どうしたらいいのかと。

 アパートの部屋は閉め切られていたのでやはり蒸し暑かった。千歳は麦茶を飲もうとして冷蔵庫を開け、そこに美しく盛り付けられた惣菜が二人分ならんでいるのを見つけた。将貴が作ってくれたのだろう。一つは冷やし中華で、かにかまぼこや錦糸卵、細く切ったきゅうりやトマト、ボイル海老が色目鮮やかだった。たれはゴマと中華と二種類ある。小さな小鉢には三つ葉が載せられた卵豆腐があり、小皿には苦瓜が炒り卵と鰹節とちりめん雑魚と一緒に炒めた物が盛られていた。

「……なんかハッキリ言って、将貴さんの方が料理上手な気がする」

 将貴は時折夕食を作ってくれるようになった。いずれも上品で味がいい。これでは仕事とは言えないのではないかと思いながら、千歳は箸を取り出した。確かに将貴は普通に戻りつつあるような気がする。それは同じ職場で働けばもっとわかるだろう。でもそうなったら千歳は将貴にとって用済みになる。福沢に言われなくても将貴との恋は前途多難だと思う。家柄が違いすぎる上に、あんなに根性が悪そうな弟が居たのでは気が休まりそうもない。勘当中の会長とやらも気が重い。そして一生忘れられない女が居て……。

 ぶんぶんと頭を勢いよく横に降り、千歳は中華のたれを冷やし中華にかけた。酢とゴマの香ばしい匂いがさあっと広がる。

「どのみち私は誰とも結婚しないし恋人もいらないもの! とにかく食べよう。そんで寝よう。どーでも良い事は明日に考えたらいいの。そうしましょ!」

 ずるずると頬張った麺は、かなり甘酸っぱい味がした。

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