天使のマスカレイド 第16話

 新幹線に揺られながら、千歳は窓から流れていく景色を眺めていた。隣にはサングラスをして深く帽子を被った将貴が眠っている。

 あれから千歳は市民病院へ行って内科を受診した。予約していないのにすぐに診察され、そこで柳田からすべての事情を聞いているという医師から話を聞いた。もちろん本当の診察もした。疲れから貧血になってしまっているらしい。これは本当に治療したほうがいいですねとその医師は言い、木野記念総合病院への紹介状を書いてくれた。家へは人間ドックの書類が入っている封筒が郵送されており、将貴が事情を聞いてきた。

 わざわざここまでしなくてもと思うが、柳田によると将貴はかなり勘が鋭く、嘘は直ぐにばれるらしい。木野記念総合病院へ行って検査を受ける事になったと言うと、将貴は心底驚いた顔になった。そしてこちらから言いもしないのについていくと申し出てくれたのだった。

(なんだかいやーな予感しかしないわ)

 柳田のメールからは失敗は絶対に許されないというような、ぴりぴりとしたものが読み取れた。普段からそつなく仕事をしているイメージが強い柳田が、これほどの緊張感を見せるというのが嫌な予感の原因だった。東京が近づくにつれて田舎風景よりビルが増え始め、日本という国が別の一面を見せ始める。

「将貴さんお目覚めですか?」

 将貴が帽子の被り具合を確かめたので千歳は声をかけた。将貴は小さく頷く。アイロンはきちんとかけられているが、なんとなくくたびれているシャツとスラックスを履いている姿はとても御曹司には見えない。ほぼ似た格好の千歳はなんとなく天井を仰いだ。昔なら出かける時は思い切りおしゃれをした。季節ごとに変える化粧、沢山の服、靴、安売りではないかばんに、三ヶ月に一度は美容室へ行ってパーマをかける……。

 借金は消えてもそれらを復活する気持ちはわかない。身だしなみとそれらは違うとわかったせいなのだろうか。

 どれだけ美しく着飾っても鈴木は他の女へ走った。ご丁寧にあの闇金業者の男は相手のキャバ嬢の写真まで見せてくれた。その女は千歳と同じ年だというのに、やけに男を煽るような美しさを小悪魔的な笑みの中に持っていた。柔らかそうでいい匂いがしそうと思った千歳は、そんな彼女を見て負けたと思った。もとから美しい人間に十人並みの自分が外見で勝てるわけがないと。それは悲観的なものでもなんでもなく、ただ、ああそうだなと腑に落ちた。人間の種類と言えばいいのだろうか。それをきちんと理解して、活用し、自分を活かす道を見つけるのが大人になるという事なのだと。

 車掌のアナウンスが入った。地方ではまず見られない巨大なビル群の中へ電車は入っていく。木野記念総合病院は都心部にある。東京駅に着いたら乗換えだ。久しぶりに見る人の多さはどんな感じだろうか。

 病院へ入った千歳と将貴はまず総合案内へ行った。伝達がうまくいっていないのか案内係は本当に人間ドックの場所を案内する。スマートフォンを取り出して柳田に電話しても何故か繋がらない。受けてからなんらかの連絡が入るのだろうと千歳は思いながら、将貴と一緒に人間ドック専用棟へ歩いた。

 千歳はずっと黙っている将貴が気になった。声が出せないにしても一度もこちらを見ない。人間ドックをする棟は新しく建てられた棟なのか何もかもが綺麗でピカピカしており、行きかう人が少なくがらんとしていた。案内された受付へ行って千歳が予約票を渡すと、受け取った事務員ははっとしたように二人を見て、どうぞこちらへと言いながら受付を飛び出し、個室へ二人を案内した。

「え……? ここ?」

 案内されたのはホテルの個室のような豪華な部屋だった。目に優しいグリーン地に金色模様が描かれている絨毯に、座り心地が良さそうなソファ、テレビなどがあり、薔薇やゆりの花が華やかに花瓶に生けられている。事務員が出て行くと初めて将貴が口を開いた。

『柳田の指図か?』

 真っ黒なサングラスで将貴の表情はうかがい知れない。千歳はとんでもない事をしてしまったという後悔だけを感じ、唇をかみ締めた。

『帰ろう』

「でもっ」

『ろくでもない事を企んでいるに決まっている。付き合う必要はない』

 千歳の腕を引っ張った将貴がドアを開けようとすると、勝手にドアが開いた。案内の事務員が開けたのではなく、開けたのは柳田だった。

「来たばかりでお戻りになるのはいかがかと思われますが?」

 柔らかな物言いの中に恫喝がある。しかし将貴は柳田を肩で押しのけて部屋の外へ出た。

「将貴さ……きゃ!」

 唐突に将貴が止まり、千歳は将貴の背中に嫌というほど顔をぶつけた。

「おや兄さん。本当に来たんですね」

『…………』

 佑太とお腹の大きな若い女性が将貴の前に立っていた。握られている手首から将貴の震えが伝わってきた。柳田が将貴の腕を引っ張って、無理矢理元のソファに座らせる。千歳も将貴の隣に座った。

「兄さん。何か言ったらどうなんです? 声は出なくても話せるんでしょ?」

『…………』

 向かい側に座った佑太が話しかけても将貴は何も言わない。佑太は舌打ちをし、腕を伸ばして乱暴に将貴のサングラスを取った。将貴の目は青のままで硝子玉のようだ。この雰囲気は知っている。将貴はこの三人を拒絶しているのだ。表情を消した将貴は当然佑太に答えない。佑太は参ったなと面白そうに言い、千歳に視線を向けた。

「おかしいなあ。いろんな表情を見せると聞いていたけど?」

「大嫌いな人の前だからではないですか?」

 千歳は辛らつに言い返す。

「おーおー相変わらず言うねえ。身の程も弁えず、将貴さんの笑顔を見られるのは私だけなのとでも言いたいのかな?」

「身の程は十分弁えていますわ。でも実際、貴方達の前で将貴さんが笑うわけないでしょう。柳田さん、説明してください」

 おやおやと佑太は眉を上げて、背後に立っている柳田に振り返った。

「お前説明していなかったのか? 美留に引き合わせるために呼び出せと言ったろう?」

「正直に申し上げますと、そんな言い方では将貴様は絶対にいらっしゃいませんので」

 美留(みる)という名前の女性は、いたたまれない顔をしてお腹を抱えている。可愛らしいという印象の小柄な身体で、長く美しい黒髪をリボンで結びふくよかな胸の上へ垂らしていた。おそらく彼女が佑太の妻だろう。清純な雰囲気が漂っているのに、なんだってこんな悪魔と結婚したのか謎だ。

 佑太が黙ったままの将貴に言った。

「この通り美留も妊娠9か月に入ったんです。兄さんが一向に家へ帰ってこないから我々は結婚式をあげられない。いい加減に認めてはもらえませんか?」

 将貴はやはり何も言わなかったが、膝の上の拳がぎゅっと握られる。もう将貴の震えは傍目にも明らかだ。千歳はなんだか恐ろしくなってきて、将貴の腕を引っ張った。

「……すみませんでした将貴さん。もう帰りましょう?」

 佑太がむっとした。

「勝手な事言わないでくれる? 結城さん。あんたはただの雇われ人だ」

「将貴さんの病気を治すのが私の仕事のはずです。せっかくよくなってきたのに悪化したらたまったもんじゃありません!」

 千歳は佑太に言い返した。しかし佑太は相変わらずだ。

「へえー。ぜんっぜん治ってないけどね。美留に未練たらたらじゃないか」

「未練?」

「ああ。兄さんは僕の妻になった美留が好きなのさ、いまだにね。勝手に横恋慕して勝手に失恋して馬鹿そのものだ」

「佑太さんっ!」

 佑太は咎める妻を無視して続ける。

「大丈夫だ美留。兄さんには今、この結城千歳という可愛げのない女がそばにいるんだから」

 酷い言われようだが、千歳は言い返す言葉が浮かばなかった。今の千歳の頭の中を支配しているのは、福沢が言っていた将貴が一生忘れられない女というのが、この美留だという一点だ。

(また負けちゃったなあ……)

千歳は自分と美留を比べた。美留は千歳がこうなりたかったというものをすべて持っている。愛くるしい容姿に、いろんな人に愛されそうな柔らかな雰囲気。護ってやりたいと思わせる華奢な身体つき。同じ小柄でも、棒切れスタイルで気が強そうな自分とはえらい違いだ。

(負けてばかりだな私)

三人と二人の間に壁が出来た。佑太のあざけりも、柳田の冷たい目も、気遣わしげな美留の言葉も入らない。将貴と二人、自分達以外のすべてを拒絶する。目の前の現実をしっかり見据えろと理性が訴えても、そんな事をしたら心から青い血が噴出しそうだと感情が叫ぶ。

 ぐらり、と横の将貴が倒れてきた。千歳ははっとする。

「ま……さ、たかさん?」

 ぱたりと千歳の膝に横倒しになった将貴は酷い熱だった。さっと寄ってきた柳田が将貴の額に手を当てて顔色を変える。

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