天使のマスカレイド 第17話
「取りあえずそちらのベッドへ」
「あの、いいのですか?」
「構いません」
千歳は柳田が将貴を運ぶのを手伝った。将貴の身体はかなり軽いようで、柳田は苦もなく横抱きにして部屋の隅にあるベッドへ寝かせる。佑太が面倒くさそうにつぶやいた。
「なんだと言うんだ。そんなにショックだったのかな?」
まるで今何時だったのかなと聞くような無神経さに、将貴のそばに跪いていた千歳は、我慢がならず佑太に振り向く。
「将貴さんの病気を治したいのか悪化させたいのかどっちなのよっ!」
「うるさいねえ。君は僕の言うとおりに動いてればいいんだよ。なんならあの借金取り達にまた追われる?」
「社長、いくらなんでもそれは……」
柳田が諌めた。
「だってさ、うるさいだけにしか思えないんだよこの人……。僕の目も節穴になったかな?」
千歳はぐっと拳を握り締め、自分よりはるかに身長が高い佑太を睨みつける。おそらく将貴は朝から具合が悪かったのだろう。だからほとんど話さなかったのだ。動きもなんとなく鈍かった気がする。気付かなかった自分が許せないが、兄が倒れたのにこの言いようの佑太はもっと許せない。美留がしきりに佑太を止めようとしているが、佑太は耳を貸さずに文句を言い続ける。
(このクソ社長っ!)
千歳が一歩踏み出した時だった。
「……何の騒ぎだ?」
ドアがゆっくりと開き、車椅子に乗った男性が入って来た。部屋がしんと静まり返る。現れただけで場の空気を支配した男性に、手を出しかけていた千歳はその手をゆっくりと下ろした。
「その娘は誰だ?」
「見苦しいところをお目にかけました、父さん。兄さんをお連れしたのですが倒れてしまわれて……」
佑太の口ぶりががらりと変わる。千歳は黙って男性に頭を下げた。その千歳と佑太を将貴の父親は鋭い視線で射抜き、ベッドで横になっている将貴をも射抜いた。
「誰が連れて来いと言った?」
「兄さんが家を離れて12年です。父さんは言いましたね? 兄さんが家へ戻るまで美留との結婚式はあげないと。何年経っても兄さんは帰ってきません、このままでは美留が可哀相ではありませんか?」
「そう思っているのはお前だけだと何故わからない? 私も美留も将貴に合わせる顔がないのだ。お前だってそうだ」
「ですが……っ!」
父親は話を元に戻した。
「それでその女は何者だ?」
「兄さんの身の回りの世話をさせております。報告はしたはずですが」
「……ああ、借金を肩代わりした者か」
「誰も受け付けなかった兄さんが彼女を受け入れておりますので、少しは病気も治癒したかと思ったのですが、そうでもないようで……」
「我々に会えば悪化するだけ、美留は辛いだけだ」
将貴の父親は冷笑し、佑太の横をすり抜け千歳の前まで車椅子を進めてきた。千歳は何を言われるのかと緊張した。ここまでの存在感を持つ人間は知らない。
「このお嬢さん以外はすべて部屋から出て行け」
「しかし」
佑太は何かを言おうとしたが鋭い目に阻まれ、仕方なく美留を連れて出て行った。柳田が外側からドアを閉め、千歳はいったいどうなるのだと思いながら再び父親に頭を下げる。すると父親も頭を下げたので内心で千歳は驚いた。
「座ったままで失礼する。私は佐藤貴明、この佑太と将貴の父にあたる。お嬢さんの名前は何だったろうか?」
「ゆ、結城千歳といいます」
するどい眼光が消え、おだやかな眼差しに変わった。
「うちの者が失礼をしているようだ。将貴の面倒を見てくれているらしいが大変だろう?」
「いえ、その、将貴さんの方が皆上手でどちらかというと面倒を見てもらってて、その……っ」
ドアがノックされ、貴明と同じ歳ぐらいの医師が部屋に入ってきた。貴明はその医師を見て気まずそうにしたが、黙ってベッドの上の将貴に視線を流した。医師は将貴の体温を計った後、シャツをはだけて聴診器を当て、さらに下腹部を数点押した。最後に口腔内をライトで覗き込み、ストレスから来る風邪だろうと診断を下した。
「院長自ら診るとは、この病院は医師不足なのか?」
「私は彼の主治医ですから。最近受診してくださらないので困っていたところです。結城さん、初めまして。木野和紀と言います」
「初めまして。結城千歳です」
千歳は院長が将貴の主治医というところに、やはり将貴は御曹司なのだなと変に納得した。木野和紀というその院長が貴明は好かないらしく、不機嫌そうな顔をしている。その顔は将貴そっくりで妙な親近感が千歳の中に湧いた。
「前よりは良くなっている様だ。良かった」
木野は医師然とした男で、人間的にも医師としても信用できそうだ。木野が最近の将貴の様子を聞きたがったので、千歳は説明した。最初は口も聞いてもらえなかった事。でも最近は声が出なくても会話できる事。料理上手で家事全般がとにかく素晴らしい事。あれこれ自分を心配してくれる事等。木野と貴明はそれをうれしそうな顔で聞き入り、千歳は話してよかったと思った。
木野がしみじみ言った。
「そうか、結城さんのおかげなのだな」
「いえっ、私は何にもできないし……怒鳴ったり慌てたり……へまばっかりで」
貴明が笑った。佑太に見せたような冷笑ではなく、本当に心から染み入るような温かな笑みだった。
「我々が持たないもので将貴を癒してくれた。それでいい。本当にありがとう」
「は、その……」
戸惑うばかりで千歳は何と返したら良いのかわからない。柳田によるとこの貴明という父親は冷酷そうなイメージだったのに面食らう。どちらが正しいのだろうか。
「妻と会わせたいところだが、今日は用事があっていない。将貴が目を覚ます前に退散するとしよう」
「どうしてですか? せっかく会えたのでは……」
「……我々のエゴで将貴を振り回すのは許されない。将貴自らの望みで来てくれたのでなければ意味がないのだ、結城さん」
「…………」
「私がここに居たという事は決して将貴には言わないで欲しい。将貴の負担にはなりたくない」
「佐藤さん!」
貴明が首をかしげた。
「結城さんは、将貴が好きかな?」
「!」
いきなり直球を投げつけられ、正直な千歳は赤面する。はははと木野と貴明が笑った。返答に困った千歳の両手を貴明が細い骨ばった手で包み込み、再び頭を下げた。
「将貴も貴女が好きだろう……。これからも、頼むよ」
「でも私はろくな人間じゃないので、将貴さんにはふさわしくないですっ。いっぱい人に言えないような悪い事を……っ」
「男に騙されて借金を背負わされた被害者であるだけだ。それを真正面から受け止めた結城さんが、ろくな人間じゃないわけがない。胸を張りなさい」
ぽんぽんと千歳の手を叩くと、貴明は何も言えないでいる千歳を残し、木野に車椅子を押されて出て行った。