天使のマスカレイド 第19話

「で、でも、それだとあのお二人は結婚式があげられないままで……」

『家へは戻らないけど結婚式は出るよ。それでいいだろう』

「それって……」

 それでは意味がない。将貴の家族にとって、結婚式云々はおそらく将貴を家へ連れ戻す為の道具に過ぎないのだから。

『それで義理を果たしたらもう口出しはさせない。あれやこれや探られるのも言われるのももうまっぴらだ。10代の子供じゃあるまいし、いつまでも家に縛られるのもどうかと思わないか?』

 感情のない青い目が千歳をじろりと見る。確かに実家に入りびたりで自立できないのなら問題だと思う。俗に言うニートという存在で、将貴は自分はそうじゃないと言いたいのだろう。確かに将貴はしっかり自立しているし、そういう意味では親や弟妹達にどうこう言われるのは腹立たしいに違いない。だが、佑太はともかく美留や両親が求めているのは心の繋がりであり、詳しくは知らないが、なんらかの出来事によって失われた将貴の愛情を求めているのだ。

 ふと、あの美留の目に浮かんでいたものの正体がわかった。あれは悲しみだ……。彼女の目はずっと将貴に謝り続けていた。しかし、彼女や両親のそれは将貴にはまったく届いていない、将貴は彼らに対して心の盾を外していなかった。

『……せいぜい大人しく優しい兄として始終微笑んで祝ってやるよ。それであいつらも満足するんだろ』

 こんな言葉を言っているのに、天井を見ている将貴の顔は無表情だ。憎しみを滲ませていたなら、ここまで千歳の胸は痛まない。感情すら出ない悲しみとはどれほどの辛さを伴うものなのか、さすがの千歳にもわからなかった。将貴の心の闇は千歳とは比較にならないほど深く、長い年月をかけて彼の心の奥底まで侵食している……。

 その夜千歳はなかなか眠れず、固いベッドで何回も寝返りを打った。イヤホンでラジオを聴いていれば眠れるかと聴いてみても、かえって目が覚めるうえ、人の会話が面白く聞き入ってしまう。基本どこでも眠れる性質なのに今夜ばかりは眠れない。深夜の1時を過ぎた頃とうとう千歳は眠るのを諦めた。自動販売機へ飲み物を買いに行くために財布を持ってベッドを抜け出す。廊下は当然の事ながらところどころにしか照明がついておらず、人影も皆無でシンとしている。途中でナースステーションを通りかかった時だけ、昼間のような明るさが千歳を照らした。自動販売機は千歳のいる6階にはなく、1階までエレベーターで降りなければならない。綺麗な病院でも深夜はやはり不気味なもので、エレベーターの中の鏡を千歳はなるべく見ないようにした。

 音もなくすうっとエレベーターは1階に着いた。千歳はそこだけが煌々と光っている自動販売機の前に立ち、ペットボトルのお茶を二本買った。がこんとペットボトルが落ちる音がやけに大きく響いて肩がびくついてしまう。大人なのに馬鹿かと思っても、怖いものは怖いのだから仕方がない。

「おや、結城さんじゃないですか」

「きゃあっ」

 唐突に男の声が横合いから聞こえて、千歳はこれ以上はないと言う程にびっくりした。自動販売機の隣にベンチがあり、そこで何故か院長の木野が缶コーヒーを片手に座っていた。ドキドキする胸を押さえながら千歳は力なく笑った。

「お、驚かせないでください院長先生……。私は怖いの駄目なんですから」

「ははは。そんなに怖いのによく1階まで一人で降りて来たね。ここの病院はたっくさん怪談話があるのに」

「ええ!?」

 くすりと木野が笑った。

「看護師に数人見える人がいるんだ。亡くなった患者さんが夜中にナースコールしたり、ふと横を向いた瞬間に立っていたりね」

「うええ……やだ……」

 死者がそんなふうにつながりを持ってくるなんて怖さ倍増だ。木野はすまんすまんと謝って、こっちの部屋の方は明るいからと、近くの診察室へ千歳を招いた。

「えっと、でも」

 躊躇う千歳に木野は診察室の鍵を開けながら言った。

「将貴さんについて聞きたいだろう? 守秘義務があるから普通は話さないけど貴女には話したほうがいいと思ってね」

「……はあ」

 薬品の臭いがする診察室で椅子を勧められ、まるで診察を受ける患者のようだと思いながら、木野と向かい合う形で千歳は腰を掛けた。木野は若い頃はさぞもてたであろう整った顔に柔らかな笑みを浮かべ、千歳に持っているペットボトルを指して、そのお茶は二十年位前からあって今もこの病院で一番人気なんだよと言った。そうなのかと千歳がペットボトルを見下ろすと、そのお茶は将貴も好きなのだと木野は付け加えた。

「将貴さんが大分元気になっていてびっくりした。どうやってあそこまでにしたのか聞きたかったんです」

「病気ですから元気とは……」

「心が、ですよ。一体何をしたんですか?」

「昨日お話したように、家でご飯を食べてもらうようにしただけです。他には何も……」

「それそれ。人の意見を聞かない彼が、貴女の意見を聞き入れたのがもはや奇跡です。その方法が知りたい」

 木野は立ち上がり、棚から一冊のカルテを取り出した。それには番号が書かれているだけで誰のカルテかはわからなかったが、何故かそれが将貴のものであると千歳はピンと来た。それ一冊だけ異様にくたびれていて、他のカルテより年季が入っていたからである。

「将貴さんはいつから院長先生の診察を受けているんですか?」

「もうかれこれ20年のつきあいになるよ。最初は風邪とか怪我の診察だけだったんだけど、思春期の頃からは心療内科も加わった」

「その頃から話せなかったんですか?」

「いや、それはつい最近……とは言っても12年ほど前になると思います。それが最後の診察でした。あの日の事はよく覚えています。意思疎通のために出されたペンを握っても、彼はただ無難に笑顔を貼り付けるだけで、何と問いかけても答えてくれないまま診察が終わりました。ざっと三時間ほどかけましたが」

「そんなに!?」

 大病院の医師がたった一人にそこまで時間を割くとは、手術ではあるまいしどれだけの事情が絡んでいたのだろうか。

「その頃はちょうど佐藤グループも大変な時期でしてね。当時社長だった会長が、病気で倒れたんです。腎臓がんです」

「腎臓がん……」

「早期発見でその時は手術で治りましたが、その大変な時期にあの将貴さんは失踪しましてね。佑太さんがまだ当時高校生でしたが、彼が長兄のかわりに頑張っていました」

「…………」

「何故だか東京からかなり離れた四国に将貴さんは居まして、見つけるのには半年ほどかかったと聞いています。失踪したのは高校を卒業した春休みの初日。大学も合格して進学が決まっていたのに……」

「じゃあ、大学は……?」

「一年浪人しています。」

「何かあったんですか? その日に」

「本人は何も言いませんから、周囲の人間の話からでしか推測できません。ただ……」

 その時、診療室のドアががたんと音を立てて開いた。驚いて振り向くと、寝ていたはずの将貴が怒りを緑の目に燃やしながら立っていた。

「点滴が外れたようだね。よかった」

 木野の問いかけを無視し、将貴はつかつかと診察室に入ってきて千歳の腕を掴んだ。この目は知っている。あの天麩羅屋で見たものとまったく同じだ。

『どこへ行っていた? 帰るよ』

「あ、でも……」

 くいと腕を引かれて千歳は木野を振り返った。木野は相変わらず柔和に微笑んでいる。

「佑太さんの言ったとおりだ。将貴さん、貴方は彼女の前でだけ感情をあらわにする」

 将貴の腕を掴む力は緩まなかった。そのまま強引に千歳を診察室から連れ出そうとする。ここから先が肝心なのにと千歳は思うが、木野が止めてくれる気配はなく、そのまま診察室を出て暗い廊下を将貴に引きずられた。

「ま……将貴さん!」

 さっき歩いてきた廊下を逆戻りし、1階に止まっていたエレベーターに乗せられた。将貴は千歳に振り向きもしない。腕はエレベーターに入ってようやく離されたが、かなり強い力で握られ続けたため赤くなってひりひりと痛んだ。それを摩っていると元の階に戻り、また同じ場所を掴まれる。痛いと言っても将貴は聞いてくれない。熱は夕方より下がっていて平熱に近く、将貴の足取りはかなりしっかりしている。

「あら、同室の方はやっぱり自販機にいらしたんですね?」

 ナースステーションから、夜勤の若い女性の看護師が顔を出した。千歳の持っているペットボトルに目が行ったのだろう。将貴は小さく頷いてそのまま立ち止まらず歩いていく。看護師もとくに心配していたふうもなく、声が追いかけてくる事はなかった。戻った病室は、将貴のベッドの側の照明が薄暗くついていた。

「まさた……っ」

 不意に前に居た将貴が千歳に振り返った。なんだろうと思った千歳が見上げると、繊細なガラス細工を思わせる将貴の緑色の目にかち合った。それには初めて見る危険な陰がちらりと見え、千歳は反射的に身体を強張らせる。そんなはずがない。起こり得ないと思ったのもつかの間、千歳の身体は将貴のベッドに押し倒されていた。

「────!」

 この間とは全然違う、やけに強引でそれでいて切なさだけが伝わってくるキス。千歳は一瞬その甘さに酔って、はっと正気に戻る。

「うう……」

 息が出来なくて苦しいのに将貴は離してくれない。それどころか退けようとした両手に将貴の手が絡みつき、汗の匂いのするシーツに押さえつけられた。恐怖は不思議となかった。どうしてなのという問いかけと、馬鹿みたいに喜ぶ千歳自身が居る。

「ふ……んぅ」

 じわりと甘い毒が身体全体に広がり、重なる将貴の体温がそれをさらに加速させていく、将貴なら構わない。将貴が好きだから抵抗はしない────。

「は……」

 ようやく唇が離れ、千歳は息をついた。見えるのは将貴の金髪と白い天井だった。放心状態の千歳はこのまま寝てしまいたい誘惑に目を閉じたが、ふいに聞きなれない音を耳に拾った。

「……俺の過去を、俺以外の人間から聞くな」

「え?」

 眠りに沈みかけていた意識が一気に急浮上した。かすれた低い声で話すのは一体誰だ。天井を向いていた千歳は圧し掛かっている将貴を見ようとして、よりきつくベッドに押し付けられた。将貴の身体は震えていた。

「お前にだけは、俺の情けない過去を知られたくない」

 初めて聞く将貴の声は、キスと同じ切なさに滲んでいた。

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