天使のマスカレイド 第20話

 将貴が離れて身体が開放されると、千歳は深呼吸をした。今頃になって身体が震えてくるのが困る。

「……いつから話せる様に?」

「ついさっき。というか……今」

「なんだってまた突然に」

「そんなの俺にもわからないよ」

 将貴はそのまま千歳の横に寝転び、息をついた。佑太よりも幾分か高い将貴の声は、まるで少年のようだ。少年のようでいて大人の部分もあるという妙な声に聞き覚えがあると思ったら、将貴の父親の貴明の声に似ているのだった。父親の場合は初老なのに多分に若さがあるという感じだった。声を出すのがうまくいかないのか、将貴の声はかすれがちで少し聞き取りにくい。

「自販機に行く前、お前がごろごろ転がって寝られないのわかってたけど、話そうにも俺は声が出ないし、それにおかしな雰囲気になったら困ると思って……」

「ははは、私相手に起こりませんよ」

「……お前な」

 将貴が心底呆れたように千歳を見る。千歳は起き上がってベッドから降り、ぺこりと将貴に頭を下げた。

「許可なく、将貴さんの過去を聞こうとしてすみませんでした。これ以後聞かないようにします」

「謝る必要はない。……ただ怖かったんだ」

 将貴も起き上がり、ベッドに腰を掛ける形で立っている千歳を見上げた。目の色はまだ緑色のままだった。

「怖い? なにがですか?」

「皆も知っている通り、俺は頭のいい弟に皆取られた能無し兄だ。遺伝しているのは父親の顔だけだと散々言われてきた。実際そうだったから別に構わないさ。でもお前にその様がばれるのが怖かった。やっと安心して帰れる場所が手に入ったのにまた消えるかと思うと……」

 そう言えば佑太との契約は、将貴が声を出せるようにする事やまっとうな食生活をさせる事だった。すべて出来てしまった今、これからどうしたらいいのだろうと千歳の心にも不安が沸いた。それを見抜いた将貴が首を左右に振る。

「お前の借金は俺が佑太に返しておく。だから、あいつらの命令はもう聞かなくていい」

「将貴さん。それでは私は申し訳ないんです。返したいんです借金そのものを」

「借金分以上のものをお前はくれた。だからいらない」

「…………」

 将貴は千歳を黙らせると、言わないはずだった自分の過去を語り始めた。

「俺も生まれた時は期待の跡継ぎで注目の的だった。二年後に次男の佑太と長女の咲穂という双子が生まれた。俺が5歳になる頃には佑太の非凡さが際立ってきて、皆佑太に注目しだした。そりゃそうだろう、大企業を継ぐ者は優れていた方がいい。寝不足で病院に運び込まれるほど勉強しても俺は平凡なままで、こちらが一を覚えている間にあちらは百を覚えていると言った有様で差は開く一方だった」

 何故将貴は過去を知られたくないと言いながら、語り始めたのだろうと千歳は不思議に思った。話している将貴は全然楽しそうには見えないというのに。

「最初は両親で、次は伯父と伯母、次は友達で……最後には、彼女だけは自分を選ぶと思っていた従妹の美留があいつを選んでしまってね」

「彼女とつきあってたんですか?」

 将貴の目の色がいきなりすうっと青色に戻り、千歳は恐ろしくなった。この変わりようが怖い。暴力を振るわれるとか、発狂するのではという恐怖ではなく、目の前の人間が砂のように消えてしまうかもしれないという恐れだった。

「……そう思ってたのは俺だけだった。彼女はいつも言ってた、俺が好きだ、俺と結婚したいって。馬鹿な俺はそれが子供っぽい幻想から来る言葉だとは思ってなくて、真実だと思ってたのさ。だから高校を卒業した時、綺麗なレースのリボンで結んだ薔薇の花束と指輪を持ってプロポーズしに行った」

「プロポーズ……」

「でもいざ彼女の家に行ったら男物の靴があって、それが弟の佑太の靴だった。なんでいるんだろうと思って家に上がったら……、佑太と彼女が愛し合ってる最中でね。無理矢理じゃないのはすぐわかった、彼女は何度も佑太が好きだと恥ずかしげもなく言ってた。美留は気付いてなかったけど、佑太は驚きすぎて何も言えない俺ににやりと笑った。あの勝ち誇った目は忘れられない」

「やっぱりあの社長は根性悪いですね。最悪ですよ高校生の癖に濡れ場見せるなんて。それも兄の想い人を」

 将貴は苦笑した。

「伯父と伯母は伯父の絵描き関係の仕事でベルギーに行ってて、美留の姉と兄はとっくに家を出て独立していなかったから、その時家に居たのは彼女一人。だからこそプロポーズしやすいと思ってたのは俺一人じゃなかったってわけ」

「……それで四国へ?」

「すぐに行ったわけじゃない。美留に気付かれないようにそのまま外に出て、最初は家へすぐ帰ろうと思った。でも切符を買おうという時に、路線図の一番はしにある駅まで行きたいと唐突に思ったんだ。新幹線じゃなくて各駅停車の鈍行でね。楽しかったな、走ったかと思ったら、直ぐにまた駅に止まって、人が乗って降りての繰り返し……」

「…………」

「終電で一回降りて駅前の路上で寝た。寒かったなああれは。そしてなんとなく島に行きたくなって徳島に行ったんだ。とてもよく晴れたいい日で、気分は最高だった。山に登りたくなったけどそういう服を持ってなかったから諦めて、適当に名所歩いて、運が良かったのか、お金が無くなった時にあるホテルの料理長さんに拾ってもらって、そこで住み込みのバイトをさせてもらった。だから料理が出来るわけ」

 そこで将貴が手を伸ばして千歳の短い髪を撫でた。目は青いままで、その時の情景を思い浮かべているかのようだ。

「そこはとてもいいところだった。誰も俺を馬鹿にしないし、かといってやたらとちやほやしない。裏表がない人達ばかりだったから安心して自分自身で居られた。それなのに、ずっとそこに居たかったのに、半年後、家の奴らに見つかって無理矢理連れ戻された」

「お父様ががんで倒れたと聞きました。だから……」

 将貴は鼻で笑った。

「ふ、それがどうだって言うんだ。誰も俺の意見など仰ぎもしないのに何故居る必要がある? 奴らは佑太か母さんの指示しか実行しない。げんにあいつらは俺に眠り薬を飲ませて連れて帰ったんだ。俺の意思などまったく無視だ。家では相変わらずの雰囲気だったよ。すぐわかったから、俺は何も言わない事にした。黙り込んだままの俺を見て母さんが顔色変えて、あの院長に診せたり、できるわけもないのに父さんの手伝いをさせたり……」

 くっくっくと、将貴は自らをあざける笑い声を立てた。

「あれは面白かったな、なんでこいつはこんな事も出来ないんだって重役達の目。父さんにそっくりだからって俺みたいなのにできるわけないっての」

「それで……どうなったんです?」

「父さんはすぐに手伝いを止めさせたよ。当然だろ? 馬鹿息子を表に置いたりしたら恥をかくし、やらせるなら期待の御曹司にやらせたほうが余程社員達も安心する。それからは母さんの手伝いばっかりしてた」

「お母様の? お仕事されてたんですかお母様……」

 妙だと思いながら千歳は聞いた。将貴は両手をシーツについて、足を組んだ。

「裁縫と料理と掃除。家事一般というところかな。人間だったら誰でも出来る事ばかりさ……。やりたくなかったけど、母さんだけは本当に俺を心配していたから、それをなんとかしたくてやってた。母さんが笑って欲しいんだなと思ったら笑ったし、面白い話をして欲しいんだなと思ったら四国での話をした。結構うまく行ってたと思う。でもそれもほんの少しの期間だった。父さんに大学に行けと言われて、仕方ないから受けたよ。本当は徳島へ行きたかったけど許されなかったから関西の大学へ行った」

「大学ってなかなかいけるもんじゃないですよ。そんな言い方は……」

 わかっているのだと言うふうに、将貴は胸の前で掌を振った。

「大学2年生の夏休みに帰省しろとしつこく言われて戻ったら、何故か海外の大学に居るはずの佑太が美留を隣に座らせてた。父さんと母さん、伯父と伯母が二人を取り囲んで俺の帰りを待ってたんだ。美留は振袖を着てた」

 将貴は片膝を立てて頬杖を突いた。先ほどからずっと将貴は千歳と目を合わせない。将貴の言う恥だらけの過去だからだろうか。冷え切った青い目はどんどん凍り付いていく。

「その日は、佑太と美留が結納する日だったんだ。結納が終わると、父さんが佑太に社長職を継がせると俺に言った。何でいまさらと改めて言うのか俺は不思議だった。滑稽な見世物を見ている気分だったけど……、実際は俺が見世物だったんだろうさ」

 それはかなり辛い話だ。好きだった人まで、自分が受け継ぐはずだったものをすべて奪い取った弟のものになると公にされたのだから。

「その時不意に、ああそうか、自分は弟の邪魔していただけだったのかと気付いた。俺がいなけりゃ皆スムーズに事が運んだはずなんだ。会社を継ぐのも美留があいつを選ぶのも……」

 将貴のその時の絶望が、今の千歳を切り裂いていく。自分に将貴の過去の重さを背負うなどできっこないのかもしれない。彼を子供のままだとあざける人間は、将貴がそれが為に自分を殺して今を生きているのを知らないからあざけるのだ。彼は食品工場の工場長として立派にやっていて、人の何倍も働き、己の骨を砕いて世間に尽くしている。

「何故あの家に生まれ、父さんと同じ顔に生まれたんだろう。そう思わなかった日はない。俺は自分の顔を見るたびに辛い。馬鹿みたいだと思うだろう? でもどうしたって辛いんだからどうにもならない」

 自分は耐えられそうもない。千歳はそう思った。

「将貴さん」

「俺の存在はあの家にあるだけでみんなの邪魔になる。もともと俺の居場所はあの家にはなかったんだ。だから帰らない」

 そうじゃない。将貴が言いたいのはそんな事ではないだろう。言うべきかどうか悩んだ千歳は、それでもやはり言う道を選んだ。それは将貴のためというより千歳自身のためだった。自分がより深く傷つくのをわかっていながら、どうしても聞かずにはいられない。

「佑太さんを選んだ美留さんを見るのが辛いから……、戻りたくないのではないですか?」

 将貴は目を見開いた後ゆっくりと千歳を見て、降参と目を和ませた。

「……そうだ」

「だけど美留さんもお母様もお待ちです、お父様だって!」

「辛そうに見られるのが嫌だ。わかってる、俺のわがままだろう。でも帰りたくない。あの家に戻ったら俺は俺自身でいられなくなる。あの家を考えるだけで息が詰まってくる」

 縋るように手を伸ばされて、千歳は将貴に引き寄せられた。

「お前は違う。お前が居ると安心する……」

 ぎゅうと抱きしめられた千歳は、そのまま将貴の背中に両腕を回した。

「将貴さん」

「お前が好きだ」

 お互いの体温と胸の鼓動が重なり、わずかな動きも見過ごさないという抱擁で、うっとりしそうになりながらも千歳は一部で冷めていた。相手も自分を想っていたのだと舞い上がりたいのに千歳の心は沈んでいく。それは的中した。

「だけどお前を縛るつもりはない。篤志が良かったらつきあえばいいし、もっと他の男がよければそちらに行けばいい。お前は俺が存在してもいいのだと教えてくれた、それだけで十分だから……」

 将貴は自分に愛される価値などないと思い込んでいる。どれだけ立派に工場を経営していても、将貴の目は継げなかった佐藤グループを経営している佑太を見ている。弟への嫉妬と恐れと劣等感が付きまとって離れないのだ。その過去から少しでも楽にさせたい一心で千歳は言った。

「困りません。私も将貴さんが好きです。将貴さんの過去なんて問題じゃないです。今の将貴さんが居るのは過去の将貴さんのおかげでしょう? それを恥ずかしいだなんて思わないでください」

 ぐ、と千歳を抱きしめる将貴の腕の力が強くなった。

「……ありがとう」

 将貴の声には力がない。将貴は千歳の言葉を信じていないのだ。信じていたとしても永遠ではないと思っている。それが千歳は悲しい。確かに永遠に愛するのは難しい、でもいつかは離れていくと思われて悲しくない想いがあるだろうか。その証拠に、将貴は一度も千歳の名前を呼ばないのだ。こんな想いの告白の場でさえ。

 いつも自分の想いは一方通行だ。将貴の腕は確かに千歳を抱きしめてくれているのに、それは夢か幻のように儚く消えてしまうものに見える。

(世の中には楽しい恋もあるのに、どうして私は苦しい恋を選んだんだろう)

 千歳は将貴に気付かれないように涙を我慢した。泣いたら将貴を困らせてしまい、彼の自己嫌悪を増やしてしまう。精一杯の告白を苦い思いに満ちたものに変えるのは愚か者がする事だ。

 これは諦めになるのだろうか。義姉のあかりの言った幸せとはどんなものを指していたのだろう。今千歳が信じられるのは、将貴が好きだという自分の想いだけだ。それだけははっきりと断言できる。これだけは誰にも消せはしない。

 将貴の肩の向こう側にある窓の外は、しらじらと明るくなり始めていた。再び重なる唇は熱いのに千歳を酔わせてはくれなかった。

<第一章 沈黙の御曹司 完>

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