天使のマスカレイド 第21話

 事務所の仕事は精神力がガリガリと削られるというのは、福沢の誇張ではなく本当だった。広い工場での作業や人が行きかうビルの中での掃除と違い、狭い空間でいつも見るメンバーと四六時中一緒に仕事をしているのだ。友達でも家族でもない人間と、学校のように移動も無く休憩が一時間毎にあるわけでもなく一緒に居るというのはかなりの緊張が伴う。もともと千歳はそういうのは大丈夫な人間の部類に入るのだが、今回はなかなか難しかった。

「ちょっと結城さん、仕入伝票の入力まだ? いい加減にしてくれないかしら? 締め切りに間に合わないじゃない」

「すみません」

「もうっしっかりしてよ。25歳にもなって今までどういう仕事してたの?」

「…………」

 指導役の矢野喜代美がいちいちきつく当たってくるのが、一番の緊張を伴う原因だった。仕入伝票とは、仕入れられた物の数量と金額が書かれている伝票だ。搬入口でその伝票を元に材料を受け付けていたので千歳も知っている。搬入口から集められたそれを専用パソコンに入力するわけだが、事務仕事をした経験がない千歳にはかなり難しい。千歳は徹底したアナログ人間でパソコンを触るなどまれで、当然ブラインドタッチなどできず、テンキーなど人差し指一本一本で打つ始末だ。矢野を見てみると彼女は神業の如くキーをなぶり、いちいちキーを見ていない。指がキーの位置を完全に覚えているのだ。

(早くしなきゃってわかってるけど、間違えちゃいけないから遅くなるのよね)

 焦り気味に入力して打ち間違え、カーソルで元に戻って千歳は打ち直した。数字ばかり見ていて網膜に焼き付いている気がする。0と8と6と9が似ているのでまた困る……。遅々として進まない作業にぴりぴりとした空気を発散する指導役、どうしたって緊張して疲れてしまうのだ。矢野が電算室に席を立った後、経理の島田輝彦が慰めてくれた。

「矢野さんもいろいろ受け持ってるからカリカリしてんだ。先週に品質管理に入った山本さん、今週は結城さんと指導が続いてるから面倒くさいんだろう。あっちの都合だから結城さんが悪いってわけじゃない。間違えないようにすればいいんだよ」

「……ええ、でも、どうしても早くできませんね」

「早くても間違ってたら意味ないし」

 総務の東村雅美がそうよねえと頷く。

「私も大変だったわー入社当時。矢野さんなんて可愛いと思えるほどのお局のオバサンが居てさー。一回教えたらもう二度と教えないって怖いタイプ。確かに仕事はそれくらいの気概が必要だけど、あれは行き過ぎだったわ。退社してくれた時は神様に感謝したぐらい」

「へー……」

「矢野さんはきついけど意地悪じゃないと思うわ。ただ口がキツイのよ、男兄弟の末っ子のせいかしらね。あと副工場長にめろめろだし、結城さんと同じ歳だしライバル心が燃えるんでしょ」

「副工場長?」

 後ろめたい覚えがたんまりある千歳が、真後ろの席に居る東村に振り向くと、東村はうふふと笑った。

「副工場長ってば結城さんに気があるのばればれだもの。この間送ってもらったでしょ?」

「あれは私が倒れたからで……」

「そんなの一度もした事ない人よ。副工場長って基本冷たいの、だからめずらしくて目立つってわけ」

「……はあ、でも私は送ってもらっただけなんで」

 本当は二度もキスされて告白されたのだが。誰にも福沢が言いふらしていないだろうなと千歳はハラハラとする。

 電算室のドアが開き矢野が戻ってきたので、千歳は再びパソコンの画面に向かった。仕入伝票は山のようにある。明日は総務の仕事だ。電話応対もした経験がなくて不安だが、仕入伝票入力よりはましだろうと千歳は思う。ましな仕事などこの世に存在しないと、翌日嫌というほど思い知らされるのだが……。

 ちらりと廊下を挟んだ向こう側にある品質管理室を見ると、ガラスの窓ごしに数人が作業していて、一人はピペットでシャーレに液体を入れ、一人はシャーレを山のように積み上げて何かをじっと見ている。一人は薬品の瓶をあけて三角フラスコに粉末を投入していた。将貴が居る部屋はさらに奥になり、そこには壁があって千歳のいる事務所からは見えない。

(はあ、あちらの仕事……できるのかな私に)

 千歳は仕入伝票の数字をぽちぽちと入力しながら、なんとなく憂鬱な気分になった。そこへ緊張を伴う原因のもう一つである福沢が、マスクを外しながら事務所へ入ってきた。矢野がすっと椅子から立ち上がり、帳簿を持って福沢の机へ歩いていく。今日は総務課長が休みなので福沢が見るのだろう。二人は普通に話していたが、突然矢野が怒り出した。

「私が嘘をついているとおっしゃるんですか?」

「本人に聞かないとわからないと言っているだけだ。結城さんちょっと来て」

 何かミスをしただろうかと千歳は不安に包まれながら、福沢のデスクに行った。二人が見ているのは日別に分類された仕入高の金額だ。昨日が異様に低く利益率が異様に高くなっている。横にはチェック済みの仕入伝票の山があった。押されているのは、今週から千歳と入れ替わるように品質管理に入った山本の印鑑だった。福沢が言った。

「これはどう見ても結城さんが入力した伝票ではないけど?」

「入力日は違いますが、伝票入力後のチェックの日は結城さんの管轄になります」

「……しかしねえ。入力チェックの印鑑だけ押して、入力していないってのはどうかと思うね。何のためのチェック印だかわかりゃしない。だいたい矢野さんも忙しいのわかるけど、新人のサポートの最終チェックはすべきだよ」

 矢野が再び気色ばんだ。これではますます自分への風当たりが強くなるから、正直千歳としては止めて欲しい。福沢の言っている事は正論だが、彼女には千歳を庇っているように錯覚を覚えてしまうかもしれない。

「私だけが悪いとおっしゃるんですか?」

「結城さんだけのせいにするのはどうかと言っています。いくら仕事の流れを見るためにやった伝票入力でも仕事は仕事でしょう。これは引継ぎをおろそかにした山本さんの責任で、この伝票ナンバーの存在を知らない結城さんに全責任を負わせるのはどうかと思います。山本さんを内線で呼んで下さい」

 そこまで聞いて千歳はやばいと思った。山本の顔からしてなんらかのトラブルが起きそうな気がする。実は朝から品質管理室の部屋を見るたび、に気難しそうな人間だと思っていたのだ。

「あの、やっぱりそれは私のミスだと思います。処理日は別でも、同じ日付だったら入力されていない伝票の存在を最終チェックで気付くはずですから」

「それは確かだけど」

「山本さんは今品質管理に入っていますから、ここでああだこうだと言っても仕方ないです。私が今から入力しますので」

 頼むから山本さんを呼ぶのは止めてくれというのを、福沢はわかってくれたらしくしぶしぶ頷いた。矢野も確かに自分も見ていなかったからと小声で言い、二人でその抜けていた伝票を入力する事になった。午前中たっぷりその入力漏れの伝票入力で時間が終わってしまい、二人が食事にありつけたのは午後の二時を回った頃だった。矢野と食事など気が重くて嫌だったが、苦手だからと避けるわけにも行かない、千歳は矢野の後ろについて休憩室へ入った。休憩している者は誰もおらず、残されていたお弁当のセットを持って二人は向かい合って座った。

 矢野は怒っているふうではなかったが、酷く疲れているようだった。

「……結城さん、品質管理に行ったら苦労するわよ」

「苦労?」

 千歳は嫌味かと一瞬思って顔をあげたが、矢野は普通に弁当の焼き魚を箸でつついていた。

「あそこね、大卒のメンバーばかりなの。先日の山本さんもパート扱いだけど、隣の県の姫が丘大学出身よ。って関東の人は知らないかな、この辺では結構偏差値が高いのよ」

「…………」

「あんまり差別的発言はしたくないけど、山本さんみたいなタイプでパートで入ってきた高学歴な人って間違いを認めたがらないし、失敗しても人のせいにしたがるの。あの人の顔見ただけでもう駄目だと思うわ。高卒で未婚の若い結城さんだと即効で潰しにかかってきそう」

 自分の予感が的中し、千歳はやっぱりと思った。矢野の口調は嫌にしみじみとしていて、さっきまでの彼女とはがらりと変わっており、別人を見る思いだ。矢野は気まずそうに微笑み、千歳に頭をさげた。

「ゴメン、福沢さんが貴女を好きだと言うから意地悪した。もうしないわ」

 千歳は慌てた。

「あの、私は副工場長とはなんでもありませんからっ!」

「でも福沢さんは貴方が好きよ。あーあ、ずっと狙ってたのにがっかりだわ」

「私にはもう好きな人がいますからっ」

「誰よ」

「そんなの言えませんよ恥ずかしいのに」

「私は言ったのにずるいわね」

 ぱくぱく食べながら矢野はからかうように言い、そして真顔になった。

「私も高卒でこっちの入ったの。本当に大変よ、学歴って結構物を言うの。私ももっと頑張って勉強すればよかったわ」

「そりゃそう思いますね……」

「でも事務仕事に学歴なんて無意味よ。出来るかできないか。へんな知識があるばっかりに山本さんみたいなおばさんになったりもするしね。あの人は指導しづらかったわ……、失敗を指摘したら不機嫌になって黙り込むの。こっちが不機嫌になりたいくらいだっての。面倒よホント」

「ははは…」

「結城さんはその点しっかり反省してやり直してたし、素直でいいと思うわ。品質管理に行っても負けないでやるのよ」

「虐めた本人が言いますか?」

 千歳がじろりといじけた目で軽く睨むと、もう謝ったでしょと矢野は笑った。思ったよりさっぱりした性格で、事務所の二人が言っていたとおりつきあいやすそうで千歳はかなりほっとした。

(よかったー。なんとか事務所でもやっていけそう)

「あの……」

 千歳がさらに何かを言おうとした時、突然矢野の背後の和室の引き戸が開いて、将貴が出てきた。

「え……!?」

 振り返った矢野もびっくりしたようだが、千歳ほどびっくりはしていない。いつも彼がここにいるのは暗黙の了解らしい。将貴はそのまま靴を履いて、挨拶をして頭を下げる二人に自分も頭を下げた。

「石川部長、これからおかえりですか?」

 相変わらず会社では、サングラスにマスクをして帽子を外さない将貴はだまってうなずき、千歳に目線を向ける事無く休憩室を出て行った。そういえば今日の将貴は夜勤だった。就業後家へ帰らず、今の時間まで寝ていたらしい。矢野がうーんと唸る。

「石川部長もいい線行ってるんだけど、正体不明なのがねえ……」

「そうですね」

 それだけは止めて欲しい。仲良くなったのにまたライバルになってしまうと千歳はコロッケを頬張った。

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