天使のマスカレイド 第23話

『千歳……』

 初めて聞く甘い声に千歳は自分に覆い被さっている将貴を見上げた。ああ緑色の目だ。将貴もきっと自分以上に興奮している。こんな素敵なホテルで将貴と食事もうれしかったが、その後に泊まったスイートの大きなベッドで抱かれるなんて幸福感が半端無い。でも一方で性急過ぎた気もする。だけど将貴はいやに手際よく千歳の服を脱がしていくし、結局まあいいやとここまで流されてしまった。

 ぐいぐいと中を穿つ将貴の熱が熱い。じんと腰が痺れてそれは手や足の指の先まで広がっていく。将貴は天使のような美しい見かけだけに、とても優しい愛撫で、ゆっくりゆっくり千歳を高みに導いてくれる。

『好きだよ……千歳』

「私も……好き、あぁっ……」

 深く内部に熱が押し込まれたうえ、優しく抱きしめられる。天使の羽根に抱かれているようだ。

『俺の顔を見て?』

「恥ずかしいから……やだ」

 甘いキスが降って来て、さらに夢見心地の気分にひたされる。こんなふうに将貴といられるなんて幸せだ。こんなに優しい将貴はしらない。もっと欲しい。もっと甘く自分を蕩かして欲しい。でもそんな言葉は恥ずかしくて言えないから、代わりに千歳は思い切り将貴の身体にしがみついた。首筋に顔を埋めている将貴がくすくす笑う。

「……将貴さん…………好き」

 大好き。

「…………」

 そこで千歳は上掛けを自分の両手両足で抱きしめて目覚めた。一瞬なんだかわからなかったが、見慣れた自分の部屋の天井にかあああっと赤面する。信じられない事に下半身のあそこが物凄く濡れている。見なくてもわかる。今の夢で勝手に自分は……。

「わ、わ、私……。欲求不満?」

 夜勤の将貴はまだ家に戻っていない。もし居たら、いやらしい声を出したり将貴の名前を叫んだりしていたのが、この筒抜けの薄い壁ごしに聞こえていたかもしれない。将貴が夜勤で本当に良かった。千歳は着替えを箪笥から出すと、シャワーを浴びるためにバスルームに飛び込んだ。

 

 電話応対はなかなか難しい。イントネーションがおかしいと注意され、名前を間違えて怒られ、とんちんかんに商品名を聞いて怒られ、なんだか散々だった。落ち込む千歳に矢野が誰でも最初はそうなるわと豪快に笑ってくれたが、18歳の高卒の人間でももっとましに応対できるだろう。電話が聞き取りづらい原因はこちらが関西だからだ。関東出身の千歳には関西の発音が外国語のように聞こえてしまう。それでもこの一週間になんとかまずまずのレベルにまでなり、千歳はほっとしていた。

「まだ関西なんかましよ。東北の方の発音なんかほんとうにわからないの。向こうの方はこちらの発音がわかるのによ?」

「なんで向こうの方はわかるんです?」

「テレビのお笑いのおかげでしょうね」

「成る程」

 矢野は手早く伝票を纏めていきながら、千歳が書いた仕入伝票を見てくれた。

「大丈夫ね。五枚綴りだから手が痛くならない?」

「いえ」

「ペンの持ち方が悪いと力が変に必要になっちゃってね。私はここに入社してからちゃんとペンが持てるようになったのよ。親御さんのしつけがしっかりしてたの?」

「うちはお箸の持ち方にはうるさかったですから」

 食事や作法にうるさかった父母を千歳は懐かしく思い出した。よく背中を丸めてご飯を食べ、背中にものさしを入れるぞと怒られたものだ。矢野もそれはやられたらしく二人は笑った。今日で事務所の研修は最後だ。来週からはいよいよ品質管理に入る。なんとも名残惜しい気分だった。

「結城さんなら大丈夫よ。もし変な事されたらこっちにいらっしゃいよ。事務所は今人手が足りないの」

「矢野さん。余計な事を結城さんに言わない」

 後ろの席から福沢が言った。さっきからずっと会話を聞かれていたらしい。他の皆は昼の休憩に行っていたのでつい二人で話しこんでいたのだが……。気まずそうにする二人に矢野は笑った。

「副工場長。いつからいらしたのですか?」

「ずっといたよ。結城さんは来週からの話があるから、就業時間後に第一会議室に来てください」

「……はい」

 まさか会社ではどうこうされまい。できるかぎり福沢とは二人きりになりたくない。千歳は改めて仕入伝票に取り掛かった。今月は新規開店したスーパーがあるので伝票量が半端無い。それなのに担当者が追加追加と発注締め切り後に言ってくるものだから、電算室で出力できない伝票が増え、こうやって手書きで二人は伝票発行している。午後いっぱいその作業に追われて、ようやくすべてを書き終えた頃終業のベルが鳴った。

 第一会議室は少人数用の会議室でかなり狭い。福沢が照明をつけて、千歳はドアを閉めて机をはさんで向かい合って座った。

「さて結城さん。どうだったこの研修期間は」

「……とても大変でした」

「例えばどこが?」

「商品が多すぎて覚えきれなくって。しかも覚えたと思ったら新しいのに変わっていくんですもの。スパンが短くて……」

 福沢はそうだなと頷いた。

「日本は四季やさまざまな行事があるから、それに応じてこっちも弁当や惣菜を変える必要があるからな。だから品質管理も大変なんだ。次から次へと問題が出てくる」

「それにどう考えてもおいしいおすしがいきなり製造中止になったり……」

「サラダ巻きか? 一般生菌(いっぱんせいきん)が一万を超えるのが連続したら切られても仕方ない。大腸菌は出なかったけどあれはさすがにね」

「一般生菌ってなんですか?」

「セレウス菌などの土壌菌や大腸菌、大腸菌群、サルモネラ菌などもろもろの菌の事だよ。カンピロバクター、腸炎ビブリオ菌はその培地で繁殖しないから入らないけどね」

 洪水のように菌の名前が出てきて、千歳はそれらをこれから相手をするのかと頭が痛くなってきた。知っているもの知らないものがある。それに培地とはなんだろう。

「あのサラダ巻きは人気があったから、石川も残念そうにしていたけどね。原因がわかったらまた復活すると思うよ。他には?」

「あと気になったのは監視カメラです」

「仕方ないさ、世間で毒物混入事件が発生している。消費者の不安を取り除くためには仕方ない」

「……そうですね」

「で、やっていけるか?」

 福沢がテーブルの上で指を組み、千歳をじっと見つめた。

「正直自信はありません。でもやっていけると思います。至る所にま……、副工場長や石川部長の考えが見られましたから。これだけの熱意がある方が上に居るのならと自分もやる気になります」

「例えば?」

「トラブルが上がっても次の日にはすぐに対策が打たれていました。こんな職場は初めてです」

「ふうん。それと?」

「サボっている人がいませんでしたね。結構上司が居ない間にサボる人が今までの勤務先にはいましたので」

「それは監視カメラの影響だろうね」

 頭をかいて福沢は笑った。

「何より工場内が物凄く綺麗に掃除されている事です。埃ひとつ落ちないように工夫がされていますね。正直な話これが一番すごいと思いました。ハエなんか入っていませんでしたし。食品工場でもこれほどのレベルは稀では無いでしょうか」

「……そうだね、排水溝については二人で頭を悩ませたよ。結構いろいろ見てるね。作業に追われてるだけかと思ってた」

「ひどいですね」

 実際その通りなのだが千歳はいささか面白くない。福沢は眼鏡を外してテーブルの上に置いた。途端、口調が普段のぞんざいなものに変わった。

「千歳、もう一つの仕事はどう?」

 勝手に名前を呼ぶなと思ったが、千歳はあえて無視した。

「将貴さんですか? 何事もありませんよ」

「ふーん。あいつ、全然その辺が変わってないな。両想いならガンガンいけばいいのに」

 何をガンガンいくんだと千歳はわずかに顔を赤らめた。今朝見たあの淫らな夢が脳裏に蘇って来て困る。変な顔になっていないだろうか。福沢はそんな千歳を見てにやにや笑った。からかう気満々だ。

「なあんだ欲求不満か? 一人でやってたりして」

「セクハラですよそれ」

「何をやってるかなんて俺は一言も言って無いけど? そうかそうか、そういう事考えたんだな。俺はもっと親密に前向きに交際していけば良いという意味で言ったんだけど」

「ううう……」

 顔を真っ赤にした千歳は福沢を睨んだ。好きな人と結ばれる夢を見て何が悪い! とは思うがやっぱりなんだかはしたない。

「あいつってどう見ても草食動物だもんな。佐藤社長は肉食獣にしか見えないけど。千歳が積極的にいかないと駄目だぞああいう男は」

「べべべべ別に、私はそこまで望んでませんよっ。第一仕事だから一緒に住んでるんであって!」

「契約は解消されたと聞いたけど?」

「直接将貴さんが雇用主になっただけです。それ以上でも以下でもありません」

「ふーん」

 がたんと福沢が椅子から立ち上がったので、千歳も思わずつられて立ち上がった。福沢はあっという間に千歳との距離を詰めてくる。距離が異様に近く、嫌でもあの夜の車の中での出来事を千歳は意識した。大体福沢は背が高すぎるのだ。

「な、なんですか?」

「じゃあ千歳はフリーなんだな?」

 直ぐ後ろの壁に手をつき、福沢は千歳を自分の腕の囲いの中に閉じ込める。まずい、これはまずい。でも逃げられない。

「そうですけど、でも……ん!」

 顎を掴まれてキスをされる。あの時と同じ深いキスだ。福沢のキスは将貴のように優しくなく、荒々しくてすぐに翻弄されてしまう。押しのけようとした両手を壁に取られて押し付けられ、千歳は福沢の思うままになった。膝が震えるのは恐怖からなのか、感じているからなのか、わからない。福沢の事は嫌いではない。むしろ仕事ぶりには好感が持てる。でもそれは男女のそれではない。それなのに身体だけは熱くなる。

 福沢が唇を離して囁いた。

「こんな男そのもののキス、天使なあいつはやってくれないだろ?」

「…………」

 千歳は黙って顔を背ける。福沢の手が離れて、千歳はずるずると壁を伝って座り込んだ。その千歳の頭を福沢が大きな手でがしがしと撫でた。

「よし、あいつからの許可はもらっているから明日一日俺につきあってもらおうか」

「は?」

 なんだそれは?

「デート。山崎駅の東口に朝の9時に集合な」

「ちょっとちょっと、なんですかいきなり。私はデートなんて……」

「あいつの許可はもらってるからいーの。絶対来い」

「副工場長!」

 はははと笑いながら福沢はドアを開けて部屋を出て行ってしまう。ひとり残された千歳はいきなりのデートの申し込みに当惑した。何故行かなければいけないのだろう。しかも将貴が許可したのだという。どういう事だ。そんな話は聞いてない。千歳は福沢にぐしゃぐしゃにされた髪の毛をさらにぐしゃぐしゃにした。

 将貴は千歳を欲しいとは心底から思ってくれない。千歳が想うほどには想っていないのだ。幸せだと思ったら次の日にはそれは霧のように消えてしまう。なんて頼りない絆なのだろう。

「それならなんでキスしたの……」

 将貴がわからない。

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