天使のマスカレイド 第28話

 将貴が千歳を後ろに下がらせ様子を伺った。自分の家なのにいちいち鍵をかけるのは変だが、他の従業員達と一緒に暮らしているのなら当然だろう。向こう側がいつまで経っても開かない扉に声を張り上げた。

「おーい、居るんだろ将貴?」

「穂高兄さん?」

 将貴が慌てて鍵を開け、千歳は入ってきた男の風体に仰天した。この美麗な屋敷に、汚らしい髭もじゃざんばら髪男が居たらびっくりするに決まっている。やぶれまくったジーンズボトムに、元の色がわからないくらい色あせたよれよれのシャツ。肩に頭陀袋としか言い様の無いボロの巾着袋をさげている。なんとも耐え難い悪臭が男からむわりと漂ってきた。

「……相変わらずですね、穂高兄さんは」

 将貴の呆れたような物言いに男は明るく笑った。千歳は異様に汚い男を部屋に入れたくなかったが、将貴の知り合いらしいので我慢した。アパートだったら近所の目もあるし、断固入れなかっただろう。

「10年ぶりか。口が利けるようになったって柳田さんが言ってたけど、本当だな」

「うん……ところでどこからの帰りなんです? すげえ汚い」

 綺麗好きの将貴にもこの男の風体はたまらなく不快なようで、千歳は自分だけじゃないんだと安心した。男はごめんごめんと言ってまた笑う。

「富士山を描いてたんだ。半年ぐらい? そしたらスマートフォンに美留が出産したってメールが来たから……」

「そう……」

 佑太と同じぐらいの背の高いその男は、渋い顔をしている千歳に視線を移した。将貴の父親の貴明と同じ茶色の目なので、親族の一人だと思われる。

「何だお前、ちゃんと彼女いるんだ」

「や、その……彼女は」

 将貴が言いよどむのを男は茶化した。

「隠すな隠すな。お前が自分のテリトリーに入れるなんて、惚れた女以外有り得ないからな。悪いけどちょっと風呂借りるぞ。さっきからこの家のメイドの視線が痛いの何の。執事のおっさんに追い出されかけた。」

「そんだけ汚かったら仕方ないです。その服は洗面所の横のゴミ箱に捨てて下さい」

「ひっでーな」

 はははと明るく笑って髭もじゃ男は奥にあるバスルームに消え、千歳は怒っていた自分をすっかり忘れて、ため息をついた将貴にたずねた。

「あの人誰ですか? 将貴さんは長兄ですよね?」

「従兄。6歳あっちが年上。それにしても兄さんは、相変わらず絵を描きだすとめちゃくちゃな生活になるな」

「画家なんですか?」

「ああ、でも本業の傍らだからあんまり描いて無い。描いた絵は素晴らしいから、レアものとかで高値がついてまず手に入らない……。一枚だけ持ってるけど、ほら、そこの壁の絵だ」

 今までずっと怒っていた千歳はその絵に気付いていなかった。扉の横の壁に、やさしい色使いで描かれた草花の絵があった。ノートぐらいの大きさの小さなもので、こじんまりと飾ってあるのがなんだか将貴らしい。

「……ふわりと温かい気持ちになる絵ですね。なんでアパートに持っていかなかったんですか?」

「ここにあるのがいいんだ」

 静かな声で将貴は言い、木の額縁を腫れ物に触れるように柔らかく撫でた。それだけで千歳は、その絵が美留に繋がるものなのだとわかってしまった。先ほど怒りすぎて疲れてしまったのか、心が急速に冷えていく。

(やっぱり私じゃ駄目なんだろうな)

 将貴の後姿を見やり、寂しい思いを千歳は一人で抱きしめた。自分は馬鹿だとつくづく思う。諦めているつもりでも、ひょっとするともっと愛されるかもしれない、美留を想うように自分を想ってくれるのかもしれないと、将貴に期待してしまうのだ。有り得ないのにそう考えてしまうのは、自分の欲深くて救いようの無い性格のせいなのだろう。

「ん? どうした?」

 振り向いた将貴は、先ほどまでの狂気が嘘のように消えうせ、いつもどおりの優しい笑みを浮かべている。内心でため息をつき、だからこの人をなんとか救いたいのだと千歳は思った。心の中で荒れ狂っていた嵐が治まり、なんとも決まりが悪い。将貴もそうなのかわざとらしく目を逸らした。

 その時ちょうど先程の男がバスルームから出てきた。

「あー生き返った! 川の行水とは全然違うねー。山はもう寒くって一週間ぐらい身体洗ってなくてさー」

 タオルで頭を拭きながら出てきたのは、将貴にそっくりなとてつもない美男子で、千歳は驚いて将貴と男を見比べた。

「い、従兄にしては双子みたいに似てません?」

「父親同士が双子だから似ていて当たり前。兄さん紹介するよ、こっちは結城千歳さん。そしてこっちは石川穂高(いしかわほたか)さんで俺の従兄、美留の兄にあたる人だ。石川の姓はこの人から借りてる」

「は……あ」

 もう何がなんだかわからない。そもそも将貴が親戚関係をまったく匂わせないから混乱しているのだが。それが顔に出てしまったのか、穂高が綺麗な金髪に戻ったざんばら髪を丁寧に拭きながら、千歳に謝った。

「驚かせてゴメンネ結城さん。それはそうと、将貴はいつから話せるようになったんだ? さっき柳田がえらく驚いてたけど」

「つい最近。でも、面倒くさいから会社では今までどおり」

「相変わらずだな。その消極的さなんとかしろよ。そうでないとこのお嬢ちゃんにまでふられてしまうんじゃないの?」

「兄さん!」

 将貴が何かを言いかけるのを制して、穂高は千歳に右目をはっきり瞑ってウインクする。様になっていて千歳は顔を赤くしてしまった。美形の威力はやはり凄まじい。窓際の椅子に品よく腰を掛けて、穂高は将貴を見上げた。

「でもま、前よりは良くなってるみたいで良かった。……美留にはまだ会えないか?」

 将貴は黙って頷く。なんとしても彼女に会いたくないのだ。穂高は残念そうに肩をすくめた。

「決着をつけるべきだ。こじれの発端はお前達が子供過ぎたせいだ、特に将貴、お前がな」

「…………」

 穂高は髪を拭き終わったタオルを、見えている洗面台の籠に向かって放った。タオルは外れる事無く籠の中に収まった。

「男女の恋愛ってのに良い悪いはない。あるとすれば相性が良いか悪いか、それだけだ。お前は美留と相性が悪かったのさ。どれだけ想ったって、あいつが負担に思ったり怖く思ったりしたらそれでアウトだ」

「兄さん、ここでその話は止めて下さい」

「いや、あえて言わせてもらう。お前に必要なのはお前を丸ごと受け止めても倒れない女だ。その救いようの無いコンプレックスと重過ぎる想いを包み込めるほど、馬鹿でかい心を持ってる女じゃなきゃいけない。美留では駄目だった。あいつは佑太のような男に護られてやっと立ち上がれる、弱すぎる女だから」

「伯父さんと同じ事を言いますね」

「一応は親子だからな。お前の時間は11年前から止まったままだ。いつまでも親兄弟に心配かけるな。いい加減に和解しろ。確かに佑太のやり口は強引過ぎたけど、それがあいつなりの方法だから仕方ない。考えても見ろ、あいつが失敗してくよくよ悩んでるの見た事あるか?」

 ここに居て良いのかどうかわからず、千歳は困惑した。男として説教されるのを見られるのは恥ずかしいだろうし、そっと抜けるには遅すぎて違和感がありすぎる。千歳はうなだれる将貴の横顔を見ているしかなかった。

「美留と佑太の結婚式は来年の2月に決まった。絶対来るな?」

「……ええ。行くつもりですから」

「それまでに和解しろ。俺としては限界に近い。これ以上美留や伯父夫妻を許さないお前見ていたら、美留の兄としてお前の従兄としてお前を許せなくなる。そうなりたくない」

「ええ」

「今夜皆で夕食だそうだ。出席して必ず皆に話しかけるんだ、できるな?」

「わかり……ました」

 力なく返事をする将貴は、今にも消えうせそうな儚い雰囲気を漂わせている。言っている穂高の口調はきついが、心底将貴を思って言っているのが将貴の肩を叩く手の優しさでわかる。今は将貴の正念場なのだ。穂高は椅子から立ち上がり、置いたままにしていた汚い頭陀袋を再び肩に掛け、再び千歳にウインクして部屋を出て行った。

 将貴が深いため息をつき、高い天井を仰いだ。

「俺に出来ると思う?」

 玄関での将貴を思い出し、とっさに千歳は返事ができなかった。両親を見ただけであれだけの拒絶反応を起こす将貴が、声をかけられるかどうか千歳にはわからない。将貴がゆっくりと千歳を見下ろし、おずおずと手を伸ばしてその細い身体を抱きしめた。さっきと違って今の将貴なら平気だ。むしろうれしくて泣きたくなってくる。お互いの鼓動だけが確かなぬくもりと共に重なるのが心地良く、千歳はうっとりと眼を閉じ、口を開いた。

「……人を信じさせるには、自分を信じていなければ難しいと思います。将貴さんは自分を信じていません……だから、私にはなんとも言えません」

「うん」

 肩口で将貴がわずかに笑う。いつだって千歳はこんなふうに憎らしい言い方しか出来ない。佑太や福沢とどう違うのだと自己嫌悪に陥ってしまいそうだ。

「でも」

「でも?」

 将貴が優しい声で聞き返す。

「私は将貴さんを信じています。将貴さんが自分を信じなくたって、将貴さんは将貴さんだもの。それだけで素晴らしいんだもの」

「さっき、酷い事言ったくせに……」

「そうですね。だから金輪際さようならはムリなんです。馬鹿だと思いますけどね」

 千歳を抱きしめながら将貴が声を押し殺すように笑う。さっきあのまま出て行ったとしても、結局将貴が心配で戻ってきてしまっただろうなと容易に自分の行動に察しがついてしまう。将貴に関わるとどうして自分はこうなってしまうのだろうか。ばつが悪そうにもぞもぞとしている千歳に、まだ将貴がおかしそうに身体を震わせている。同じ震えでもこれならいい。

「いつまで笑ってるんですか。もう!」

「ごめん」

 将貴が抱きしめていた腕を緩め、穏やかな青い目でまっすぐに千歳の顔を覗き込んだ。こういう時、いつも将貴の美しさを再確認する。将貴はやっぱり世間一般の男とは一線を画している、こんなふうに純粋で混ざり気の無い眼差しを持てる男をほかに知らない

「千歳がいてくれるから……前を向けるようになった。千歳に出会えて本当に良かった」

「…………」

 幸せな言葉のはずなのにまた千歳は傷ついた。将貴は知らないのだ。自分の言葉一つで千歳が幸せになったり不幸になったりする事を。千歳はあいまいに微笑み、お茶を入れますねと言って将貴の腕を解き、部屋の隅の簡易キッチンに入った。調理器具が並んでいる棚からケトルを取り出して、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してそれで湯を沸かす。茶葉は後ろ側の棚にあり、飲みたかった日本茶を急須に入れる。

(普通の恋人同士みたいな愛情を期待しては駄目。それは将貴さんに負担をかけてしまう)

 額縁に触れた将貴の手つきを思い出し、美留には遠く及ばない自分を千歳は戒める。泣きたい気分を、夕食のご馳走はなんだろうかとわざと食い気に気分を集中して、湿っぽい胎内の涙の元を追い出した。

 将貴が、そんな千歳の後姿をじっと見ている。額縁を触れていた時よりも、さらに深い想いを載せて……。

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