天使のマスカレイド 第29話

 夕食会が行われる部屋はとても大きな食堂だった。よくある会社の社員食堂ではなく、やはり西洋の雰囲気が多分に漂う白を貴重とした美しい部屋だった。千歳と将貴は呼ばれるまで部屋に居るようにと言われていたので、執事が呼びに来てから食堂に入ったのだが、そこにはすでに将貴の両親と美留、穂高がテーブルのおのおのの席について二人を待っていた。

 千歳は将貴が心配で横目でちらりと見た。将貴の表情に緊張は漂っていたが、朝の今にも倒れてしまいそうな気配は無い。ほっと内心で胸を撫で下ろし、執事に案内されて、一番奥に座っている貴明の隣の椅子に腰をかけた。向かい側にはあの美留がおり、その隣には穂高がいた。千歳の隣は当然将貴で、貴明の反対側には妻の麻理子が座っていた。

(うわ……すっごい緊張してきた。誰か何か話してくれないかしら)

 磨かれた銀のフォークやナイフはキラキラして眩いし、テーブルに置かれている燭台や花瓶の花が美しくて、まるで昨日のパーティーのように場違いな場所にいる気持ちになった。用意してもらった絹のドレスもイマイチ馴染まない。隣の将貴のスーツ姿は品よく決まっているし、向こう側の美留の可憐な美しさは、兄の穂高と相まってさしずめ美のプレッシャーと言ったところだ。

「皆、教会の説教を受けてるわけじゃないんだから、もっとリラックスしたらいいんだよ」

 穂高が朗らかに笑い、千歳を見てふむふむとなにやら感心した。

「結城さんは淡い色合いが似合うんだな。色白だからその緑色によくはえてる」

「……ありがとうございます」

「それさ、美留のドレスだったんだけどちょっと合わなくてね。やっぱりそういう服は結城さんみたいな人のほうが似合うんだな」

 目の前の女らしい人間と比べられ、千歳は恥ずかしくなった。色白さならどう見ても美留のほうが勝っている。

「将貴だってそう思うだろ?」

 いきなり会話の矛先を将貴に向けた穂高に、部屋の空気がぴんと張り詰めた。当然千歳も心配になって隣の将貴を見上げる。でも、やはり先ほどと同じように将貴は普通に座っていて、ゆっくりと美留へ視線を向けた。美留が一瞬びくつき、それでも将貴を見返す。

「……美留が着ていても綺麗だったと思うよ」

 そう言って将貴は優しい笑みを浮かべた。どれだけ言われても口を開かなかった将貴の声が、広い食堂に嫌に大きく響き、世界の音が将貴の声だけになってしまったかのような錯覚を覚える。給仕が食前酒をそれぞれの前に置いていく。美留だけはオレンジジュースだが、他の皆はシャンペンで小さな泡が次から次へと琥珀色の液体に浮いては消え、とても良い匂いがする。

「佑太が仕事でいないのが残念だが……。久しぶりに戻ってきた将貴と結城さんのこれからと、皆の健康を祈って乾杯しよう」

 温かい表情で貴明がグラスを掲げた。皆同じように掲げて乾杯する。終わると給仕が前菜を配膳していく。

「美留の奴、感激し過ぎて泣いてるぞ将貴」

 前菜を口にしていた千歳が穂高のからかう言葉に顔を上げると、料理に手をつけていない美留の白い頬に透明な涙が伝って落ちていた。将貴が笑みを深くしてフォークとナイフを置いた。

「それ、まだ持っているとは思ってなかったよ」

 美留のドレスの襟は、パイナップル編みで編まれているレースだった。

「だってこれは……、特別なレースだもの」

「相変わらず美留はがらくたが好きだな。5歳の時に採ったせみの抜け殻、まだ宝箱という名のがらくた入れに入ってるんじゃないか?」

「……入ってるわ。悪い?」

 美留が涙を手でゆっくりと拭って笑い、将貴を軽く睨み返した。穂高が爆笑して両手を打った。

「そうらみろ。だから捨てろって言ったのにお前は」

「だってあれは私には良い思い出のものなの」

「石垣にあったのを採ろうとして足を滑らせた挙句、あの汚いどぶにはまった思い出の品だろう? お前と将貴と佑太三人が真っ黒けになって家に入ってきて、母さんが凄まじい悲鳴あげてびびったっつうの。妖怪が現れたと思ったって未だに言ってるぞ」

 おかしさに笑い声が渦を巻いた。

「ま、兄さん、そんな話をここでしないで……!」

 恥ずかしさで顔に朱をさした美留の顔は輝かんばかりに美しく、千歳は思わず見ほれてしまった。本当に美留は何から何まで美しい。顔の造作は普通なのに雰囲気や動作が美しいのだ。何もかもが柔らかくて安心できる穏やかさに満ちている。

「いつから話せるようになったんだ、将貴」

 貴明が静かに言った。将貴は美留と同じように穏やかに父親を見た。玄関で見たようなあの雰囲気は無い。

「つい最近です。結城さんのおかげです」

「ほう」

 皆の視線が自分に集中して千歳は穴に隠れたくなった。頼むから自分の存在など忘れて食事をしてもらえないものだろうか。

「どんなふうに将貴の声を甦らせてくれたんだ? 誰がやっても駄目だったんだが……」

「あの、私は本当に何も」

「聞いたか麻理子。やはり声を戻してくれたのは専門家ではなくて、普通の女性だった」

 上機嫌に貴明は笑ってスープを口に運んだ。先ほどから何も言わなかった将貴の母親はうれしそうにうなずき、千歳に明るい声をかけてくれた。

「初めてお目にかかるのだったわね、結城さん。私は佐藤麻理子、将貴の母です。貴女の事は貴明や佑太からよく伺っているわ、とても真っ直ぐで純粋なお人柄だって……本当にその通りね」

 貴明はともかく、佑太はろくな事を吹き込んでいないだろう。でもそんなふうにはとても言えず、千歳は黙って麻理子に向かって頭を下げた。佑太と麻理子はよく似ていたがやはり母親の方がずっと優しい顔をしている。隣の将貴が面白そうに自分を見ているのが腹立たしい。先ほどまで倒れやしないかと心配していたが、どうやら杞憂に終わりそうだ。穂高という従兄の力は物凄いものがあるなと思うのと同時に、将貴の美留へ向ける優しい眼差しが見ていてたまらない。やっぱりかなわないなと思いながら、千歳はなれないフォークとナイフを使った。なんとなく、すべてを食べ終わったらお茶漬けを食べたい。

 その後は皆がおのおの他愛の無い会話をして、夕食は楽しいひと時となった。デザートを食べ終える頃、執事が将貴の元までやってきて電話がかかっておりますと言い、将貴が皆に頭を下げて出て行った。

「あ、あいつ、電話の場所が変わってるの知らないんじゃないかな」

「知らないだろう。穂高、行ってやれ」

「はい」

 穂高が早足で出て行くと、部屋は恐ろしく静かになった。千歳はほとんど他人と言って良い将貴の両親や美留と取り残されて、また緩んでいた緊張が甦ってきた。

「千歳さんにお見せしたいものがあるのよ。私の部屋まで来ていただけるかしら?」

「はい」

 ニコニコ顔の麻理子に誘われ、千歳はナプキンをたたんで立ち上がった。美留は貴明となにやら話をしている。将貴が帰ってきたらどうしようと思ったが、家の中のことだからすぐに自分の居場所はわかるだろうと千歳は思いながら、麻理子の後に続いた。麻理子は千歳より背が低く、美留と同じぐらいの小柄な体格だった。だが美留のように華奢な感じはなく、年齢よりも颯爽とした力強さを持っている。気品に満ちたその後姿はまさに貴婦人で、自分は一体どう思われているのだろうと千歳はいささか不安に駆られた。

 麻理子の部屋はアパートの部屋が三つほど入る広さで、至る所に薔薇の花が飾られていた。

「薔薇が苦手なら申し訳ないわね。貴明が好きなものだから」

「いえ、これくらいなら平気です」

 麻理子が部屋の奥から持ってきたのは、一冊のアルバムだった。

「将貴のなの。あの子は小学校に上がる頃から写真嫌いになってしまって、これ一冊しかないわ」

「もったいないお話ですね。私なんかだと行事ごとに撮って撮ってと周囲の皆に頼み込んでましたから、5冊はありますよ」

「まあ……ふふふ」

 写真は生まれた頃からきちんとわかりやすく整頓されていて、将貴の成長が目に見えてわかるようになっていた。将貴の美貌は案の定父親譲りらしく、そっくりな若い男が優しい目で天使のような赤ちゃんを抱いている。仲の良い家族だったのが、どの写真にも父母が写っている事から伺えた。二歳の頃から佑太やもう一人の妹が加わり、とても幸せそうな家族がさらに幸せそうに皆笑っている。

「…………」

 その頃から、将貴の周囲に父母が写っているのが少なくなった。ほとんど一人で本を読んだり、走っていたり、おもちゃで遊んでいる。笑顔も残り数ページにになると、ぎこちない他人行儀な物になってしまっている……。

「この頃になるとカメラから逃げて回ってばかりだったの。だから写真嫌いになったのだと思っていたんだけど……、能天気にそう思っていた私達は馬鹿ね」

 初対面の人間にそういう話をされると返事に困ってしまう。千歳は何も言わずに最後のページを捲った。そこには走り去っていく将貴の後姿があり、将貴7歳と書かれていた。静かにアルバムを閉じた千歳に、麻理子は今度は紙に包まれた何かを数本持ってきた。紙をするすると平らに広げた中から出てきたのは、美しいレースのドイリーだった。

「わあ……とても綺麗ですね」

「あの子が作ったものよ。これが小学校一年の頃に作ったものね」

 つぎつぎと麻理子がそれを広げて、紺色のテーブルクロスの上に並べていく。華麗な花がいくつも咲いているようで、千歳は目がなんだかくらくらした。昨日のレース展ほどの腕前ではないがそれでも素晴らしい。

「すごいですね、小学生低学年の子がこんなに綺麗に編めるなんて……」

「そう思うでしょう? でもあの子はこれを、自分の机の引き出しの奥にぐちゃぐちゃに押し込んで隠してたの。見つけると怒るから、知らない振りをしていたわ。怒らなくなったのは高校を卒業した頃かしら……」

 浮き出るように編まれている模様をなぞりながら、麻理子がさびしそうに呟いた。重くなった空気に耐えるのが辛くて、千歳はわざと明るく文句を言った。

「こんなにできるんなら、私が編み物で悩んでる時に教えてくれたらよかったのに」

「まあ、結城さんも編まれるの?」

「チャレンジしてポシャったんです。小さなハンカチを作ろうと思ったんですけど、編み目はガタガタで、糸みたいなレース糸は指に絡まなくって、あげくあの細い編み針の先で人差し指と爪の間を刺してしまったから腹が立って止めました。できたのはハンカチどころか糸くずが絡まったゴミだったんです! 知ってて将貴さんってば何も言わずにリビング通り過ぎてたんですよ、もう!」

「他に何か編まれた事は?」

「何も。レースが初めてです」

 麻理子はそれは難しいわねと、少し明るい笑顔になった。

「初心者はある程度の太さの糸で編むほうがやりやすいわ。あの子は内気だし、貴女に悪いと思って言えなかったのね」

「それならいいのですけど。うわー……すっごい下手くそ。絡まってる蜘蛛の巣かよと思ってたんじゃないかと」

「ま! ふふふ。面白いわね結城さんてば。ほほ」

「だって将貴さんは時々意地悪ですもの」

「貴明にそっくりだもの。そうなるわね、ごめんなさい。ふふ……」

 目に見えて麻理子が明るくなったので千歳はほっとした。そこへノック音と共に穂高と赤ちゃんを抱いた美留が入ってきた。千歳の目はごきげんそうなその赤子に吸い寄せられてしまう。美留がそれに気付いて微笑んだ。

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