天使のマスカレイド 第31話

 どうして今頃連絡を取ってきたのか。千歳の貯金を全部返すという愁傷な真似を、たかしがするとはとても思えない。千歳はどん底生活の中で、人間の表の顔と裏の顔の違いを嫌というほど思い知らされてきた。いかにもやくざで乱暴そうな男は全く怖くない。やっかいなのは一般人にしか見えない本物のやくざや、親切顔で甘い言葉を囁くたかしのような人間だ。

 たかしと付き合っていた頃の千歳は騙されても、今の千歳は絶対に騙されない。それ特有の空気を嗅ぎ取る鼻を、千歳はどん底生活で身に付けた。

『地獄を見てきたって言う目をしているな』

 千歳を一目見るなり見破った佑太は、確実に後者の厄介な人間の部類だ。彼の使った千歳を脅かす闇金融たちの処理の迅速さは、その筋の人間ならではだろう。

「ふざけんな、馬鹿男」

 千歳はメールを消した。こんなものに騙される女だとまだ思われているのが酷く腹立たしい。どうせキャバ嬢に愛想をつかされて、また金をせびろうとしているのだろう。とんでもない話だ。ソファに敷いた毛布の中に潜り込み、千歳は眼を閉じた。

 翌日、将貴が顔を洗う水音に目覚めた。鏡に映る将貴の顔色はよく、千歳がソファから起き上がると、おはようと言って鏡越しに微笑んだ。寝起きの顔を見られるのは気分が良いものではなく、千歳は毛布で顔の部分を隠して挨拶を返した。

「昨日はお前が居てくれたからなんとか皆と食事が出来た。ありがとうな」

「もう大丈夫ですか?」

 毛布の中からもぞもぞと言うと、将貴は笑った。

「無防備な寝顔ならさっきじっくり見たから、今頃隠しても無駄だぞ?」

「もう! 紳士がする事じゃないですよ」

「はいはい。お茶を入れてやるからその間に顔洗え」

 簡易キッチンに将貴が入って行き、千歳は大急ぎで脱衣所で着替え、洗面台で顔を洗った。たかしのメールのでせいであまりよく眠れていない。顔色をごまかすために千歳はメイクした。昨日の夜も夕食会のためにメイクをしたので不思議には思われないだろう。朝食もあの部屋で摂ると夕食会で貴明が言っていた。

 電源を切っていたスマートフォンの電源を入れ、昨日と同じように千歳はぎょっとした。12通もたかしから来ていて、おまけに留守番電話も数件入っている。将貴からのそれはびっくりしただけだったが、たかしの場合は気持ち悪くて具合が悪くなる。すべて消去して着信拒否にした。セカンドバッグにスマートフォンをねじ込んでいると、将貴がハーブティーを千歳のために持ってきてくれた。

「どうしたの? やっぱりソファで寝たのが悪かったんじゃないか?」

「違いますよ……、ちょっと緊張しすぎたんですね」

「まだ貧血も治って無いんだし、今日は寝てたら?」

「……いえ大丈夫です。お薬も持っていますから」

「それなら良いけど……」

 探るような将貴の目に千歳は笑顔を無理に作った。たかしが連絡をとってきたなんて知られたくない。きっと将貴の事だから心を痛めながらあれこれやってくれるに決まっている。でも家族との絆を取り戻す正念場にいる将貴の邪魔だけはしたくない。

 朝食の時間になる頃、朝も早いのに柳田がやって来た。

「大変申し訳ないのですが、お手伝いの契約が先送りになりました」

 将貴と千歳は顔を見合わせた。嫌な予感がした。それは的中する。

「会長が先ほど検温されたところ熱がありまして、医師と話し合われた結果再入院になりました。麻理子様が会長にお付き添いになり、かなり慌ただしくなるので申し訳ないが延期したいとの事です。昨日まで経過は良好だったのですが……」

 わずかに眼を伏せた柳田に、将貴が鋭い視線を投げた。

「父さんは相当悪いんじゃないのか? 経過が良好なんてのは嘘だろう」

「いえ、それはありません」

「嘘をつくな。昨日ずっと見ていたがあれが経過良好な人間の食事か? 本当は無理を言って病院から抜け出してきたんだろう?」

「将貴様」

 お茶が置かれたテーブルを将貴が握りこぶしで思い切り叩き、カップががちゃんと音を立てて揺れた。肩をびくつかせて千歳は二人を交互に見る。

「先月なぜ病院にだまし討ちで呼ばれたのか、ずっとおかしいと思ってたんだ。父さんはおそらくもう長くない、だから結婚式を急ぐんだろう?」

「将貴様」

「本当はあの病院に父さんは居た、そうだろう?」

「私の口からはなんとも言えません」

 将貴の勘の鋭さに千歳は驚いていた。これだけ人の心の動きがわかるのに、どうしてここまで拗らせてしまったのか不思議で仕方が無い。自分の心が絡むと人は目の前が見えにくくなるのだろうか。

「……もういい。二人はもう病院へ行ったのか?」

「はい。でも将貴様も結城さんも来る必要は無いとの事です。お騒がせして申し訳ないと謝っておいででした」

「わかった……。もう俺達は帰る。何かあったら呼んでくれ」

 将貴はそこで力なくうつむいた。

「……家にも帰ってくるし、結婚式にも出るからと言っておいてくれ。二人だけではなく佑太にも……」

「承りました。では私はこれで」

 柳田はいつもと同じようにさっさと部屋を出て行く。千歳はその柳田の後姿を追いかけ、将貴の部屋からかなり遠く離れた、隣の本社ビルに繋がる渡り廊下の手前で彼を捕まえた。

「契約を反故にすると大変な目に遭うのではなかったんですか?」

「良く覚えてますね」

「昨日の事でしょう?」

 袖口を千歳に掴まれた柳田は、珍しく柔らかい笑顔を千歳に向けた。

「はったりを言いました。そうでないと貴方達は帰ってしまいそうでしたから」

 社員達が本社ビルへ出勤する慌ただしい中、千歳と柳田はそれをせき止めるようにそこに立ち止まる。迷惑そうに避けていく社員は、社長専任秘書の柳田が苦手なのか、顔をちらりと見るだけで何も言わずに通り過ぎていく。

「もう時間がないんです。将貴様がおっしゃった通り、結城さんと福沢さんのデートの道順から何から何まで佑太様が指示されました。福沢さんと一夜過ごされたのだけが予定外で驚きましたけどね」

 千歳はさあっと顔を赤らめた。

「……貴方達は敵なの味方なの?」

「口でならなんとでも言える。結城さん、大切なのは自分を信じるという事ではありませんか?」

「立ち聞きなんてどうなの!」

「福沢さんに頼んでスマートフォンに盗聴器が仕込んであったんです。あとで外されるといい。あと佐藤邸でのメールのやり取りは本社の第二情報部で筒抜けになっていますよ。気をつけてくださいね」

 しゃあしゃあと盗聴を認める柳田に千歳は腹がたったが、あえて怒りを飲み込んだ。社員達の目がいくつも自分達を見ている。駅の構内のように人の足音とざわめきがあたりを埋め尽くしており、二人の会話は誰の耳にも届かないが、それでも珍しい組み合わせに社員の注目は集まる。柳田は用事が無い限り女と話をしないようだ。千歳は声をさらに落とした。

「じゃあ……知ってるのね、たかしの事」

「一人で抱え込まないでください。将貴様に迷惑をかけたくなければなおさらです。隠されたとわかるとあの方は傷つきます」

「…………」

 お元気でと言い、柳田は本社へ消えていった。

 

 高速道路の車の流れの中を、将貴が運転するクラウンは快適に進んでいく。朝に佐藤邸を出てずっとお昼まで高速を運転し続けている将貴を心配して、疲れていないのかと千歳が聞くと、将貴はちっともと言って平気な顔で前を向いている。いきなりあのガタガタ発作にならないか気が気でないと言うと、あれは家族限定だという返事が返ってきた。

 いつもの黒のサングラスをかけた将貴の横顔は、最高に綺麗だしかっこいい。これでたかしの電話やメールがなければ楽しいドライブなのにと千歳は残念だった。柳田は打ち明けるべきだと言ったが、どうしても言う気にはなれない。山場をひとつ越えたばかりの将貴の心の疲れを思うと、どうしても言えない。

「そろそろお昼にするか」

「はい」

 大きなパーキングエリアに入り、二人は車を降りた。なんだか周りから視線が集まるなと思って隣を見た千歳は驚いた。将貴が素顔のまま横で歩いている。さっきまでかけていた黒のサングラスといつものマスク、そして帽子がない。

「ま、将貴さん……顔隠すの忘れてますよ?」

「もう止めた」

「止めたって……、あれほど視線を嫌がってたのに」

「自分が傷つかないように護りの体勢に入ってたら、大切なものが護れない」

 うわー……すごい美形。と、通り過ぎる女子高生集団がじろじろと将貴を見ていく。芸能人かなと囁く声をふっきって、将貴はコンビニエンスストアに入り、真っ直ぐに弁当コーナーまで歩いて千歳を手招きした。それが妙にさまになっていて女達がうれしそうに騒いだ。将貴が前を指で指した。

「やっぱりおいしそうだと思わない?」

「そりゃおいしそうでないと、誰も買いませんから。あら、これってうちのじゃないですか?」

 おひさまランチAとラベルが貼ってあるカラフルなお弁当は、ひまわりカンパニーの物だった。目立つ一角にひまわりカンパニーのお弁当や惣菜がずらりと並んでいたようだが、ほとんど売れてしまってがらんどうとしている。

「売れてるんですね」

「売れてくれないと困るよ。営業が粘った甲斐があったな」

 二つだけぽつんと残っていた弁当を二人は選び、ペットボトルのお茶とヨーグルトを買って会計を済ませ、外のベンチに並んで座った。とても良い天気なので外で食べる人が多いようだ。同じようなベンチが至る場所にあり、同じように昼食を囲んでいる。おひさまランチAは千歳がラインに並んでいた頃に発売された弁当で、現場研修を懐かしく千歳に思い出させた。ホンの一月ほど前の事なのに遠い昔のようだ。

 お腹がすいていた二人は無言で弁当を食べた。何故か高級食材でも家庭で作られたものでもないコンビニ弁当がひどくおいしい。千歳がその気持ちを打ち明けると、将貴は天使のように破顔した。

「いつか言ったの覚えてる? こういう弁当でもおいしくなる方法」

「ええ、秋刀魚焼くのに失敗した時でしたっけ」

 将貴は食べ終わった弁当をコンビニの袋に入れて、ペットボトルのお茶をごくごくと飲んだ。

「美留に振られて、徳島まで家出して、夜まで一人で観光してさあ夕飯だって時に財布すられたのに気付いてさ。腹は減るわ真っ暗になっていくわ、目の前に食い物にありつけそうな旅館が並んでるってのに山の中に居るしかなくてね。春になったばかりで寒くて凍死するかと思ったよ。その時に熱出して倒れてる俺を見つけてくれたのが朝子のお父さん。肺炎にかかってしまってさ、ずいぶん迷惑かけたと思うよ。それなのに見知らぬ俺をあの旅館の皆は面倒見てくれて、物が食えるまで回復した時に朝子がコンビニの弁当を買ってきたんだ」

 パーキングエリアの駐車場を出入りする車を見ているのに、将貴の目は自分を助けてくれた優しい人間の顔を見ているようだった。

「なんで旅館なのにコンビニの弁当なんだって言ったら、厨房は今戦場みたいになってて俺の分を作る余裕が無いからって朝子は言った。でもそんなのどうでも良かった、なんのへんてつもない弁当なのに、無性においしくてさ。おいしすぎて泣けてきて、泣きながら食べた。あんなにご飯がうまいと思ったのは初めてだった」

「…………」

「朝子がびっくりしてたよ。おいしいから泣いてるんだと言ったら爆笑してさ、ぱあっとひまわりの花が咲いたみたいに明るくなった」

「だからひまわりカンパニーなんですか?」

 ちくりと嫉妬の針が千歳の胸を刺した。

「まあそれもあるけどね」

「朝子さんはそれを知ってるんですか?」

「知らないと思う。言う気も無い。そういや朝子に仕事頼んだきり連絡して無いな、そろそろ旦那に居場所気付かれてるだろうし」

 慌ててスマートフォンを取り出した将貴の「旦那」という言葉に、千歳は反応した。

「旦那って……朝子さん結婚してるんですか?」

「ん? ああ。旅館の経営者の一人息子と10年位前に。子供が一人いるよ。子供の教育の事で大喧嘩して家出してきたとか言ってたけど、あれは多分に惚気だ。犬も食わない夫婦の喧嘩だからそのままアパートに居させてやった。レースの仕事が遅れてたから匿う代わりに仕事手伝えってね……」

 空いた口が塞がらない千歳は、そのまま朝子に電話をかけた将貴の横顔を見ているしかない。朝子が人妻だとは知らなかった。一言も二人はそれを言わなかった。知っていたら福沢とやけになってデートなんかしなかったのに。一体自分の悩みは何だったんだ……。

「出ないなあ。旦那に居所ばれて回収済みかな。やれやれ」

 将貴はスマートフォンを閉じ、じっと見ている千歳の視線に気付いてにこりと笑う。

「朝子は妹だ。ちょっとあれこれあったけどな」

「あれこれって……」

「あ、かかってきた。やっぱり捕まってたか」

 鳴り出したスマートフォンに将貴が出て、おそらく朝子の夫だと思われる男と話を始めた。千歳はやっぱり将貴といるとあれこれありすぎて疲れるなと思いながらも、ひどく愉快な気分になり、ペットボトルのお茶をゆっくりと飲んだ。

(東京へ来たのは……正解だったみたい)

 その時太陽に雲がかかった。途端にたかしの事を思い出し、千歳は現実に戻る。

(……どうしたらいいんだろ)

 雲はすぐに太陽から離れていったが、千歳の心にかかった雲は分厚くなるばかりだった。

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