天使のマスカレイド 第33話

 品質管理の社員はパートを混ぜて6名いた。初めてその部屋へ入った千歳を、主任の高瀬という男性の社員が紹介してくれた。

「今日から品質管理課に配属されました、結城千歳さんです」

「結城千歳と申します。なにもまだわからない状況で皆様にご迷惑をかけるかもしれませんが、早く仕事を覚えようと思っております。どうぞよろしくお願いします」

 ぱらぱらと叩かれる拍手は微妙だ。自分の変な噂が流れているのかもしれない。朝礼の後すぐに指導係の赤塚美緒という同年輩の女性社員に指示されて台車を休憩室から持ってきて、品質管理室の奥にある冷蔵庫から保管されていた惣菜一式をコンテナを積み込んだ。そしてそれを休憩所の窓際にある荷物運搬用のエレベーターに乗せて階下に下ろし、千歳は赤塚と共に工場へ続く階段を降りた。いろいろと聞いてはいたが品質管理も製造と同じように時間勝負のようだ。にわかに緊張している千歳に、髪の毛を取るローラーを作業服に滑らせながら赤塚が説明を始めた。

「知っていると思うけど、品質管理課も結構スピード勝負なの。さっき結城さん自身で言ってたけど、早く仕事を覚えて皆に馴染んでいってね。最初は慣れない事ばかりで焦っちゃうと思うけど、遠慮なくみんなに聞いて」

「はい」

 赤塚のはきはきとした口調は気持ちがいいもので、千歳はほっとした。細身の深い赤のフレームの眼鏡がきつい印象に見えるが、冷血漢でも独りよがりな人間でもなさそうだ。最初に赤塚に連れてこられたのは、先ほどのエレベーターの一階部分がある荷物受付場だ。そこで降りていたコンテナを台車に載せ、隣の原料室にある大きな両開きの冷蔵庫の前へ押していった。

「ここに六日分の検体……工場から出荷した惣菜や弁当と同じもの全て置いてるの。毎日品質管理の冷蔵庫に入っている検査済みの検体をここに入れるのよ。昨日の分はここへ入れるわ。今日の検査分は明日この隣へ入れるの。細菌検査の結果が出るのが大体一週間かかるものがあるから、同じ期間だけ保管しておくの。何か起こった時に、その現品とうちの保管してある検体と比べて検査するようにしているわ」

「検査に時間差があるんですか?」

「二日で判定できるものや五日もかかるもの……いろいろあるわ。で、この一番端にあるのが今日捨てる検体。腐敗してかなり臭いから息止めてたほうがいいかもね」

 トレイに入っている惣菜はカビが生えていたり、腐って色が変わっているのがあきらかに見て取れた。二人で持ってきた台車に検体が入っているコンテナを5つ乗せ、ゴミ保管庫まで来ると、赤塚に業務用のゴミ袋に分別して入れるように言われ、千歳は赤塚と二人でプラスチックのトレイと生ゴミを腐敗した臭いに耐えながら捨てていった。ねちゃりと腐敗した汁が悪臭を放ち、それがまた沢山あるものだからつらい。ゴミ保管庫という場所だけあってそこかしこから異臭が漂っている。

「ゴミ分別は絶対にこの部屋以外でしないでね。他の部屋ですると汚染する場合があるから」

「はい」

 分別してゴミ袋の袋の口を縛ると、二人は手洗い場へ戻り、手を洗浄消毒して靴の裏も薬品入りの水槽にひたして消毒しなおした。次に赤塚が向かったのは出荷する水色のコンテナが置かれている場所だ。冷蔵庫と同じ温度の部屋は作業場と同じく寒い。コンテナには番号の札がかけられていて、それが各店の店番だと赤塚が教えてくれた。一番隅に置かれている複数のコンテナに検体と書かれている札が下がっていて、これを品質管理室へ持っていくらしい。そのコンテナを台車に載せ、先ほどの荷物運搬用のエレベーターに2人で載せた。積み終えると、赤塚が二階のボタンを千歳に押させてくれた。これに乗っていったらすぐ部屋に帰れるなと、とんでもない事を考えている千歳の頭の中を覗いたように、赤塚が言った。

「これは物しか載せないエレベーターだから、生きてるものは乗せちゃだめよ」

「え……いえ、私はっ」

「たまにいるのよ乗りたい人が」

 くすりと笑われて千歳は恥ずかしいなと頬に手を当てた。赤塚に連れられて、千歳は品質管理室へ繋がっている階段を再び昇り、食堂へ行って上がっていたコンテナを台車に載せると、赤塚はエレベーターを1階に戻した。必ず1階に戻すのが基本なのだという。

「検査作業は沢山あって何時間もかかっちゃうから、私達もするけれど、ほとんどパートの田中さんと野村さんが専門よ。作業する人たちの手や、工場内の各所の検査の検体取りもやってもらってるわ。忙しすぎるのにお隣のチルドセンターも最近請け負う事になったから、大変でついていけなくて音を上げた二人が辞めたばかりなの」

「そうなんですか……」

「細菌カウントやHACCPなどの書類作りが、私と結城さんと山本さんの仕事。主任はそれの統括と言ったところね。でも主任は商品開発も受け持ってるから、あまり品質管理室には居ないわ」

 千歳はふと将貴が気になった。

「あの、部長の石川さんは……」

「石川部長はほとんど夜勤だから滅多に会わないわね。管理部の部長と言っても、ほとんどノータッチみたい。あの人は謎よね」

 今日は休んでいる将貴だが、明日はどうなるのだろうと千歳はいささか不安になる。あの超美形が素顔を晒して歩いたら大騒ぎになるのは間違いない。

 品質管理室に戻って田中と野村に検体を受け渡し、二人は奥の部屋に入った。いろんな棚に囲まれた部屋の中央に大きな灰色の検査台があって、丸椅子に腰掛けた山本が積み上げられたシャーレを見ながら書類に何かを書き込んでいた。同じ用紙をひとつの棚の引き出しから一枚出して赤塚は千歳に手渡した。

「これが細菌検査表。一般生菌、大腸菌群、大腸菌、真菌、サルモネラ菌、腸炎ビブリオ菌に分かれているでしょう? サルモネラと腸炎ビブリオは主に精肉や鮮魚しかやっていないわ。この二つの扱いにはくれぐれも気をつけてね、工場内で細菌を増やすなんてあってはならない事だから」

「はい」

 赤塚がうずたかく積まれた透明なシャーレを三つ並べてテーブルに並べた。それぞれの蓋に、10、10、10と書かれている。中には薄く黄色がかったゼリーが入っていて、そこになにやら白い粒粒が見える。

「10は菌が多すぎて真っ白に濁っちゃってるでしょ? こういう場合は10、10の方を見るの。ほら、ちゃんと粒粒に見えて数えられるでしょ? 102は100倍希釈、10は1000倍希釈を意味しているの。数えるにはこのシャーレを蓋をしたままひっくり返して、数えたらこのマジックペンで消していくのよ」

「はい」

 赤塚はそのシャーレが気になるらしく、細い黒のマジックペンでカウントした。

「……これ何の検体? 酷すぎるわ。一万個以上あるじゃない」

 山本が自分がカウントしていたシャーレから顔を上げ、用紙を見る。

「おととい異臭がするとクレームのあった高野豆腐です。車の中に2時間ほど置いてあったものです」

「ああ……、一応検査してくれと言われたものね。当たり前か」

 千歳も検査台の前に座らせられた。積み重なっているシャーレを何本か千歳の前に置いた赤塚から、マジックペンとシャープペンシルを受け取る。

「とりあえずこの番号順にカウントしていってちょうだい。わからなかったら聞いて」

「はい」

 千歳は慣れないながらも食いついていかなければと思い、シャーレを手に取った。細菌は出ていたり出ていなかったりする。意味不明に白い塊が出来ていたり、悪臭が漂うものなどはすべて赤塚に聞き、赤塚はすべて丁寧に教えてくれた。その間山本は何も言わずに自分の作業をしている。一時間ほど経った頃、パソコンに何かを入力していた赤塚が室内電話が鳴って応対した後、工場へ降りると言い残して部屋を出て行った。しばらく千歳はカウントしていたがやがてそれらをすべて終了した。

(赤塚さんまだ帰ってこないのかしら)

 千歳は山本が膨大にシャーレに囲まれているので、これは手伝わねばと思った。

「山本さん、何かお手伝いさせて頂く事はありませんか?」

「…………」

 山本は何も言わない。聞こえていないのかなと千歳は再度同じように繰り返したが、聞こえているはずなのに山本は千歳の方を向かないし、作業の手を休めなかった。困っていると、隣の部屋の田中がドアを開けて入ってきた。

「山本さん、二日前の検査の21番なんだけど」

「なんでしょう?」

 笑顔で即答して山本は田中に振り向いた。呆気に取られている千歳の前で山本は田中と受け答えし、田中が出て行くとまたカウントに戻った。千歳はもう一度声をかけてみたがやはり無視される。

(何なのこの人?)

 今まで接点は皆無だから、何故無視されるのかさっぱりわからない。千歳は仕方ないので赤塚が戻ってくるまで待つ事にした。

 千歳はグッタリとして、陽がとっぷりと暮れた闇の中で自転車を漕いでいた。十一月の下旬で秋から冬に入ろうとしている午後6時はもう夜だ。スーパーで買い物をしたので前の籠が重い。息を吐くと自転車のライトに照らされて白く霧となって消えていく。

 あからさまに無視する山本がいると仕事がはかどらない。赤塚がいれば教えてくれるのだが、彼女は多忙なようで席を外す事が多い。そんなわけでわからない事ができると、そこで作業はストップしてしまいやりづらくて仕方なかった。山本はあれで自分より15歳も年上だというから恐れ入る。まるで小学生の意味の無いいじめのようだ。何故嫌われているのかもさっぱりわからない。

「そういや事務所の矢野さんが、彼女はやっかいだと言ってたなあ。明日愚痴りに行こうかな」

 あんまり続くようなら赤塚の前で問い詰めてやろう。そんな事を考えながら自転車を漕いでいると、突然前方から走ってきた車に行く手を阻まれ、千歳は自転車を降りた。変質者だろうかと自転車の持ち手で構えていると、車の後部座席のドアが開いて中から男と思われる人影が降りてきた。

「千歳」

 聞き覚えがあるその声に千歳は後ずさった。自動車のライトに照らされていたのは、かつての千歳の恋人の鈴木たかしだった。

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