天使のマスカレイド 第35話

 翌朝、将貴は部屋におらず、キッチンへ行ってみても居たのは朝食を作っている朝子だけだった。朝子は千歳に気づいて振り向き、にっこり笑った。

「おはようございます」

「……おはようございます」

「陽輔と将貴さん、一緒に夜に出かけていったきり帰ってこないんです。どうもホテルに泊まったらしくて」

 何故だかわからないが、ぐさりとナイフがささったような痛みが胸に走った。

「……そうですか」

「さっきスマートフォンから朝はいらないって言ってました。陽輔は戻ってくるけど、将貴さんはそのまま出勤するそうです」

 何故自分に連絡してくれないのだろう。それになんだか気まずい。ただ用意してくれた朝食を食べなかったりするのは朝子に悪いだろう。千歳は朝子が朝食の用意をするのを手伝った。朝子が味噌汁に味噌をときいれるのを横目に、千歳は漬物を冷蔵庫から取り出してテーブルに並べた。

「将貴さんと千歳さんって、本当に恋人同士じゃないんですね」

 唐突に朝子に言われ、千歳は持っていた茶碗をがちゃんと音を立ててテーブルに落とした。朝子はそれを気に留めた風もなく味噌汁の火を切り、そして棚から味噌汁の器を取り出して、おたまじゃくしを手に取った。

「私、お二人がなんだかんだ言っても恋人同士だと思ってたんです。だから二人が同じ部屋でもいいと言ったんですけど、将貴さんが一緒の部屋は都合が悪いと仰って、陽輔と一緒に出て行ったんです」

「そうでしたか」

 気を取り直して千歳は炊飯器を開けた。言い様の無い切なさだけが心を切り裂き、手先が震えていないか千歳は気を使いながらしゃもじでご飯をよそった。朝子は二人分の味噌汁をテーブルに置いて、焼き魚や煮物を配膳するとエプロンを取って自分の席に座った。千歳も向かい側に座って手を合わせた。しばらく二人は何も言わずに朝食を食べた。正直な話、あれこれ思い悩んでいる千歳は味噌汁もごはんも焼き魚も味わう余裕はなかった。詰め込んでおかないと仕事にならないから、義務的に食べているだけだった。

 千歳の方がわずかに食べ終えるのが早かった。とにかく早く朝子から離れたい。悪い人間でないのは確かだが、陽輔や将貴がいないと一緒にいるのが息苦しい。千歳がシンクで茶碗を洗い終える頃、朝子が食べ終えて箸を置き、とんでもない事を口にした。

「千歳さん、将貴さんと寝た事あります?」

 千歳はぎょっとして振り向いた。朝子はテーブルに頬杖をついて、挑戦的な目で千歳を笑いながら見ている。化けの皮がはがれた、そんな感じだった。

「寝たって……そんな、あるわけないじゃないですか」

 思わず声を震わせる千歳に、朝子は優越感に満ちた笑みを浮かべた。

「私はありますよ。うふふ、大分昔の話ですけれど。すごいんですよ将貴さんてセックスになるとあの内気な性格が豹変してしまうの」

 赤裸々な話で千歳は顔が赤めた。同性でも千歳はセクシャルな話などそうそうしない。

「……私には、関係ないですから」

「そうですよね、昨日、外で他の男の人とキスしてましたもんね」

 千歳は顔が強張るの感じた。そんな千歳を見て朝子は楽しんでいるようだ。見られていたのかというショックが千歳を容赦なく引き裂いていく。

「アパートの窓から丸見えでした。夜でも車のライトとかで見えちゃうんですから気をつけてくださいね。一応、将貴さんと千歳さんは夫婦として過ごされているんですから。ご近所が見たら、将貴さんに傷がついちゃう」

「……あの男は恋人なんかじゃないわ」

「だったら余計悪いじゃないですか。信じられない、貴女一体何人の男性相手にしてるの? 将貴さんの親友の福沢さんと寝たくせに、一週間もたたないうちにまた別の男と」

「それはっ」

「きったない女ですね貴女。そんな人が将貴さんのそばにいるなんて。将貴さんが可哀相」

 くすくす笑いながら朝子が自分の食器を持ってきて、水が流れたままになっているシンクに置いた。千歳ははっとして蛇口を閉めた。

「そうそ、将貴さんお見合いをされたそうですよ昨日」

「……知ってるわ」

「お母様の麻理子様のご推薦ですって。だから貴女はもうお役御免よね? 早く次のアパートを見つけたらどう?」

「言われなくてもそうする予定よ」

 脱力していく自分を感じながら、千歳は食器をふきんで拭いた。てっきりもっと言い返すと思われた千歳が何も言い返さないので、朝子は少し物足りなさそうだ。朝子が何かをさらに言おうとした時、いつの間に帰ってきたのか陽輔がキッチンへ入ってきた。

「おはようございます。あれ? 朝子、オレのご飯は?」

「将貴さんと食べたんじゃないの?」

「あいつの量じゃ足りないよ。作って」

「もう! 仕方ないわね」

 朝子が文句を言いながら、また味噌汁の鍋に火をつける。陽輔が千歳の顔の強張りに気付いて心配そうに顔を覗き込んだきたので、千歳はなんとか取り繕いの笑顔を浮かべた。

「千歳さん具合が悪いのか?」

「あ、いえ。もう出勤しますんで……」

 千歳の顔はいつもにまして青白い。昨晩うつらうつらとしてろくに休めていないせいだ。

「大丈夫なのか? 貧血持ちだって聞いたけど」

「薬を飲んでるから大丈夫です。じゃあ私はこれで」

 逃げるように千歳はキッチンを後にした。アパートはまた戻りたくない空間になってしまった。確かにもう将貴には自分は必要ないから、早く新しいアパートを探す必要があるだろう。顔を洗った千歳はそこまで考えて、嫌な事実に気付いてしまった。千歳の手取りは毎月22万円だ。20万を毎月返すとして、残り2万でアパートなど借りられない。

(早く音を上げてください)

 城崎の声が耳の底から甦ってくる。千歳は自分が冷たい鎖に縛られていくのを知りながら、じっと耐えて身体を強張らせているしかない事実にやるせなさを覚えた。何か他に方法はないだろうか。幸いひまわりカンパニーはかけもちを禁止していない。考え付くのはバイトを夜にする追加するくらいだ。できれば寮がついていたらなおさらいい。以前にやっていたぎりぎりの生活に戻ってしまうのが辛いが、それしか今のところ方法は無い様だ……。

 鏡には将貴と知り合う前の千歳が映っていた。暗い目に暗い表情、これでは疫病神もとりつきたくなるだろう。蛇口を閉めてタオルで顔を抑え、千歳は泣きそうになる自分を叱咤した。それでも出てくる言葉はとても気弱なものだった。

「ごめん義姉さん。私、やっぱりどうしようもないみたい」

 小さな声で千歳は義姉のあかりに謝った。

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