天使のマスカレイド 第37話
「きゃあっ」
俯いて歩いていた千歳は保冷庫を出た通路の角で、コンテナを持って運んでいた将貴に気付かずにぶつかり、見事に床に転がってしまった。
「ごめん、大丈夫か? って千……じゃない、結城さん」
千歳はいきなり将貴に会った事に焦り、すぐに起き上がった。作業着はさほど汚れていない。
「はい大丈夫です。すみませんでした」
「……気をつけてくださいね」
「はい」
やっぱり将貴の声は良い声だなと場違いな事を千歳は考えた。すぐに将貴は米飯室へ入って行く。アパートでは全然会わなくなってしまったのでこうして逢えるのはうれしい。
「見た今の。わざとらしいわね。ああまでして気が引きたいのかしら?」
なんだろうと見ると、さっきのパートが若いパートと千歳を見ている。気を引くとは何を意味するのかさっぱりわからない。やる事成す事目をつけられて捻じ曲げて受け取られているようだ。どうしてここまで悪く思われないといけないのだろう。
「仕事はろくにせずに男の気を引く事ばっかり考えてるから、人の意見を無視するのね」
「大人しそうな顔してえげつなー。山本さんも大変だわあれじゃ」
無視されているのはこちらなのだが、と言いたくなるのを千歳はぐっと堪えた。今は何を言ったところで彼女達は聞いてくれやしないだろう。ともかくこの事は山本を追求しなければいけない。完全に仕事に支障をきたしている。山本は千歳の失敗と彼女達の注意を聞いておきながら千歳に言わなかったのだ。自分を嫌うのは勝手だが、仕事をここまでこじらせられたらたまったものではない。ところが品質管理に戻った千歳を待っていたのは主任の高瀬の罵声だった。
「結城さん、大腸菌群のカウントがめちゃくちゃじゃないか! 一体どこをどうカウントしたらこんなに数が増えるんだっ」
ドアを開けた瞬間に怒鳴られた千歳は一瞬呆然とした。その千歳に高瀬は検査結果報告書を突きつけた。
「他の菌の数がこんなに少ないのに、どうして君の数えた大腸菌群だけこんなに多いんだ! 適当に仕事をするのは止めてくれ。ただでさえ十二月に入って忙しいんだぞ」
言われている意味がわからなくて千歳はしばらくその罵声を聞いていたが、やがてはっと我に返った。
「そうはおっしゃいますけど今日は確かにその数がありました。シャーレをご覧くださったらわかると思います」
「今日の分はもう滅菌処理してゴミ置き場です」
高瀬の背後で千歳を伺うように山本が言った。それでは千歳がどう言っても聞いて貰えるわけが無い。運が悪い事に赤塚は今日は休みだった。田中と野村はパートなので強くものを言える立場ではなく、はらはらして事の成り行きを見ている。
「一体全体君は品質管理をなんだと思ってるんだ? 自己中心的な検体の取り方で製造での評判も悪い。品質管理は製造の言わば粗探しのようなもので嫌われやすいんだ、それなのに仕事がやりにくくするような事をしでかすのは止めてくれ」
「あの……私」
「言い訳は聞きたくない! この事は部長にも言っておく。しっかりしてくれよ本当にもうっ!」
喚き散らすだけ喚き散らして高瀬は隣の商品開発室に入っていった。年末の新メニューを考えるのに忙しいのだろう。山本はさっさと奥の部屋に入って行き、千歳は目を何度も瞬かせて下をうつむいた。間が悪すぎる気がする。田中と野村がしきりに慰めてくれたが千歳は一向に気が晴れない。なんだろうこのやろうとすればするほど後ろに後退するような気分になるのは。くらりと貧血の発作が起こりかけて、千歳は口の中を強く噛んだ。血が滲むほどきつくかみ締めると鋭い痛みが走って散漫になっていた気力が甦る。
しばらく経って千歳は将貴に呼ばれて会議室に入った。将貴は厳しい顔をしていた。
「結城さんに限ってそういう事はないと思うけど、一体どうしたの? 高瀬主任がえらく怒ってたけど」
ここで説明したほうがいいのだろうが、千歳はひどく疲れていて何も言う気が起きなかった。それこそ告げ口をしたとか泣きついたとか言われそうだ。向かい合って座りながら、千歳はこれが正しいのかどうかわからないながら口を開いた。
「……不慣れで皆さんの迷惑になっているようです。すみません」
「本当か? 私はおかしいと思う」
将貴は誰に聞かれているか分からないので、他人口調を崩さない。それは当たり前なのだが、ひどく今の千歳には堪える冷たさでますます自分の言い分を言う気が失せた。あの佐藤佑太の前でぞんざいな口を聞く千歳を知っている柳田が見たら、別人かと思うような気弱さだ。それに将貴も気付いているので怪しみの色を隠さない。
将貴に自分の言い分を言ったとしたら、どうなるだろう。心配してくれるだろうか、怒ってくれるだろうか。でももし千歳の肩を持ったりしたら将貴の評判まで落ちそうだ。それではまた将貴が前のように人を遮断する男になってしまうかもしれない。それだけは千歳は避けたい。今日は取りあえずこのまま収めたほうがよいと千歳は思った。そう思う事事体が千歳が一杯一杯な証だった。日頃の負けん気がマイナスの方向へ動いてしまっている。
「私が悪いんです。今後このような事にならないように、やっていくつもりです。皆さんにご迷惑かけてすみませんでした」
これ以上は駄目だと将貴は判断したようで、もう何も聞いてこなかった。千歳は一礼して会議室を出た。
品質管理室に戻ると高瀬が再び待ち受けていて、千歳にしばらくカウントはせず、田中と野村の補助的な仕事をするようにと言った。それはある意味助かる指示だった。今、山本と一緒の部屋にいるのは拷問のようなものだ。今日ほど早く就業時間が来るのを待ち焦がれた日はなく、千歳は時計を何度も見上げては内心でため息をついて、その日の仕事をこなしていくのだった。
アパートに戻れば戻ればで朝子が何かと嫌味を言うのが嫌で、千歳は部屋に閉じこもりがちになった。朝子が家事を何もかもしてしまうためする事が無い。やっている家事は自分の服の洗濯ぐらいだ。人によっては何もしなくて楽だろうと言われる境遇だが、他人が入り込んで自分の居場所を奪っていくのをただじっと我慢しているしかないのは辛かった。陽輔がいればまだましなのだが、陽輔は仕事の一環と称してあちこちのホテルや観光地を回っているらしくなかなか帰ってこない。
メールが着信したので見ると、見たくも無い城崎からのメールだった。今すぐこの前の田んぼの道まで出て来いという。時計はまだ夜の7時だ。遅いからと断れない。返済日はまだ先だが、断ると何をされるのかわからないので聞くしかなく、千歳は朝子に出かけると言い置いてアパートを出た。
見られているのだろうなと投げやり気味に千歳は思った。朝子はきっとそれを将貴や陽輔にいつか言うだろう。陽輔はともかく将貴はどう思うだろう……。でも城崎を無視してひまわりカンパニーに何かをされるほうが嫌だ。
寒い風にマフラーを揺らせながら、千歳は田んぼに面した道路の路肩に止まっている城崎の車に向かった。たかしは居ないようで、黒塗りの高級車には城崎しか乗っていなかった。
のろのろ歩いて千歳は車の脇で足を止めた。窓越しに城崎が顎で助手席に乗れという。千歳は唇をかみ締めて助手席のドアを開いた。城崎は千歳を乗せるとすぐに車をUターンさせて市街地に向かって走っていく。ホテルなどに連れ込まれたらどうしようという不安が千歳の頭の中を渦巻いたが、さすがにそれはないだろうと自分に言い聞かせて流れる夜景に気を紛らわせる事に集中する。
クリスマス前の市街地の夜はイルミネーションが増えていて、いつもに増してにぎやかだった。連れて行かれた先は静かなジャズが流れている心が落ち着くバーで、そこかしこにカップルが居て楽しそうに会話を楽しんでいたり、カウンターで一人で静かに飲んでいる客もいる。城崎は店の奥の個室へ千歳を連れ込んだ。
「夕食はすんでいますか?」
「いえ」
「ここのバーの軽食はかなりおいしいですよ。どれが好きなものを選んでください、遠慮は要りません」
いやに機嫌よく城崎は言う。人が地獄にいるのが楽しいのだろう。悪趣味だと思いながら、千歳はぼんやりとメニューを眺めた。何も食べる気はしない。黙ってメニューを閉じると城崎が勝手にサンドイッチのセットを頼んだ。グラスの水を飲み、千歳はからりと回る氷に目を落とした。
「今日は何の用ですか。返済日ではありませんよね」
「逢いたいからお呼びしたんですよ。なにやらお疲れのようですし」
「疲れさせてるのは貴方達でしょ。たかしはなんでいないの?」
「おや、借金を押し付けた男に会いたいのですか?」
「まさか」
サンドイッチセットが運ばれてきた。サンドイッチというよりホットサンドのようなもので、卵やハムや生野菜が裏表を軽くトーストした食パンにはさまれている。付け合せにフライドポテトとコーンスープが付けられていた。こんなものをこの男が好きだとは意外だ。
「あの男とあまり接触するとよくありませんのでね。お互い叩かれたら埃がたくさん出ますから」
「そうでしょうね」
サンドイッチセットに手をつけず、千歳はグラスの水だけを飲んだ。城崎はそんな千歳をいつもの食えない笑みを浮かべて見ていたが、持っていたスーツケースからノートぐらいの大きさの紙切れ数枚を千歳の前に差し出した。促されて見ると求人情報だった。それも寮が格安で借りられるという条件のものばかりだ。
「……なんのつもりですか?」
「あのアパートには居づらいでしょう? 聞くところによると変な夫婦が居座っているそうじゃないですか? 貴女も御曹司のそばには居辛いでしょうし、職場も今より稼げる方へ変わったほうが楽でしょう」
「変わりませんよ」
「変な意地を張るもんじゃない。すべて耳に入ってきます、貴女は職場で追い詰められている。やる事成す事裏目に出て、上司に叱り飛ばされたりしているでしょう?」
まさかと千歳は顔をあげた。得心を得たように城崎が目を細める。