天使のマスカレイド 第39話

 それから数週間が過ぎて年末になった。将貴の配慮のおかげで、千歳は幾分かは仕事がやりやすくなった。赤塚と全く同じシフトに将貴が変更してくれ、仕事に支障をきたさなくなったからだ。高瀬主任に将貴は、千歳はまだかなり不慣れでこの先もミスがあるかもしれないからと上手く説明してくれ、高瀬が文句をいう事はなかった。ただ、製造との間に入ったひびは簡単に消えるものではなく、製造へ検体を取りに降りるたび、千歳は冷たい視線を浴びていた。

 製造の廊下を歩いていて、千歳は原材料の冷蔵庫がわずかに空いているのに気付いた。これはよくない。こういうところから庫内の温度が上昇して材料の腐敗が進みやすくなってしまうのだ。閉めようとレバーになっている取っ手に手を掛け、ふと山本の声が内側から聞こえて千歳はその手を止めた。

「……うまくやっていたわ。でも部長がそうしたから仕方ないじゃない。私のせいじゃないでしょ。お願いだから私を見捨てないで」

「見捨てやしないけどさ。困るんだよな。あの子に辞めて貰わないと城崎がうるさいんだ」

「頑張ってみるから、だから。そうだわ今日あの子の手の検査日だからそれで……」

「うまくやれよ。そうしたら結婚してやる」

 聞こえてくるのは、月末の棚卸しをしているはずの山本と主任の高瀬の声だった。手の検査とは滅菌された綿棒で掌を擦り、それを生理食塩水につけたものを培地で培養させ、手の衛生状態を見るものだ。やがて二人は棚卸しに戻ったようで会話は点検のものになった。千歳は震えながらそこから離れ、品質管理室や事務所に戻る階段を登って、途中にある更衣室に入った。誰も居ない更衣室は静まり返っており、千歳は隅にある洗面台の椅子に座った。

 高瀬がまさか城崎とつながっているとは考えていなかった。山本に敵視されていると思っていたのは間違いで、彼女も操られているに過ぎない。あのカウント云々は二人で張った罠だったという事だ。いくらでも検査結果をでっちあげられる立場にいる二人に、千歳はひまわりカンパニーの危機を感じた。でもどうやって伝えたらいいのだろう。第一直ぐに信用してもらえるとはとても思えない。結局千歳は今回も黙っているしかできないようだ。福沢や将貴と親しくしていてもそれはそれでこれはこれだ。高瀬は確か本社から抜擢されてここへ配属されたのだと誰かが言っていた。そんな人物と新入社員の千歳では信用度が天と地程も違いすぎ、よしんば信じてくれたとしても聞き間違いなどにされてしまうだろう。

 年末の忙しさもあわせて会社で寝泊りする事が増えた将貴とは、ほとんど顔を合わせていない。クリスマスだった昨日も何もなかった。もっとも千歳自身も製造のヘルプに入っていたので帰ってきたのは夜中だった。そうしたら何故か朝子が起きてきて、千歳はキッチンへ入るなり怒られた。

「こんな夜中まで仕事するもんじゃないわ! 何考えてるの」

「えっと……?」

「千歳さんは言われたら断れない性格みたいだけど、さすがにこの時間まで仕事はないでしょう。ちゃんと断りなさいよ残業なんて」

 どうやら心配してくれているらしい。信じられなくて千歳が目をぱちぱちさせていると、冷蔵庫からおいしそうなイチゴクリームのショートケーキを出し、朝子は黙って千歳の前のテーブルに置いた。そして自分の分ともう一人の分を置いてキッチンを出て行く。しばらく経って陽輔が入ってきた。

「千歳さん夜中までご苦労過ぎるよ。将貴に言ったほうがいいよ」

「あの、これは?」

「クリスマスだろ。この日は皆でケーキを食う日だ。将貴はたまたま昼に帰ってきた時にオレ達と食った」

 つまり二人はもう一度ケーキを食べるのだと言う。千歳は二度もケーキを食べる二人になんと言っていいのかわからず、朝子が紅茶を入れるのを黙って見ていた。朝子はつんけんした態度は治らないが何かが違うのがわかる。

「メリークリスマス、陽輔、千歳さん」

「メリークリスマス」

「……メリークリスマス」

 急かされて同じように言った千歳は、そういえば昔はこんなふうにクリスマスを家族で過ごしたなと思い出した。心がふわりと温かくなり、涙が出そうなほどうれしい。あまり三人は話をしなかったが、それでも和やかな雰囲気でクリスマスを過ごすことができた。

 朝子の変化がいまいちよくわからない。何故出て行けといったのに、一緒にクリスマスを祝ってくれたのだろう。将貴や陽輔が何かを言ってくれたのだとは察しがつくが、何を言われたのかは千歳にはわからない。実のところ、あの盗聴された音声を聞いた翌日から朝子は千歳に謝ろうとして機会を狙っていたのだが、千歳の方が朝子を避けまくっていたのでクリスマスまでずれ込んでしまったのだ。

「よくわからない人よね……。嫌味を言われなくなったのは助かるけど」

 何も知らない千歳は椅子から立ち上がり、更衣室を出たところで福沢にばったりと出会った。福沢は帽子を取って千歳の前を何も言わずに通り過ぎていく。福沢はあの夜を最後に本当に声をかけてこなくなった。

「あの、副工場長っ」

 福沢が振り向いてから、千歳は声をかけた自分を後悔した。あの二人をどう説明したらいいのだろう。さらに階下から当の高瀬と山本が連れ立って昇ってきた。二人とも福沢と千歳の隣を通り過ぎ様ちらりと見ていく。

「なんでしょうか?」

 二人が品質管理室の角を曲がって見えなくなってから、福沢が口を開いた。今言えば確実に千歳の告げ口だとばれる。

「いえ……なんでもないです。すみませんでした」

「?」

 福沢は挙動不審な千歳に頭を傾げたが、そのまま廊下を真っ直ぐ歩いて事務所へ入っていく。千歳は自分を責めながら品質管理室に戻った。するとドアを開けた瞬間に、「結城さんが副工場長を……」と山本が口にするのが聞こえた。廊下に背を向けていたので窓から千歳が見えなかったのだろう、ドアを開けた千歳に気づくと山本は口を噤み、奥の部屋へ入っていった。田中と野村は気まずそうにしながら検査に戻る、こうやってあれこれ陰口を叩かれていたのだろうなと千歳は陰鬱な気分になった。

 誰も信用できないと思う。そんなふうに考えてはいけないと昔の千歳が言ったが、今の千歳はその通りよと言う。下手に信用して痛い目に遭うのは自分だ。なんでもないという仮面を被っていなければいつ足元をすくわれるかわからない。

 それは確実に以前の将貴の模倣だったが、千歳自身は全く気付いていなかった。気付けば今の千歳は前の将貴と同じように壊れてしまう。

 奥の部屋に入って仕事を始めた千歳を、事務所の窓越しに見て、福沢はさっきのは一体なんだったのだろうと思った。千歳の幸せのためにも彼女の恋を応援する立場に徹する事に決め、あれ以来ずっと声をかけずにいたのだが、慌ただしい年末の空気の中で、千歳の表情がどんどん暗くなっていくのが気がかりだった。自分勝手だと言う製造の噂がどうもおかしいと思う。千歳は本心をなかなか見せない頑なな部分はあるが、いつも他人優先で自分を犠牲にする性分だ。それは将貴に注ぐ混じりけの無い愛情を見ていてよくわかる。だから自分は千歳から手を引いたのだ。

「結城さん元気ないですよね」

 矢野が福沢にお茶を渡しながら言った。矢野は休憩時に千歳を見かけたら話しかけたりして接触を持つようにしているのだが、最近の千歳ははきはきとした雰囲気が皆無で、ただただ時間が過ぎていくのを待ち焦がれている節がある。

「妙な噂が流れているな」

「ああ、自分勝手ってやつですね。事務所の人間は誰もそんなの信用していませんよ。ここから見てたら自分勝手なのは山本さんでしょ。ある事ない事吹き込んでるのは彼女なのは見てりゃわかりますからね」

「……採用したのは高瀬主任だったか」

「その辺が怪しいですよ、何であの人だけ副工場長の面接がなかったのか不思議でしたもん。あの二人が絶対になんか企んでるんですよ」

「面接しなかったのは俺が出張していたからだが……、どうも狙ったかのような感じだったな、今から思うと」

 ひまわりカンパニーは管理職と一般社員の距離が近いので、こんなふうに普通に会話をするのが当たり前だ。もっとも歳が近いせいもあるが。

「それに高瀬主任って家に滅多に帰らないんですよ。あきれ返る事に御自分の子供の名前も書けないんです。扶養控除申請書の時にそんな事言ってて……。もう、本部の誰が抜擢したんですかね。仕事はできても私生活が酷い人は私は好きではありません。おまけに部下の失敗を言いふらかすなんて上司として最低です」

 先日のカウント騒ぎだ。あの事件は殊更誰かが言い広めた感がある。おそらく山本が言い広めたのだろうと矢野は思っている。福沢もそれは感づいていて指導しようと思っているところだ。そこへ将貴が事務所に戻ってきて、副工場長の席の向かい側にある管理部部長の席に座った。疲労の色が濃い。このところアパートにほとんど帰っていないのだから当然だろう。

「石川部長、品質管理の結城さんの件ですが……」

 言いかけた福沢を将貴が手で制した。聞きたくないという合図だ。それはとても冷たく見え、矢野はこんな人とは思っていなかったわという感じで自分の席へ戻っていく。

「それよりも年末の受注について相談があります。会議室へきてください」

 福沢にそう言って、一旦席に座った将貴は再び立ち上がった。

 会議室のドアを閉めた福沢は、丁寧な口調で茶化した。

「ファンを逃しましたね」

「何のことだがわからないけど、高瀬達の件なら調べがついてるから必要ない。確証を掴むまで動けないだけだ」

「え? 本部に人脈があったかなお前に?」

「直接社長に伺った。入社当初は普通だったみたいだけど、数ヶ月前から様子がおかしいようだ……との事だ」

 つまり千歳が入社してからだ。福沢は首を傾げた。

「何か妙だな。彼女は一般庶民だしそこまでして何かをされるような人間じゃあないだろ?」

「狙いは千歳じゃなくて俺だ」

「……それがどうして彼女を貶めるって行動に繋がるんだ? お前と彼女の仲を知ってるのは佐藤社長と家族ぐらいだろ。あの人達がこんな陰湿でばればれの事をするなんてありえないし、第一畑が違いすぎる」

「佑太や家族は完全に無関係だ」

「うーん。じゃあ一体誰が得をするんだ?」

「こういう事をやらかしそうな奴……、お前は覚えてないかな?」

「覚え? 知り合いなのか?」

 腕を組んで窓の外に降る雪を眺めながら将貴は呟いた。

「高校の時、似たような手口で俺を庇う生徒を転校させた奴がいた。お前は実家がそれなりの力があるから手を出せなかったようだが」

「……そんな奴いたっけ?」

「俺を虐める生徒のリーダー的な奴がいたろ。ヤクザの息子だった……城崎はじめって生徒が」

 福沢には心当たりが無いらしい。無理も無い。城崎は巧妙に自分は表に出ずに他の生徒を動かして将貴を虐めていた。福沢のように表に立って生徒会長として行動し、部活にも忙しくしていた生徒は裏の面々には覚えは鈍いだろう。城崎は福沢の眼の届かないところでいつも将貴を弄んでいた。

「不思議だったんだが、お前確か空手有段者だろ? どうして反撃しなかったんだ?」

「……自分が大嫌いだったから」

 過去形で使う将貴に福沢は安堵した。千歳のおかげだろう。それならばなおさら今の事態は良くない。

「今のままじゃ結城さんは壊れてしまう。お前、ちゃんとフォローしてやれよ」

「多忙すぎてなかなか難しい」

「お前な」

 城崎なら、おろおろする将貴を楽しみたいところだろう。それならばなおさら将貴は普通にしていなければいけない。千歳をどうしようが変わらないとわかれば諦めるはずだ。それにしてもどうして城崎はここまで自分に執拗なのかわからない。そこの所を将貴は疑問に思う。

 同性愛の可能性は無い。城崎は無類の女好きでいつも数人の女性とを引き連れていたぐらいだ。将貴自身もまっぴらごめんだ。でもそれに似たようなものがある気がする。虐める者は虐められる者が自分の思うように壊れていく様を楽しむのが普通だから、何の表情の変化も見られない将貴など面白くもなかったはずだ。反応が無いからこそ躍起になるその感情の奥底にあるものは、愛という感情に似ていると将貴は思うのだ。得られないと諦める将貴とは違い、城崎はより一層渇望したのではないかと。将貴と同じ部分を城崎が持っていて、それにいらだっていたのだと今の将貴は確信している。

「……佑太の秘書の柳田が、恐ろしい盗聴記録ファイルつきメールをくれた。人間って本当に怖いね」

「あのな、そんな話を今したいんじゃないよ! 千歳を気遣ってやれって言ってるんだ!」

 こいつは本当に千歳にいかれているんだなと将貴は腹立たしく思いながら、一方でうれしいという不思議な気持ちもある。

「気遣ってるよ。近いうちに決着をつけるから心配するな」

「そんな暇あるのか。29日から三が日はヘルプが必要なぐらい忙しいんだぞ」

「有能な副工場長がいるからな……」

 天使の笑みを浮かべる将貴に福沢は食って掛かってくる。自然に振舞えるようになった自分に、将貴は千歳に対する深い感謝が湧き上がってくるのだった。

 応接室を出た将貴はさりげなく品質管理室に目をやった。千歳はパソコンに向かっていて後姿しか見えない。あの細い肩や腕で千歳は将貴を今の世界に引き上げてくれたのだ。将貴は自分の机に座り、今こそ幸せにならねばならないと自分を戒める。そうでなければ自分は恩知らずで恥知らずの人間になり、完全に生きている価値など無くなってしまうのだ。

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