天使のマスカレイド 第41話
城崎はちっとも慌てずのんびりとしている。
「佐藤グループの御曹司の佐藤将貴君。高校の同期の久しぶりの再会なのにいきなりそれですか?」
「お前の今までの行動は、千歳のスマートフォン越しにレコーダーに録音してある。すでに鈴木たかしは警察に捕まったがお前はどうする?」
「はは。私はお金を回収しているだけですよ。そして救済処置をしていただけです」
「婦女暴行になるな」
「でも金の為に彼女は我慢していた。和姦ですよ」
そうだ、その通りだと千歳は唇をかみ締めた。城崎が千歳から離れた途端に、将貴の背後にいた朝子と陽輔が布団の上掛けで千歳を包み、隣の部屋へ移動させてくれた。朝子の目は同情に染まっていたが今の千歳にそれを見る余裕は無い。身体が震えて足に力が入らず、吐きそうで胸が気持ちが悪くてたまらない。一刻も早くどこかで横になりたかった。そんな千歳を陽輔が軽々と横抱きにして励ました。
「アパートに帰るよ。あとは将貴に任せておけ」
千歳は酷く疲れた顔で、黙って頷いた。
いっぽう、城崎は将貴の前でゆっくりと衣服を身に付けた。不遜な笑みは消えないままだ。
「このデータを千歳に返させている借金全額で買ってもらおうか」
「はあ?」
将貴の手にはレコーダーから抜かれた、チップのようなものがあった。
「千歳のスマートフォンにはすべて録音されていた。お前たちのやっている事は立派な脅迫罪や強要罪になると思うが。さらにひまわりカンパニーに対して威力業務妨害罪が適用される」
「まいりましたねえ。懐をさぐられたくないのは佐藤の家も同じでしょう?」
「同じじゃない。お前の方が圧倒的に不利だ。お前は佐藤と福沢の家と繋がっている、お前の家の対抗勢力を恐れていたはずだ。俺が一声かけるだけでお前は窮地に追い込まれる。……どうする?」
重い沈黙があった。今この部屋は佐藤グループの第二情報部……一種の攻撃部隊が包囲していた。あからさまに城崎に殺気を投げかけて恐怖心を煽ろうとする者までいる。やくざの若頭として生きている城崎にそれがわからないわけが無い。すぐに返答しないのは千歳に未練があるのと、虐めていた将貴に対して負けを認めるのが癪だからだった。ふてくされた顔で冷笑を浮かべ、城崎は将貴へ返答しない。
しかしその城崎の耳にカチリと撃鉄を起こす音が届くと、眼が剣呑な色に変わった。城崎の側の人間と一触即発の気配が漂う。城崎が連れてきているのはたった二名で将貴側はおそらくその三倍ほどだ。勝ち目は全く無い。
「こんなところで銃撃戦を起こしたら、そちらも危ないのでは?」
「やってみるか?」
将貴の眼に青い炎が燃えた。城崎は深いため息をついて両手を上げた。
「完敗ですね」
城崎はジャケットのうちポケットに手を突っ込んだ。顔色を変えない将貴の前で煙草を口にくわえ、ポケットから取り出したライターで煙草の火をつけ紫煙を燻らせた。
「お前が千歳にこんな企てをしたのは、彼女が俺の傍にいるからか?」
「まあ少しはあるかな。それに企てってなんだか嫌な言い方ですねぇ。愛そうとしただけでしょう?」
「千歳は望んでいない。あれは強姦だ」
「ふーん。で?」
普通の人間なら震え上がるドスが嫌に効いた声にも、将貴は感情を映さない青い目で城崎を見返す。城崎は舌打ちをした。
「ちっ。お前は相変わらずだな。叩こうが蹴ろうが水をぶちまけようが、何の表情も浮かべやしない。虐めを甘んじて受けて何も言わない。ストレス解消にちょうどよい様で最悪な奴だった」
「俺にとってもストレス解消だったからな」
「自分で自分を虐めて何が楽しい。馬鹿か。かといってあれ以上しようとすると見張りが居やがるからできなかった」
「柳田か」
「そ。あいつもみょうちきりんだった。じっと見てるだけで手助けをするわけでもない。かといってそれ以上を出来ないように視線だけで牽制してくる」
こいつの怖いところはここだと将貴は思った。普通の馬鹿なら加減などせずに思うがままに将貴をいたぶったはずだ。城崎の家は関東ではかなりの勢力を持っている大きなヤクザだ。それを傘に来てやりたい放題しなかったのは、己の立ち居地を正確に理解しており、それが周囲に及ぼす影響を読み間違えない処世術を持っていたからだ。
「千歳は俺のものだ。諦めてもらいたい」
「ああ? 何を寝言言ってるんだお前。御曹司があんな捨て猫と結婚するって言うんですか?」
「結婚と結びつくところがお前の面白いところだよ。普通は愛人とかなんとか言うと思うが」
「お前が愛人など作るとは思えないですからね。しかし変な趣味ですねえ……。顔は人並み身体は棒っきれ、家族は勘当されている、特別な才能などない女ですが?」
灰皿に煙草の灰を落とした城崎は、にやりと将貴に笑いかけた。しかし将貴は笑い返さない。
「才能が欲しくて人を愛するものかな」
「財産に容姿、将来の有望性は普通見るものでしょう?」
「足りないそれらが気にならないほど、千歳は素晴らしいものを持っている。お前もそうだから千歳を欲しいと思ったんだ」
「はあ? ついに頭がいかれましたか。私はあの頑固な女を屈服するところが見たかっただけですよ」
そこで初めて将貴が笑った。それは男の城崎でもわかる魅力的な天使の笑みで、女ならばたちまち魅了されてしまうものがあった。
「つまりはお前も千歳の真っ直ぐすぎる眼に惹かれたんだ。何をどうしようが心の底までは服従させないあの眼にね」
「眼、ねえ……」
「千歳は物の本質を正確に見る。そこには何の打算も無い。だからこそそれに惹かれた男は千歳が欲しくなるんだ。彼女の前には贅沢な生活も男からもらう将来の安住も無意味だ」
「似てない様で似てるんでしょうかね、佐藤佑太の夫人に」
嫌味を滲ませて城崎は反撃を試みる。まったくもって将貴も千歳もそっくりだ。いつもいつも真っ直ぐに相手の心の奥底にある核心を突いてくる。打算まみれの人生を送っている自分のようなハイエナにそれに立ち向かう術はない。千歳は体も心も弱っていたから付け込めた。彼女は異性愛をしらない女でそれに伴う感情をもてあましてそこに隙を作ってしまった。だからこそここまで追い詰められた。反面、将貴は嫌というほど異性愛というものを熟知している。そして想いを確信している今では愛は弱点ではなく美点だ。
「似ているといえば似ている。でも千歳には美留にはないものがある」
「ほう。男性経験歴でしょうか?」
「失うものが何もないという強さだ。その悲しみが千歳を強くさせた」
千歳が大事にしていたものを奪い去った城崎は黙り込んだ。
「お前には感謝しなければならないだろう。お前が千歳を追い込まなければ俺は千歳に会う機会など一生なかった。お前が俺を痛めつけ、自信を奪わせ、家から出るようにしなければ今の俺はない」
「は! 私はあんたが嫌いなだけですが」
「俺もお前が嫌いだ。もう二度と金輪際会いたくは無い。それでもこうして来たのは釘を刺すためだ。鈴木たかしと千歳は何の関係も無い。あいつを利用して千歳を得ようなどと思わないようにね」
部屋の空気は完全に将貴の発するものに支配されていた。気弱で内気な佐藤将貴はそこにいない。どう見てもそれは、父親の貴明が持っていた人を支配する王者であり、猛禽のように相手を引き裂く爪をちらつかせている。
城崎は背中を恐怖でぞくりとさせたが、それを表に見せるようなへまはしない。完全なる負けを認め、煙草を灰皿で押し消した。
「いいでしょう。商談に乗ります。千歳さんと鈴木たかしは何の関係も無い。坂本、借用証を」
襖が開き、やせ細った小男が手に持っている封筒を城崎に差し出した。城崎はそれの中身を取り出して将貴に見せる。将貴は黙って頷き、城崎にデータを手渡した。緊迫していた空気が少しだけ緩んだ。物騒な空気を放っているのはこの部屋だけで、他の部屋では笑い声や三味線の音までしている。
城崎は立ち上がって将貴を見つめた。
「自分を虐めて得たものはなんでしたか?」
「……お前達には悪い事をしたな。俺はお前達を利用した」
「二人とも何かを激しく求めていたのは確かでしょうね」
「ああ」
将貴が頷くと城崎は笑った。そして将貴の横を通り過ぎ様、小声で耳打ちした。
「私は結城千歳さんに負けたんです。貴方ではありませんよ」
城崎の部下二人が彼の背後に続いて部屋を出て行く。将貴はゆっくりと城崎の後姿に振り返った。わずかに哀愁を漂わせているそれは、城崎がおそらく本気で千歳を愛した証のように見えた。