天使のマスカレイド 第42話

 千歳はアパートへ連れて帰られた後、自分の布団で泥のように眠った。夢など見ないと思っていたのに次から次へといろんな顔が出てくる。たかしの人を小ばかにしたいやな顔。美しいキャバ嬢。怒る両親や兄。自分を励ます義姉。美留の優しい眼差しと王の目を持つ佑太、その父親の貴明。優しい笑顔の母親の麻理子。最後に将貴のいろんな感情を映し出す緑色の瞳……。

 それらは千歳の眼を通して心の中に送り込まれ、彼女の体の一部に変化する。そして何かの拍子に表に出てきて彼女に反省や喜びを促したりするのだ。

 いつかと同じように男の掌が千歳の額に触れた。その優しい温かさは千歳が知っているものだ。同時に今の千歳には恐れにもなる温かさだった。寝たふりをしようとしても、びくりと身体が震えてしまったので起きたとばれているだろう。千歳は目を開けた。やはり額に触れているのは将貴だった。

「……いくらなんでも寝すぎ。丸一日寝てたよ」

「すみません」

 優しい笑みの将貴を見るのが辛くて、千歳は開けられたカーテンの窓から見える雪を見た。吹雪になっているのか、かなり真っ白で山も田んぼも見えない。将貴がストーブをつけてくれので、千歳はゆっくりと半身だけ起き上がり。将貴に手伝ってもらってニットカーディガンを羽織った。

「怖かっただろう? 千歳は負けん気が強くても傷つきやすいから心配だ。もう少し早く踏み込みたかったんだが証拠にならないと止められてね」

「いえ……私は」

「我慢はもうしなくて良い。何もかも終わった。借金なんて元から無いし怖い男達ももういない。全部俺が決着をつけた。会社だってなんとかするから」

 いつからばれていたのだろう。千歳は将貴の顔をまともに見れない。きっと馬鹿だと思っているに違いない、たった10万円の為に身体を許そうとした人間だと蔑んでいそうだ。将貴は潔癖症なのだ。

 ドアをノックする音がして、陽輔と朝子が湯気の立つ何かを持って入ってきた。

「おかゆを作りました。どうぞ召し上がれるだけ召し上がってください」

「ありがとうございます」

 千歳が頭を下げると、朝子はあいまいな笑みを浮かべた。ゆっくり眠れたおかげか、スプーンを持つ手は震えない。おかゆはわずかな塩味とだしが効いたおいしさで、千歳は思わず顔をほころばせた。朝子の心遣いが伺える。将貴のスマートフォンが胸ポケットで鳴り、将貴が部屋を出て行った。

「あの、いろいろと誤解していてすみませんでした。もっと早く謝りたかったんですけど、決着するまで言うなって将貴さんに止められてて……ひどい事を沢山言いました。本当にすみません!」

 戸が閉まったとたんに朝子がカーペットに頭をこすり付ける勢いで手をついた。陽輔も頭を下げる。千歳は思わずおかゆをむせさせてしまい、慌てた朝子が一生懸命に背中を摩る。おさまると朝子はちいさく謝ってから続けた。

「私、将貴さんが初恋だったんです。凄くきれいで優しくて夢に見た王子様そのものだと思いました」

「……王子」

「でも将貴さんには忘れられない美留さんが居て、私、一度東京へ行っておみかけして、敵わないと思いました。千歳さんもご存知でしょう? 美留さんて本当に女らしくて素敵な方でどう逆立ちしても私みたいな田舎女が勝てるわけが無い」

 同じだと千歳は思った。自分だって美留にはとても敵わないと思っている。

「だから……だから、将貴さんの隣にいるのは美留さんを越える人で無いと許せないと勝手に思い込んでました。千歳さんは美留さんと正反対で全然駄目だと思って、しかもそのくせ幾人もの男の人を相手にして汚いと思って、みんな私の誤解なのにひどい事を言いました。人の親でもあるのに私は取替えしがつかない事をするところで……」

「いいんです。私は実際汚いですから」

 肯定する千歳を見て、ますます申しわけなさそうな顔を朝子はした。そうさせてしまったのは自分だと思い込んでいるのだ。そうじゃないと千歳は左手を振った。

「私はあっさり男に騙されて、家族を巻き込んで迷惑をかけたんです。汚いし馬鹿ですよ。美留さんみたいに女らしくもないし可愛げも無い。だから、佐藤社長は安全牌だと思ったんでしょうね」

「安全牌?」

 陽輔が意味がわからないという顔になり、千歳はくすくす笑った。

「私、将貴さんの写真を見ても本人を目の前にしても、王子だとか夢をふくらませやしなかったの。ふうん、綺麗ね。そう思っただけの可愛げのない女なの。誰だってかわいいなんて思わないわ」

「…………」

「だから朝子さんが悪いんじゃない。私、たった10万の為に好きでもない男と寝ようとした」

 朝子が反論した。

「だってあれは相手の男が最低じゃないですか。全額取られたら誰だって必死になりますよ。しかも言う事聞かなかったら将貴さんとか会社を盾にしてたんですから、千歳さんみたいな方だったら言う事聞くしかないじゃないですか」

「うん……、だから私は将貴さんにふさわしくないの。御曹司の相手は素敵なお嬢様でないと駄目なの。こんな私の存在で将貴さんの将来を傷つけたくない」

「そんなの……」

 さらに何かを言おうとする朝子を押し止め、千歳は空になったおかゆの皿を返した。

「私は朝子さんだったら良かった。陽輔さんみたいに愛されて子供がいる、素敵な家族でしょう? 私の見ていた夢そのものなの。だからお二人とも安心して四国へ帰ってください。私は近いうちにアパートを出るから」

「それって!」

「もう決めたの、でも将貴さんには言わないでください。優しいからきっと止めて来ると思うから」

 陽輔が首を横に振った。

「わからない。どうして好きあってるのに別れないといけないんだ?」

「……将貴さんの幸せな結婚が、今の私の夢なんです」

 千歳の目には真っ直ぐな強さが戻っていた。

 二人が部屋を出て行き、千歳は布団に入って天井に映る太陽の光を眺めながら、もっと早くこうしていればよかったのだと思った。将貴が素顔を晒した時、将貴が家族と話をした時、もう完全に自分の役目は終わっていたのだ。それでもまだ駄目な部分があるかもと思ってアパートに居続けたのは、将貴と離れたくないという未練のせいだ。

 人を愛するとやっぱり自分は馬鹿になるのかもしれない。たかしを好きになった時と同じように身の程を忘れてしまうのは、どうしようもない性格だなと千歳はため息をついた。

 ともあれ明日は引越しだ。新しい会社の寮は隣町にある。勤務は年明けからだった。

 翌日朝子と陽輔が将貴と千歳に頭を下げて、帰り路につくのを見届けた後、千歳は将貴が会社へ行くのも見送った。今日を逃すとおそらくチャンスは無い。世間では年末年始休みだが、食品工場には絶好の稼ぎ時で休みなどありえない。特別手当がつくほどの忙しい時期にはいるのだ。臨時のアルバイトがわんさか来ても間に合わないので、事務所や品質管理部もほとんどの時間をヘルプに出なければいけない程の……。

 退職届はキッチンのテーブルの上に置いた。荷物はひとつのキャリーバッグに収まってしまうほど少なかった。布団などは置いていくしかないがもともと千歳のものではない。居つく気はなかったので物は極端にないのだった。カーテンを閉めてひとつ息をついた後、戸を開けようとして千歳は首をかしげた。引き戸が開かないのだ。

「あれ? こんなにたてつけが悪かったのかなこれ」

 古いアパートなので引き戸が時々つっかえるように開く。にしても今の場合はびくともしない。まるで閉じ込められているような……。

「ごめんっ、千歳さん!」

 戸の向こうから何故か帰ったはずの朝子の声が聞こえた。さらにぎしりと音がして戸がびくともしなくなった。

「将貴さんが今日絶対に千歳さんが居なくなるから捕まえてくれって言ってたの! ごめん、やっぱりよくないと思って出て行く事を話しちゃった」

「そんな困るわ! 開けてください、それにトイレとかどうするんですか」

 何か大きなものを引きずる音がする。陽輔の声がした。

「大丈夫直ぐ将貴が帰ってくるから。そうしたらオレ達も本当に帰るし」

「陽輔さん、朝子さん!」

 引き戸を蹴り倒そうと試みて失敗し、反対に部屋の中に千歳は転がってしまった。重たい音が止まり、何かが引き戸の向こうに置かれたらしい。やられた……と千歳は脱力した。よく考えたらあの二人が千歳より将貴の味方であるのは間違いないのに、打ち明けてしまった自分は馬鹿だ。こういうところが駄目なんだとずんと落ち込んだ。

 それから数十分後将貴が帰ってきた気配がして、二人が帰ったのがわかった。にわかに緊張して千歳はどんな顔をしていたらいいのかわからなくなる。がたがたと廊下で何か大きなもの移動する音がして、かたりと引き戸が開いた。

「出て行こうとしていたんだって?」

 お説教モードの緑色の眼だ。まともに見返せないまま千歳は後ずさり、そのまま壁に背中をつけた。いつぞやの福沢と同じように将貴の両手が壁について囲い込まれてしまい、千歳は脅えた目で見上げた。

「なんで? 俺といるとろくな事が無いから?」

「そんなんじゃ……」

「城崎はちゃんと処理したからこの先千歳の人生に交わってくるなんて金輪際ないし、鈴木たかしは警察に引き渡した。余罪が沢山あって、二度と塀から出て来れないような事もしでかしていたらしい。複数の女性から被害届が出ているそうだ」

「……そ、う」

「千歳」

 緑色の眼に千歳が映っているが千歳が見ているのは自分の足元だ。好意を抱く相手のテリトリーに入れられて幸福以上の何者でもないはずなのに、どうしてこんなに脅えなければならないのだろう。答えはわかっているがそれを千歳は制止できなくなりそうで怖かった。自分は将貴にふさわしくないし、一緒にいるべきではない。そう思って、離れる決意をしたのにこのままではその決意が崩されてしまう。

「俺が嫌いになったの?」

「……嫌い」

 胸が痛むがこの際無視だ。

「それはお見合いをしたから?」

「そうね。将貴さんは自分勝手すぎるわ、好きと言ったくせに放置したり、そのくせ他の男と居たら連れ戻しに来たり、自分だけはお見合いをしたり……ひどいわ」

「あれは男女のお見合いじゃないよ。ペット同士のお見合い、佐藤邸で俺が飼ってたシベリアンハスキーの孫と相手のお嬢さんの家の犬のね。母さんが面倒をほとんど見ているとはいえ基本俺の犬だから行ったんだ」

「うそ臭い。そんなもの普通行かないわ。どうせ相手のお嬢様に乞われたんでしょ、逢いたいって」

「ああ、あちらはそのつもりだったみたいだな。でも俺は断った。好きな人がいるからと」

「また会う約束をしたんでしょう?」

「したのは母さんだ。いろんな手続きがあってね。俺は行かないしこれからも行かない」

「どちらにしても私には関係の無い話よ」

 いつしか千歳の視線の先は、将貴の顔の横の自分の部屋のカーテンに変わっていた。外はもう暗闇に覆われているようで、白地にピンクのかわいい花柄模様を照らしているのは部屋の照明だ。思えばこのカーテンは真新しい。引っ越してきた当時からあったが、おおよそ男の将貴が使うようなものではなかった。おそらく柳田辺りが買ったのだろう。

「私は借金も無いしたかしの心配も必要なくなったから、自由に生きたいなって思ったの。将貴さんはもう普通に生活できてるから、佐藤社長との当初の雇用契約にあった条件はクリアできてるわ。だから私は必要ないでしょう?」

「みんな千歳のおかげだ。お前のおかげで俺はここまで上ってこれた」

「仕事ですから、そうでなければ困ります」

「俺は仕事で千歳が一緒に居るだなんて、思った事は一度も無い」

 意外すぎる将貴の言葉に、千歳は思わず将貴の緑色の眼を見つめ返してしまった。思った以上に顔が近くにあり、治まりかけていた胸の鼓動がまた大きくなる。将貴の手が腰に下がり、千歳は将貴に導かれるままに部屋を連れ出された。廊下を歩き、リビングを通り抜けた先にある、一度も入った事も見た事も無い将貴の部屋に連れいられる。

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