天使のマスカレイド 第45話
少し離れて買い物しようとした千歳の目論見は将貴にはとっくにお見通しで、余計に引っ付かれる羽目になった。従って目立つカップルとしてスーパーでは定着しつつある。今日も店員達のからかい気味の視線が痛い。さっきなどはスーパーの入り口のベンチに座っている幼い姉妹にまで笑われてしまった。
「千歳、玄米買ってるけどまさか玄米ご飯を食べようとしてるのか?」
「いけませんか?」
テレビで玄米食が良いと言っていたのでやってみようと思ったのだが、将貴は渋い顔だ。玄米のパッケージの裏側を見て、うーんと首を傾げる将貴は何か思うところがあるようだ。そしてその玄米を棚に戻した。
「え? なんで戻しちゃうんですか?」
文句を言う千歳に将貴は声を潜めた。
「玄米はそのまま食べると余計に身体が悪くなるよ。アブシジン酸が含まれてるからな。アブシジン酸は発芽抑制因子で植物の発芽を調節するんだけど、これがミトコンドリアに悪影響を与えて低体温になりやすくなる。イコール病気になりやすくなる」
「えー? じゃあなんでそんなもんがまかり通ってるんですか?」
「すべて駄目とは言わないけど。発芽玄米ならいいよ、自分で発芽させた奴限定だけど」
千歳が発芽玄米を取ろうとしたのを止めて、将貴は笑った。もう! と千歳が頬を膨らませるとごめんと言ってまた笑った。ちっともごめんと思っているようには思えない。相変わらず声を潜めて将貴が説明してくれた。
「発芽玄米は乾燥させちゃうとまた発芽抑制因子が活性化しちゃうんだよ。だから自分で発芽させてすぐ炊飯しなきゃ意味ない……らしい。専門家の意見もいろいろなんだ。結局自分で答えを見つけるしかない。どのみち発芽させたほうが良いのは間違いない。させすぎも発芽毒が出るから駄目だけどそこまで育てる人もいないだろうし」
「……将貴さんていろいろ知ってるんですね」
感心した千歳に将貴は吹き出した。
「ネットで探したらいくらでも見つかる事さ。まあ……、どれが正しくて間違っているかなんてわからないから要注意だよ。とにかくそのまんま食べるのはおすすめしない」
「はーい」
「あと発芽させたいなら機械乾燥の米は駄目だね。天日干しで無いと」
「そこまで?」
もう将貴は魚コーナーへカートを押している。結局玄米は買わなかった。将貴は食べ物にはいろいろうるさく、レトルト食品はまず買わない。ドレッシングですら既成は買わないほどの徹底振りだ。
「昔ははさがけって言って稲を干してたんだけど、最近はコンバインで刈り取りとりながら脱穀して、それを乾燥機に入れて乾燥させてしまうんだ。そっちの方が効率が良いからね。太陽の熱は優しいけど、機械の熱は熱過ぎて米の命を殺してしまう。だから水につけても発芽せずに腐ってしまうんだ」
「へー……」
「ま、弁当会社の俺が言うのもなんだけど、基本自分の食べるものくらいは自分で作った方が良いんだろうな。だけど市販のものがあるからこそ家庭のものの大事さがわかるってのもある。結局どちらもあるべきだろう……ね」
そこまで言ってふいに将貴が背後を振り返った。千歳も振り返ったが人が少ない店内は誰も見ていない。からかい気味も店員の視線も今はなかった。
「どうしたんですか?」
「誰かじっと見てたんだ」
「いつもの事じゃないですか」
「見張るようなものだった。剣呑だったよ」
将貴は人の視線に異様に敏感だ。でも将貴はすぐにその怪しい人影を追うのを諦めて、そのまま精肉のコーナーへカートを押した。
「突き止めないんですか?」
「店の中でそれは迷惑だよ。ま、今日が初めてだから気のせいかもしれない。ごめんな、変な事言って」
千歳は不意にたかしや城崎を思い出して気分が悪くなった。あの二人を思い出すだけで手の先が冷たくなって胸が異様に痛くなる。年末のあの事件は今までの人生の中で最悪と言ってもよく、将貴が助けてくれなければ、今頃城崎の買った洋館とやらで苛まれる日々を送っていたに違いないのだ。
(こわい)
思わず千歳は前でカートを押す将貴の手を握ってしまった。驚いて振り返った将貴の緑色の眼で千歳ははっとした。
「え、と」
(うわああああっ。私ってば公共の場でいきなり手を握るなんて何しちゃってんの!)
慌てて離そうとしたのに今度は将貴が千歳の手を握りこんだ。ついでに自分のコートのポケットに入れてしまう。これはよくない。一時的に誰も見なくなっていたのにまた店員達の視線が復活してしまった。ほのぼのとしたからかいの声が囁いているのがわかる。
「あの、あの、ちょっと離してください……」
「自分から強請ったくせに」
「これにはいろいろわけが。怖かったんです」
「そうだね、それは俺の責任だものな。だからこうやっていれば安心だろ?」
「そりゃそうですけど」
千歳はもぞもぞと言い、将貴は心底おかしそうに笑った。笑ったとはいっても店内の音楽よりは小さいものだが、傍目にはバカップルだろう。こんなふうに注目されるのは苦手だ……。将貴は目立つのが嫌いだったくせになんでこういう行動をするのだろう。会社での突然の結婚宣言にしてもどうも理解できない。あの内気さはどこへやらだ。ひょっとするともともとはこういう性格なのかもしれない。
レジでの精算を終えてスーパーの出口に出てきた千歳は、入ってきた時に見かけた小学生と保育園くらいの姉妹がまだベンチに座っているのを見た。こんな寒い外で待っているより店内の方がいいのにと思っていると、将貴も思ったらしく、そしてこんな事を言った。
「あの子達、今の時間帯によくいるけど、親を見た事無い」
「なんですかそれ!?」
「……それよりあの子達の顔、誰かに似てると思わない?」
それは千歳も思っていた。やせぎすな細面の顔に一重のたれ目がちのあれは……。いつも千歳の前では能面の表情を変えない山本と重なった。
「二人の子持ちとは聞いていたけど、彼女はとっくに帰宅しているはずだ。でもこんなふうに子供をほったらかしにしているのは気になるね。なかなか本人に聞けるもんじゃないから困ってる」
言いながら将貴はその二人の前に立った。姉妹は将貴を知っているらしく顔を輝かせた。
「いつものおじちゃん、こんばんは!」
「こんばんは、あさひちゃん、ゆうこちゃん。今日も閉店までここにいるの?」
「……うん。お母さんお仕事が忙しいの」
「そうか。ここのお店のおじちゃんに言っておくけど、我慢できなくなったら絶対に言うんだよ?」
「大丈夫だよ。ありがとうおじちゃん」
「ありがとうっ」
幼い妹も同じように言う。山本の子供とは思えないぐらい二人は人懐こい感じだ。将貴が買ったばかりのパンと温かい紅茶を手渡すと、二人はとても喜んで受け取った。将貴は二人に手を振りその場を離れた。クラウンの前で千歳は幼い姉妹が気にかかって振り返る。二人は紅茶の缶を小さな頬に押し当てて笑っていて悲壮な雰囲気はない。でもそれが健気で切なくなった。
「もう夜の8時ですよ? あんな小さな子が外にいる時間じゃないのに、児童相談所に言った方がいいんじゃありませんか?」
「ここのスーパーの店長とは懇意にしている。彼が気にかけているから大丈夫だ」
「……いろんな知り合いがいらっしゃるんですね」
「お前本当に仕入伝票入力してたのか? うちに練り物や鮮魚や肉を搬入してくれてるのはここだぞ?」
遠い昔のようでいて半年も経っていない事務所での仕事を思い出し、千歳は恥ずかしくなった。今度こそ将貴は大声で笑った。