天使のマスカレイド 第48話
翌日、山本を見舞った千歳を出迎えたのは二人の姉妹の笑い声だった。個室に入っている親子三人は久しぶりの親子水入らずの時を過ごしているようで千歳は心から安心した。救急車で運ばれている母親に二人はしがみついて離れず、千歳は救急隊員に頼まれて二人を何とか言いくるめて引き離し、救急車へ同乗した。将貴は高瀬を警察へ引き渡し、事情聴取を受けるためにパトカーのあとをついてクラウンを走らせて行った。ずっと山本のそばについていた千歳のもとに将貴が戻ってきたのは夜空が東の空を紺色に変える頃だった。
高瀬はこの半年近く山本のアパートに住み着いて暴力を働いており、住民から苦情がたびたび出ていたらしいが、報復を恐れてだれも警察へ通報できなかったという。何より当の本人の山本が高瀬が居ないと駄目な女だったため、それが悲劇に拍車をかけたらしい。
「……今までずっとごめんなさい」
能面がはがれた山本はあきれ返るほど普通の女性だった。千歳は見舞いに持ってきた花を花瓶にいけながら首を横に振った。山本の顔の傷に当てられている包帯が痛々しい。幸い打撲はまだ軽いもので骨折もなく、あと二日で退院できるという。
「高瀬と結婚できたら普通の家族になれると思って、高瀬の言うとおりに結城さんを虐めてた。一方で佐藤部長に愛されてるのが許せなくて、完全に思い違いの嫉妬を抱いてた。だからこんな目に遭って当たり前なのよ」
「あの佐藤部長は……」
「皆気付いてなかったけどわかったわ。私そういうの敏感なの」
子供二人にジュースを買いに行かせて静かになった病室で、そう言って山本は自嘲した。点滴が細い腕に刺さっていてそれもまた痛々しい。
「結婚に失敗して、もうこれを逃したら終わりだと思って必死だった。高瀬さんに奥さんがいるなんてしらなくて……本当に私は馬鹿だわ」
「周知の事実らしくて、私達みたいな新入りはかえってわからなかったみたいです」
千歳はベッドの横のパイプ椅子に座った。天気が良くて部屋はとても明るかった。
「私、一度実家に帰るわ。反対を押し切って結婚して失敗して……意地でも帰らなかったけど、頭を下げて家へ入れてもらうわ」
「……実家は京都ですか?」
「そう。小さな老舗の料理屋やってる。そこを手伝うわ」
「そうですか……」
「貴女の実家はどこなの?」
山本の問いに千歳は口を噤んだ。言うべきかどうか悩んだが、今の山本になら言ってもいいかと思い千歳は本当の事を口にした。勘当されているから自分には実家などないのだと。
「……そうだったの」
「だから私、山本さんがその点ではうらやましいです」
「そうかしら」
初めて見る山本の微笑はとても優しいもので、義姉のあかりを髣髴とさせた。
「きっかけが無いだけだと思うわ。私はこんなみっともない形で帰ると決心したけど、お互い生きている限りもう一度許しあえる日が来ると思う」
「……でも、絶対に帰ってくるなって言われたんです」
「その時はね。だけど時間の流れが何かを変えるわ、永遠に同じなんてありえない、そうでしょ?」
そこへ二人が戻ってきた。りんごとサイダーの缶ジュースをお互いの手に持っている。山本はそれを見て、なんだってこの真冬にそんな冷たい飲み物を買うのだと呆れ、二人は病院は暑いからちょうどいいのだと甘えた声で文句を言った。ほほえましい親子の姿に羨望の眼差しを投げ、千歳はもう帰らなければと立ち上がった。
「本当に結城さんは帰れると思うわ」
病室を出かけた千歳に山本が言った。振り返った千歳に山本は聖母の微笑を浮かべる。
「私の予言は結構当たるのよ」
千歳はなんと言っていいのかわからず、手を振る子供達にも山本にもただ黙って頭を下げて病室を後にした。
待合室のベンチで待っていた将貴が千歳の姿を見て腰を上げた。会社がたまたま休みだった千歳はタクシーで行くからと行ったのだが、将貴は会社を休んでわざわざ市民病院まで車を走らせてくれたのだ。待合室を抜け、病人や見舞い客で混雑している病院のロビーは空気が悪く、二人は足早に外の駐車場へ出た。
太陽で溶けた雪を踏み潰しながら将貴が言った。
「高瀬はどうも余罪があるみたい。警察が言ってたよ」
「……城崎とつるんでた人ですからさもあらんでしょう」
それなのにもっと悪人であろう城崎は、警察の縄にかかる事無く娑婆を謳歌しているのだからやりきれない。千歳の心を読んだ将貴が、また人前だというのに千歳の腰を抱き寄せて引っ付いてきた。
「あいつはそれなりの報いをうけてるよ、いっそ刑務所の方がらくだと思うくらいのね」
「それならうれしいですけど」
恥ずかしくて千歳は顔をいつも通りに赤らめる。見舞い客だと思われるおばあさんがくすくす笑いながらすれ違っていく。小さな子供を引き連れた親子もじろじろと見る。このままではこの地域の有名人になるのではなかろうか。
「あんまり引っ付かないでくださいよ」
「婚約したのに」
「はいはい」
「指輪を買いに行こうと思ってるんだけどさ」
「いりませんよ。無駄遣いですから」
なんで病院帰りに指輪を買いに行くのだ。思考回路がロマンティックじゃない。やれやれと千歳はため息をつきたくなった。
「千歳の誕生日っていつだっけ?」
唐突に思い出した様に言う将貴に、千歳は内心でぎくりとした。忘れていた自分はどうかしている、このへんで自分が女子力が足りなさ過ぎるのを実感する。
「将貴さんはいつなんです?」
「俺? 俺は5月7日だけど、それで千歳は?」
「へー……5月生まれなんですか? おうし座ですね、やっぱり頑固なんですか?」
「千歳、なんではぐらかすんだ?」
やっぱりごまかされないかと千歳はがっくりとした。でも違う日を言っても仕方ない、よく考えたら履歴書などで調べたら直ぐばれる事だ。
「……1月21日です」
ざしざしとみぞれになった雪を踏んでいた将貴の足が止まった。ああもうどうにでもなれと千歳は思い、こう付け加えた。
「まあどうでもいいじゃないですか誕生日なんて。ね?」
「今日じゃないかそれっ。なんで教えないんだよ!」
「忘れてたんですよ。忙しすぎて」
「信じられないよもう! 急いで帰ってご馳走をつくらないと」
案の定将貴は慌て出した。これが申し訳ないから放っておいて欲しいのにと、千歳は後悔に駆られた。それでも将貴の言う事を聞いたほうが良いとクラウンに乗ろうとして、誰かが走ってくる足音に振り返った。黒のジャンパーに灰色のスラックスの初老の男だ。その男は千歳と同じようにクラウンのドアを開けかけていた将貴にいきなり掴みかかった。
「貴様っ、一体千歳のなんなんだ!」
「……は?」
将貴も千歳もいきなり出現した男に呆気に取られてしまう。でも千歳はその男に多分に見覚えがあった。うそだ、ありえない。でも現実にここにいる……。
「答えろ! べたべたしやがって。こいつはまだ嫁入り前の娘なんだぞ! この前から見てりゃどこでもかしこでもべたべたべた、何様のつもりだ貴様。しかも一緒のアパートってのはなんなんだ。あたら綺麗なその面で千歳をだましやがったな」
「あの……」
「止めてよ、お父さん!」
当惑している将貴の目が緑色に変わった。
将貴のロングコートを胸の辺りで締め上げている男……、実の父親を千歳は必死に引き離そうとした。ただでさえ通行人にくすくす笑われているのに、このままではギャラリーがさらに増えてしまう。しかし父親は将貴を締め上げる手を緩めない。
「うっせえ、黙ってろお前は! お前はまた騙されてんだ」
「待ってって言ってるでしょ!」
突然の父娘の再会に将貴は唖然としたまま、千歳は恥ずかしくてたまらず、父親は怒ったまま……。
(ああもう! 一体何がどうなってんのよ)
千歳は泣きたくなって青い空を見上げた。