天使のマスカレイド 第52話

 ほぼ一年ぶりの故郷だった。将貴が運転するクラウンに乗り、見慣れた町並みが見えてくるに従って、千歳は懐かしさとともにその優しい物が果たして今までどおり受け入れてくれるかどうか心配になってきた。小さな田舎町だ。千歳の事件はあっという間に広まったに違いないし、面白おかしくねじ曲げられて家族達を今も苛んでいるかもしれないのだった。そんな千歳の心内を知って将貴がいろいろと明るい話題を振ってきてくれるのだが、千歳はそれに曖昧な返事しかできないでいた。

 今日は朝からよく晴れていい天気だった。千歳の帰省に天気が合わせてくれたのか、数日雨が降って積もっていた雪を綺麗に溶かし、昨日から明るい太陽が出てまるで一足先に春がきたのかと思わせるような陽気になっていた。

「この角を曲った奥だよね?」

 将貴がナビを見ながら言うのに千歳は頷いた。

「ええ、あの、木の塀がある家です……」

 何度も何度も夢に見た自分の家を目にして千歳は胸が詰まった。袋小路の一番奥にある千歳の家はともすれば迷路の到達点にも思える。そこで見覚えのある人影が立っていて、それが義姉のあかりであるのをすぐに見て取った千歳は、クラウンが止まった途端にあかりの前へ走り出た。

「お義姉さんっ」

「千歳ちゃん、よく帰ってきたわ……。待っていたのよ?」

 変わらないあかりの優しい笑顔に出迎えられて、千歳は何も言わずにその両手を握った。車の音を聞きつけて、家の中から父母や兄も出てきた。一年しか経っていないのに、まるで何十年も会っていなかった家族であるような錯覚を千歳は受けた。出て行けと辛そうに言った兄の徹郎は申し訳無さと再会のうれしさが透けて見える微笑を浮かべていたし、それはこの間会った哲司も同じだった。母の美好は相変わらず中年太りしており、大地を思わせるような頼もしい笑みを浮かべていた。

「おかえり千歳」

 それは学校帰りの時も、会社から遅く帰ってきた時も変わらずに言ってくれた言葉だった。でも今言葉を発したら感情のままに意味不明の単語を並べてしまいそうだったので、千歳は何も返さないまま家族を見つめた。皆待っていてくれたのがよくわかる。しばらくそのままあかりの両手を握っていたが、動かない物言いたげな家族の視線の先にいる婚約者の将貴の存在をやっと思い出し、慌てて将貴に振り向いた。将貴は良かったねという微笑を浮かべて再会を見守ってくれていた。哲司が口を開いた。

「よく来たな佐藤さん」

「お誘いに応じてこうして挨拶に伺いました。」

 将貴がしっかりと頭を下げた。

 家の中は何も変わっていなかった。そのまま応接間に通された千歳と将貴は、哲司と美好に改まって二人の結婚の許可を申し出、二人から幸せになりなさいという言葉をもらった。先日の哲司の勢いを覚えていた千歳はあっさりと許可を出した哲司に拍子抜けしたが、あとで姉のあかりから、それは将貴の人柄を知るための計算だったのだと知る。

 あの城崎から将貴の存在を聞かされた哲司はあかり達が止めるのを聞かずにアパートへ向かったらしい。そして夜遅くに帰ってきて、待っていた美好とあかりと徹郎がどんな様子だったかと聞いても、一升瓶からグラスに酒を注いで一気に飲んだ後面白くなさそうに千歳は元気だったと言うだけで、次の日もその次の日も同じような様子だったのだという。哲司の態度で、てっきりまた千歳がおかしな男に引っかかっているのではないかと三人は心配になり、そのような男だったら連れ戻さなければいけないのではないかと哲司に言うと、勝手な真似をするなと怒り出したりしたため、数日間は心配でどうにかなりそうなほど三人は困り果てていたのだという。

「そしたら千歳の誕生日にケーキを用意しろ、プレゼントを用意しろっていうんだからね」

 美好が笑った。それで、徹郎も美好もあかりも、どうやら千歳と同棲しているのはまともな男らしいと安堵できたらしい。

「一体全体どこで見張ってたのよ……」

 千歳が呆れた顔で言うと、哲司はムスッとした顔で、

「そんなもん、あの寒い中外でずっとだ。クラウンから降りてきたお前が、運転してたやけに綺麗な男とアパートに入っていくから、まーた悪い男にだまされてやがると飛び出そうとしたらな、お前らの向かい側の部屋に住んでる爺さんが、見張ってた俺を不審げにまた見張ってたようで窓からこう言いやがったんだ。おしどり夫婦の二人に一体何の用だ? 仲の良い二人の邪魔しに来たのならアパートの住人一同が許さんぞってな」

「……どれだけ長時間待ってたの?」

「ざっと四時間ぐらいだ」

 よく警察に通報されなかったものだ。あとでおとなりには何かを包んで持っていったほうがいいだろう。千歳は痛むこめかみを押さえ、隣の座布団に座っている将貴が笑いを堪えているのを小憎らしく思った。ずっとくすくす笑いながら美好が玉露のお茶を空になった千歳の茶碗に注いでくれた。

「ずっと心配していたのよ。この人ったら、千歳を勘当してからずっと機嫌が悪くて大変だったわ。愛娘を追い出すなんて辛かったに違いないもの」

「余計なことを言うな!」

 哲司が怒鳴り、ああ怖いと美好は肩をすくめた。相変わらず哲司は美好の手のひらで転がされているようだ。

「千歳の誕生日の日に自分のスマートフォンをじっと見入ってるから何をしてるんだろと覗きこんだら、千歳と将貴さんの写真画像を見てたのよ。隠し撮りまでして何考えてたのかしらね」

「俺はそんなものは知らんっ!」

「あらあ? ま、そうかしらね、ご丁寧に鍵かけてまでこっそりだものね」

「勝手に言ってろ!」

 顔を赤くした哲司はトイレにいくと言って、座を立った。哲司のやっている事はヘボ探偵のようであり、あきらかにバカ親だ……。呆れるほど昔通りの我が家だ。だが千歳にはわかっていた。美好の気遣いなのだ。二人が緊張しないように心を尽くしてくれているのだ。改めて千歳は感謝したい気持ちだった。

 挨拶に来ただけだからと二人が帰ろうとすると、久しぶりの帰郷でもあるし、そうしてもらうつもりだったのだからと美好とあかりに強く引き止められ、二人はそのまま泊まる事になった。普通は泊まるものではないのだが、家族に懇願されるように言われると帰るわけにも行かず、将貴は用意された客間に、千歳はそのまま残されていた自分の部屋に布団を用意された。将貴はどうやら哲司と徹郎の二人にとっつかまって酒の飲み合いをさせられるようだ。千歳達があれやこれや近況を話し合う間も将貴はずっとうれしそうにしており、家族も将貴をひと目で気に入ってくれたようで千歳はほっとした。一方で一緒に寝られないのが残念だなと思う自分に苦笑した。

 久しぶりのお部屋に行きましょうよとあかりが言ってくれ、千歳は二階へ続く木の階段を昇った。二階の一番端が千歳の部屋だ。引き戸を開けながらあかりが言った。

「そのままにしてあるのよ。いつ千歳ちゃんが帰ってきてもいいようにって、私とお母さんとで毎日掃除をしていたの。引き出しとかは開けてないわよ。服はクリーニングしてしまってあるわ」

 千歳は一年ぶりの自分の部屋を改めて見回した。毎日掃除してくれていたおかげで部屋の空気は前と変わらない。千歳はうれしくてまた胸が一杯になり、黙って義姉に頭を下げた。あかりは千歳の舐めた苦労に比べれば全然大した事はしていないのだと言い、それよりも嬉しい報告があるのだと微笑んだ。

「それは……」

 あかりがお腹をずっとかばうようにしていたので千歳はうすうす感づいては居たが、違うと気まずくなるので敢えて千歳はそれを口にしていなかった。あかりは自分のお腹を毛糸玉を撫でるように柔らかくなでて、しっかりとうなずいた。

「あれからまた、すぐに妊娠したのよ。もう5ヶ月になるの」

「……おめでとうございます」

 どうしてこうも嬉しい事ばかりが起こるのだと、千歳は緩みがちになった涙腺をまた自覚した。

「徹郎も私も、あの時流れた子が戻ってきてくれた。すぐに戻ってきてくれたんだと思ってるわ。だから、もうあの時の事は気にしないでね」

「でも、あれは」

「あの城崎って人が、その件で私に頭を下げたのよ」

「ええ?」

「将貴さんと千歳ちゃんの事を言いに来た時に、こっそり呼び出されて、徹郎と一緒に警戒していたら謝罪されたの。びっくりしたわ」

 びっくりしたのは千歳の方だ。あの男が人に頭をさげるなど天地がひっくり返っても有り得ない。ふふとあかりは意味深に微笑み、口をあんぐり開けている千歳にこう言った。

「あの人、千歳ちゃんが好きだったんじゃないかしら?」

 冗談はほどほどにしてほしいと千歳はげんなりし、思い出したくもないのに現れてくれる城崎の怜悧な美貌にいい加減に出て行ってくれと思いながら、部屋の片隅のシングルベッドにふらふらと座った。

「お義姉さん、人が良すぎるわ。あいつがどんな事をしでかしてくれたか忘れたわけじゃないでしょ?」

 同意してうなずきながらもあかりは微笑む。

「ええ、忘れないわ。でもこれも事実なのよ。あの男は千歳ちゃんに恋をした。そして自分のやった取り返しの付かない失敗を、少しでも千歳ちゃんから消したいと思ったのも事実なのよ」

「でもあいつは……」

「完全にすべてが悪い、どこから見ても悪人だという人間なんていないわ。どんな人間にも善の部分は必ずあると私は思いたいの。私も徹郎も流産の原因を作ったあの男は許さない。でも、千歳ちゃんのためにわざわざ来てくれたのには感謝してるわ。そうでなかったら私達だけでは探しようがなかった。一度決めた勘当をなかった事にするにはきっかけがどうしても必要だったのよ」

「……うん」

 あかりが許すというのなら許さねばと千歳は思った。でもそれと工場での幾つものハプニングや将貴の地位を脅かそうとしでかしてくれた事はやはり別物だととも思う。それでも今のこの幸せのきっかけを作ったのが城崎だというのなら、その行動だけには感謝しなければならないのだろう。

 すべてはつながっている。後戻りが決してできないのが生きていく上での厳しさだ。自分の選んだ道が危険と暗闇に包まれた孤独な道だったとしても、ひたすら進まなければいけない。これがこれからは一生ずっと続くのだ。つい最近までずっとそう思っていた。でも今は、辿り着いた先が美しい花園だったという気分だ。途中で諦めてしまったかもしれない人生という旅路を、千歳はあかりの幸せになってほしいという言葉を支えに生きてきた。それが守札のようにくじけそうになったり、もう駄目だと倒れた時も千歳を励まし続けてくれた。おそらくはその言葉は哲司も美好も徹郎も言いたかったのに、敢えて飲み込んだ言葉に違いなかった。窓から懐かしい近所を眺めている千歳に、背後からあかりが言った。

「佐藤さんはとても素敵な男性ね。暖かで誠実そうだわ。千歳ちゃんもやっと本当の伴侶に出会えたのね」

「…………」

「千歳ちゃん、今、幸せ?」

「とても幸せです」

 千歳は振り向き、はっきりと笑顔で返した。

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