天使のマスカレイド 第56話

「離して!」

 美留が佑太の腕を振り払い、びっくりしている将貴と千歳の方へ後ずさった。嫋やかな美留の恐ろしく冷たい雰囲気に、千歳は自分に言われたかのような錯覚を受けた。見上げる将貴は厳しい顔をして事の成り行きを見ている。

「まるで僕が悪人みたいな態度だな」

 佑太は妻を睨みつけ、将貴と千歳も同様に睨んだ。

「何がどうなっているのかわからないが、廊下で喧嘩は良くないのではないか?」

 将貴がそう言うと、佑太は爆笑した。

「ははは! そうだよな、兄さんはいっつもいい子で僕はわるい子だ。父さんの言いつけに逆らうなんてありえないんだ。どこで人の目があるかわからないこの邸で、自分をさらけ出すような真似はするなってね」

「そうじゃ……」

「でもさあ、その優等生の化けの皮は直ぐ剥がれて劣等生になったっけ? いじめられっ子で普通レベルの高校に落ちた将貴君はさ?」

「それとこれは関係ないだろう」

「関係あるさ! 兄さんは逃げてばっかりだ。不味い事があるといつも部屋に閉じこもって放ったらかし、甘やかされて育った兄さんはそのしわよせがどこに来るのかわかっちゃいない」

 美留が、痛烈な皮肉を言われて顔を歪めた将貴を庇うかのように、佑太との間に立ちはだかった。

「どうして私達の事で将貴さんを非難するの? 何かを将貴さんがしようとするたびに、邪魔していたのは佑太でしょ」

「兄さんのやり方じゃ手ぬるいからだろ? 父さんだって僕のやり方を支持した」

「だからって」

「ああ、お前はそんな兄さんに見切りをつけて僕を選んだんだっけ? 自分にだけは優しいと思ってた僕の悪魔な正体を悟るのが結婚後だなんて、才女と言われたお前も案外馬鹿だよな」

 あんまりな言い方の佑太に千歳はムカムカしてきた。そんな千歳に佑太が視線を移してニヤリと笑った。

「なあ結城さん? 結城さんがひそかに恐れてた美留って女はこんな打算的で汚れた女なのさ。見かけは頼りなさそうで儚げで、男から見たらたまらない魅力を放つ女だけど実態はこうさ」

「……そうは見えませんけど?」

「へーえ? じゃあどう見える?」

 佑太が挑むように一歩進んだ。将貴が気遣うように千歳を見ているのがわかるが、千歳はまた泣きそうになっている美留をこんな言い方で傷つけるのが許せなかった。

「佑太さんが悪魔だとわかってても、愛してくれる人だと思うわ。きっと誰もが佑太さんを見捨てても美留さんだけは味方なはずよ」

 美留が黒髪を翻らせて千歳に振り返った。誰も知らない筈だったのに秘密がばれたとでも言うように、その黒い目は揺れて千歳を見つめた。

 千歳はずっと美留には佑太はもったいないと思っていた。意地悪な上、兄を小馬鹿にしていて、何もかも自分中心に世界が回っているかのように思っているところや、またそのように人を動かしているのが鼻について仕方がなかった。

 美留が佑太の言う、将来の有望さや財産で配偶者を選ぶような打算的な女にはどうしても千歳には見えない。城崎に借金の取り立てで追われていた頃、男を誘惑して男の金で多額の借金を返済しようとしている女達を沢山見た。

 男が札束にしか見えていない女、大人しいと見せかけてしたたかに男の金を絞り取っていく女。反対に男を捕まえるのに失敗したり、騙されてさらに借金を背負う女も居た。

 将貴が美留は自分を大好きな兄の代わりにしていただけだと言っていたが、将貴を見る美留の目に謝罪が散らついている事から、美留は将貴を愛していたと思われる。打算的な女ならそんな目は絶対にしないし、したたかな女にしては佑太を操れていない、またそんな行動も見受けられない。だから美留はそのどちらでもない。

「佑太さんの子供を産んでくれた人を、どうしてそんなふうに言うんですか? 佑太さんが愛した人は愛してもいない男の子供を産める人なんですか?」

 佑太の笑いが爆笑に変わった。狂ったように笑った後、佑太は怯える美留の腰を抱き寄せて頬に口付けた。こんな場面で無かったら愛妻家の男に見えないでもない。しかし、佑太の目はめずらしくひどく傷ついていた。

「そんなふうに言われても仕方がない女なのさ。知らないようだから教えてやるが、この女は僕の子供が欲しくなくて昨年まで僕に隠れて避妊してたんだ。これでも僕を愛してると言えるか?」

 千歳は絶句して、辛そうな顔の美留を見つめた。何も言わないのはそれが事実だからだろう。式をあげていないとはいえ、入籍した夫婦であるはずなのにどうして避妊の必要があったのだろうか。

「病気とか……身体が弱いとか」

「どちらもないさ。兄さんだってそれはよく知ってるはずさ、美留は兄さんより健康体なんだからね」

 将貴は先程から何も言わない。明るみに出た事実を整理しようと苦心しているのがわかる。将貴も美留の行動が信じられないのだ。

「ずっと子供ができなくて検査までした。だがこの女は医者を抱き込んで僕を騙した。何故だと思うだろう? 僕は信じたいと思ってた。だがな、その美留の持ち物の中に兄さんが美留に贈るはずだった婚約指輪があったりしたらどう思う?美留が本当に好きなのは未だに兄さん、あんたなんだ!」

 誰も通らない廊下で佑太の叫び声が嫌に反響した。子供が親を責めるような言い方をする探偵がいるのなら、今の佑太がまさにそうだった。低い嗚咽を美留が漏らしても、佑太は震える肩を優しく抱きしめるどころか、乱暴に掴んで引き寄せた。

「どうだ? 僕が一番間抜けじゃないか? さあ兄さん……美留に想われ続けていたと知った気分はどうだ? 今直ぐその結城さんを捨てて、僕のおさがりで申し訳ないが美留と結婚したら? 相思相愛で直ぐ子供も生まれるだろう」

「嫌な冗談だ」

 将貴の声は、昼間のように緊張を帯びてはいなかった。

「冗談ではなく、事実にできるさ」

「しない。俺は千歳しか愛せない」

「どう見ても美留がいい女だと思うけどね」

「そう思っているのなら、どうしてそんなふうに言うのかわからない。俺は千歳が最高の女だと思っている、それを他人になんか渡さない」

「福沢に渡したじゃないか」

「それは俺の過ちだった。もう二度としない。俺は、自分の愛する女をもう二度と離さないと決めたんだ」

「ご立派に成長あそばしたんだねぇ」

 言うだけ言って満足したのか、佑太は美留を促してエレベーターに乗り込んだ。自分達の部屋に戻るのだろう。千歳は美留が小さな声でごめんなさいと言うのを聞いたが、それが何に対する謝罪なのかわからなかった。

「将貴さん……」

 千歳は将貴を見たが、将貴は難しい顔でエレベーターを見つめていた。

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