天使のマスカレイド 第58話

 式は厳かに執り行われ無事に終わった。その後の大広間での会食は、厨房チーフの池山が期待してくださいと言っただけあって、すばらしいものだった。雪の中で咲く花をイメージしたというカクテルはうっとりするほどきれいなものだったし、オードブルから始まるチーフの創作料理もひとつひとつに慶事を指す食材が使用されていて、食べるのがもったいないと皆思った程だ。

 会食の時、千歳はウェディングドレスから薄いピンクのタイトなドレスに着替え、その御蔭で料理の一つ一つを丁寧に味わう事ができた。本気なのかよくわからない笑みを浮かべた佑太の他は皆本当に祝ってくれていて、一生の記念になる式だと千歳は深く皆に感謝した。

 義父の貴明も何も話さなかったが、機嫌良さ気に飲み物を口にしていた。

 会食は夕方にお開きになり、千歳と将貴は佐藤邸内の新しい自分達の部屋へ入った。前の将貴の部屋は残されるが、二人だと手狭な上ベッドがひとつしか置けないので、麻理子と貴明が改装した部屋を用意してくれたらしい。千歳はだらりと疲れた身体をベッドに投げ出して、軽く目を瞑った。

「お疲れ様。皆喜んでたよ」

 将貴が摘んだ飴を千歳の口に含ませてくれた。最近千歳がハマっているたんきり飴という素朴な飴で、こんな所まで気を使ってくれている将貴に千歳は頭が下がる思いだ。今日はとても周囲に気を配る余裕はなかった。しかし、美留も麻理子も美好も、花嫁は幸せそうに微笑んでいるのが仕事だから、それが気を配る事になるのだと、あかりの言葉と同じような言葉を言ってくれたのだった……。

「ありがとうございます……皆のおかげです。明日また改めてお礼をしたいですね」

「それ、そろそろ止めた方がいいね」

「何がですか?」

 ベッドがたわんで千歳の横に将貴が寝転び、意味ありげに微笑みながら飴で膨らんでいる千歳の頬を突いた。

「敬語。夫に敬語なんてどこのお妃様?」

「あ……そうですね」

「全然駄目。癖って怖いね」

「えーと、どうしましょう?」

「努力するしかないね。お兄さんやお父さんに言うみたいに話してみろよ?」

「……突くの止めてくれる?」

 さっきから頬を突く将貴の手が微妙に痛い。

「嫌。これからもっとすごい場所突くんだからいいだろこれくらい」

「……下品」

「どうとでも。我慢してたんだからいいじゃないか。千歳の実家が最後であれ以降怒ってやらせてくれなかったくせに」

「ここでも嫌」

「知らないなー」

 笑い顔の将貴の顔が迫り、口付けられるのと同時に飴を舌で奪い取られた。取り戻そうとすると舌が絡みあい、夕方から初夜になだれこんでしまいそうで、それが嫌な千歳は舌を引っ込めようとして失敗した。

「んん……」

 更に口づけは深くなりベッドに肩を押し付けられて千歳は動けなくなった。やられたと思った時にはもう遅く、服が脱がされていくのを止められない。どうしていつもいつもシャワーの前にやりたがるのか、千歳には将貴の性癖が理解できない。

「やだ……シャワー」

「千歳の匂いがついたままの方がいいんだ」

 結局そのまま押し流された千歳が開放されたのは、夜の八時半頃だった。ちゃんと起き上がれるところをみると将貴が加減してくれたようだ。本人は満足そうに絞った照明を片頬に浴びて眠っている。小憎らしくなって頬をつねってやろうかと一瞬考えたが、仕返しが恐ろしいので諦め、浴びたかったシャワーを浴びた。

「あ、髪飾りをお借りしたままだ……」

 麻理子から借りた髪飾りが洗面台に載ったままなのに気づいた千歳は、さっぱりして着替え、眠っている将貴をそのままに、一人で廊下へ出た。

 怖がりの千歳がこんな事ができるのは、今晩は夜通し照明がつきっぱなしだからだ。昼間のように明るいので人がいなくても全く怖くない。それに窓の外ではライトアップされた庭を楽しんでいる人達がちらほらいた。明日仕事が入っている人も多いだろうに元気だなと千歳は年寄り臭く考えた。

 それでも千歳は、エレベーターを使わずに階段を使って階下へ降りた。理由はエレベーターは鏡があるから嫌だ、鏡のない階段の方がいいという笑えるものだった。結局千歳は怖いのだった……。

 階下に降りた所で、千歳は貴明の部屋から出てきた麻理子に声をかけようとしてかけそびれた。麻理子の顔色はひどく悪く、千歳の居ない側を気にしていたのだ。しばらく経って医師と思われる白衣を着た男性が現れると、早くと小さな声で叫んだ。貴明の容態が悪化したのは間違いない、ちょうどそこへ千歳を探しに将貴が降りてきた。

「どこ行ったのか探したぞ? 怖がりのくせに今日はいっぱい照明がついて明るいから夜歩きするなんて、小学生みたいな真似……」

「それどころじゃありません。じゃない、それどころじゃないっ。お父様に何かあったみたい……」

「……行こう」

 将貴が歩き出したのと同時に、将貴がスラックスのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。誰からのものかわかっている将貴は、出ないでそのまま千歳を伴って貴明の部屋をノックして中へ入った。スマートフォンを手にしていた麻理子が将貴の姿を見てスマートフォンをテーブルの上へ置いた。

「早かったわね」

「そこに居たから……。佑太は?」

「貴方より先に呼んだけど。あ、来たわ」

 部屋に入ってきた佑太は将貴と千歳を見てむっとした。その後ろには美留も居て、彼女が静かに扉をしめた。

「おやおや、何かおこぼれに預かれそうだと思ったのかこういう時はお早いですね。結婚初夜だというのに大した根性だ」

「下品な事を言うのはおよしなさい!」

 麻理子が佑太を叱りつけた。佑太は肩をすくめ、医師が診察している貴明の元へまっすぐに歩いて行った。看護師達が医療器具をワゴンで運び入れてきて、部屋の中はものものしい雰囲気でざわついた。

「やっぱり父さんは……」

「ごめんなさい隠していて。本当は今朝からとても悪かったの。身体が痛んで辛いのに絶対に黙ってろって言われて、誰にも言えなかった」

 将貴に麻理子がそう説明するのを横で聞いていて、千歳は上に立つ人間ほど無理をするのものなのだと知った。それとなく聞いていると、目が霞んで殆ど見えなくなっている上、全身に転移した癌が恐ろしく痛むらしい。あれだけの意識を保って会話をできるのが奇跡としか言い様がない状態なのだという。必要ないと断って抗癌剤を使用していないので、病む速度がより早まったのだとも。

 ひと通りの診察をした医師は、看護師達にさまざまな指示をした後、麻理子に言った。

「よくありません。至急入院をと申し上げているのですが……」

「必要ない」

 医師の後ろからベッドに横たわっている貴明が言った。呼吸が弱々しかったが、それはいつも通りの貴明の声だった。

「最初から言っていたはずだ。私は病院で死にたくない。死ぬのならこの部屋でと」

「なんて事を言うの貴明!」

 不吉な言葉に麻理子が大声を上げた。それほとんど悲鳴のように甲高い声で、普段、マグマのように滾っている情熱が吹き出たようだった。千歳は恐ろしくなって将貴の腕にしがみついた。

「まだ佑太の結婚式が待っているわ。孫だって次々生まれるわ。そうしたら二人で楽しく老後をって約束したじゃない!」

「静かにしろ……、皆見ている」

 麻理子はそれで押し黙り、爆発しそうな激情を追い出すように深い溜息をついた。

「皆に話がある……」

 医師と家族だけが部屋に残り、貴明のベッドの周囲に集まった。

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