天使のマスカレイド 第59話

「佑太、……お前が先だ」

「なんでしょう?」

 やっぱり俺が先だろうというふうに佑太がチラリと将貴を見た。

「人目が有る所で喧嘩をするなと言ったはずだが、先日は前の廊下で将貴と喧嘩をしたそうだな。目上に立つ者は感情に流されるなといつも言っていただろう? 誰よりもわかっているお前なのにどうしてそんな真似をした」

 そんな話かと佑太は拍子抜けしたようだ。

「僕は兄さんのように、なんでもかんでも父さんの言う通りにはできません」

「当たり前だ。お前はお前で将貴ではない」

 まるで人参と大根は違うと言う口ぶりで貴明が言った。

「秘書の柳田から喧嘩の内容は聞いた。お前はどうしてもこの美留が将貴に心を残していると思い込んでいるらしいな」

「事実ですから」

「お前は将貴以上に美留に溺れて、真実が見えなくなってしまったようだ」

 苦笑する貴明に、馬鹿にされたと思ったのか佑太が顔を歪めた。

「父さんに何がわかると言うんです?」

「わかる。私も初めて人を愛した時そうなった。後先考えずに突っ走って、相手を困らせて、責めて、どうしようもないほど相手に溺れた。若い頃は麻理子に対してもそうなった。愛すれば愛するほど相手の心を際限なく求めてしまう。愛を返されてもどこか不安で信じられないのだ。そうして相手を困らせて疲れさせてしまう」

 消えかかっている命の炎を燃え立たせるかのように、貴明は息を懸命に整えた。

「美留がピルを服用していたのは、不妊治療のためだ」

「避妊薬を不妊治療に?」

 佑太は初耳なのか、本当なのかと言って美留に振り向いた。美留は伏し目がちに黙ってうなずいた。

「そうだ。ピルは避妊だけではなくホルモンバランスを整える為に飲むことが有る。飲み始めたのは五年ほど前からだ。当時会社は大変な時期だった、だから美留は麻理子と相談してお前に告げないと決めたのだ。知れば美留に溺れているお前がおかしくなるのは明白だったからな。どうやってそれを知ったのかは知らないが……」

 佑太は動揺しているようだった。また一滴点滴の雫が落ち、貴明が続けた。

「いずれにしろ美留は相当なストレスを持っていた。この家の主の妻になるのは、この家の重みに耐えられる女でなければならない。美留は不妊症になってしまう程懸命に家と、佑太、お前を支えたのだ。将貴ではなくお前をな」

「嘘だ……。だって美留は兄さんの婚約指輪を」

「あれは川に沈んでいたものを近所の子供が川遊びで見つけ、指輪に彫られている名前から美留のものだと気づいて持ってきてくれたものだ。それを見て将貴が受けた心の傷の大きさを知った美留が、おいそれと捨てられるわけがないだろう。恋人を裏切ったという罪を被ってもなお、自分を選んでくれた女の愛情を、どうして信じてやれないのだ?」

「そんな」

 よろめいた佑太を、そっと美留が支えた。美留は支えながら何度も何度も涙を拭っている。千歳はいつの間にか将貴に背後から抱きしめられていた。その腕は震えてはおらず、大切な宝を守るかのようにしっかりとしていて、千歳は黙ってお腹に回された将貴の手にそっと自分の手を重ねた。

「佑太。お前がずっと将貴に対して罪悪感を抱いているのは知っている。同時に将貴に理想の兄を求めているのも知っている。だがもうどちらとも捨てる時期だ。将貴は将貴にしかなれない。また将貴はお前を恨んだりはしていない……そうだな?」

 同意を求める貴明に将貴は頷き、佑太に深く頭を下げた。。

「すまない佑太。すまない美留。すみません父さん。すみません母さん。ずっと俺は皆を不幸にしていた、ふがいない俺を許してほしいとは思わない。ただ、謝る事しかできない」

 将貴の声には深い後悔と悲しみが滲んでいた。

「それは私も同じだ……」

 貴明がゆっくりと目を閉じた。深い疲労の色が見られ麻理子が貴明の額に手を当てると、それを気持ちよさそうにしながら貴明の顔は至福に輝いた。きらきらと輝くような、見る者が一瞬で幸せに浸れるような温かな笑みを浮かべ、慈愛に満ちた茶色の目がひとりひとりの間を彷徨い、最後に妻の麻理子に向けられる。

「将貴も佑太も、私には過ぎた息子だ。ここにいない咲穂も」

 貴明の眦から涙が一筋流れた。

「将貴を跡継ぎにしようとして本質を見抜けず、辛い境遇へ追い込んだのは私だ。その尻拭いを佑太にさせてしまったのもこの私だ」

「父さんのせいではありません、俺のせいです、俺がもっと早く意地を捨てていたらこんな事にはならなかった」

 将貴のせいじゃないと言って、貴明は再び目を閉じた。

「私のせいだ。私はお前がいじめに遭っている事を知っていたが、お前がそれを必死に隠しているのを知って何もしなかった。いや……できなかった、私が知れば……お前が壊れてしまいそうで……怖かったんだ。だが、……やはりあの時……助けるべきだった……」

「父さん」

 佑太の声に、息を切らした貴明の顔がわずかに歪んだ。

「佑太、お前は本当に優しい子だな……。兄……から何もかも奪ったという汚名を……着て……、皆やってくれた……私の代わりに……皆……」

 辛そうに言葉を続ける貴明を麻理子が止めようとしたが、貴明は佑太を求めて片手を差し伸べた。まるで子供のように佑太がその手を両手で握りしめると、貴明はありがとうと言った。

「皆……優しい子だ。お前達がいてくれたから、私は……幸せに死んでいける。皆、ありがとう……お前達は私の誇りだ」

「父さん」

 将貴が千歳を抱きかかえたまま貴明に近寄った。貴明は将貴にもぶるぶる震える手を伸ばし、将貴が佑太と同じように握り締めると頷いた。

「家族を……大事に、幸せ……に……な」

「お願い貴明。もう話さないで」

 麻理子の懇願に貴明は弱々しく首を横に振った。

「麻理子、お前は…………もっとゆっくりしてから……おいで」

 貴明はそこで力尽きたように意識を失い、医師が再び家族と場所を代わって診察した。眠られただけですという言葉にその場に居た一同はホッとした。

 貴明の前からの強い要望で病院へ入院にはならず、そのまま部屋で処置がなされた。その間に千歳の両親達も見舞いに来て、麻理子に挨拶だけをして再びホテルへ戻り、翌日帰っていった。

 病状が落ち着いたかのように見えても、それは気休めにすぎないと皆知っていた。滞在の期間中目に見えて貴明は弱っていったからである。

 親を気にして自分のやらねばならぬ事を後回しにしてはならないという貴明の言いつけもあり、休暇の最終日に将貴と千歳は後ろ髪を引かれる思いでアパートへ戻った。

 せめて佑太達の結婚式まで生きていて欲しい。そんな僅かな希望を二人は胸に抱いて過ごしていたが、それから一週間後の朝に佑太から、明け方に貴明の容態が急変してそのまま息を引き取ったという電話があった。あとほんの数日で60歳の誕生日だったという。

 その知らせを聞いた将貴は、一時間ほど部屋に篭って出てこなかった。

 葬儀はやはり盛大に行われた。千を超える弔問客が訪れ、喪主の麻理子が喪服で丁重に挨拶をしている。つい最近結婚式をしたばかりなのに、今度は葬式とは……という声がちらほらと聞こえた。将貴と千歳は先々週は二人で立っていた場所に花で飾られた棺桶が置かれているのを悲しく思った。献花台にひとりひとり花を添えていくのを見ながら、千歳は将貴や麻理子達の心中を思いやっていた。

 式は滞り無く行われ、最後に聖歌の合唱で締めくくられた。出棺の前に佐藤の一族や貴明の兄の石川雅明の家族、シュレゲールの一族が参加し、棺桶で眠っている貴明に花を添えていった。貴明の死に顔はとても安らかなもので、一見、無垢な子供のような表情をしていた。

「お父様……っ!」

 堪え切れずに涙を零した女性が必死に泣き止もうと頑張っており、その顔がとても麻理子に似ていた。佑太の双子の妹の咲穂だ。夫と思われる茶色の髪の白人男性が背中を撫でている。佑太が咲穂に優しげに何かを言うと、咲穂は何度も何度も頷いた。とても優しい佑太の顔は初めて見るもので、そんな顔もできるのかと千歳は妙な所で感心した。美留はそんな佑太の隣で同じように何かを囁いていた。見ている人間が辛くなる風景で、千歳は泣きそうになる自分を誰にも見られたくなくて裏庭に出たが、そこに先客が居た。将貴の従兄の穂高と見知らぬ白人女性だった。

「泣かないと頑張ってたようだが、無理だったか」

「すみません」

「咲穂だよ。ああ佑太の双子の妹ね」

「初めてお会いする方ばかりで……。あの、そちらのお方は?」

 穂高は千歳に頷き、女性を紹介してくれた。

「こちらは私の妻のエリザベート。エリザベート、こちらは……」

「ヴィンフリートの奥さんで千歳さんでしょう? 結婚式に出れなくて残念だったわ」

 気高い女王のような雰囲気に千歳は飲まれかけた。ヴィンフリートとはシュレーゲル一族の間で使われる将貴の名前だ。エリザベートは、西洋の貴族とはこのような女性を言うのかと思わせる上品さで、千歳に優しく微笑んでくれた。

「佐藤千歳です。初めまして……」

「ヴィンフリートもいい奥方を迎えたわね。良かった事。アクセル(貴明の事)もそれで安心して早くに行ってしまったのかしら」

 青緑色の目をエリザベートは曇らせ、形の良い唇をわずかに震わせた。

「麻理子が心配だわ。私達みたいに悲しみを全く見せやしない。佐藤家の女として素晴らしいとは思うけれど……」

「伯母さんは大丈夫さ。佑太達が居るんだから」

「そうね。それにしてもアルブレヒトお祖父様も、ナタリー伯母様も、圭吾伯父様も、もうちょっと待ってくれたら良かったのに」

 知らない名前がたくさん出たが、恐らく貴明の親族なのだろうと千歳は察しをつけた。そして開け放たれた教会の扉口から、棺桶で眠っている貴明に何かを話しかけている将貴に視線を移した。将貴を見る佑太は表向きの顔で、何を考えているのかは全く読めなかった。ただ優しさだけがわずかに漂っていた。

「千歳ちゃんは知ってるかな? 私の出自を」

「……あの、貴明お父様のお兄様の雅明さんの息子さんですよね?」

「表向きはね。本当の父親は今棺桶に眠ってる貴明だ……。私は将貴の異母兄になる」

「それって」

 千歳は息を呑んだ。くすりと穂高は笑った。

「不倫とかそんなんじゃない。私の母の恵美と貴明は恋人同士だったんだ。ちょっとした手違いで私が生まれたわけだけど、貴明はずっと私を息子とは認めなくて、最後まで雅明の息子として接したな」

 なんと返せばいいのか千歳にはわからない。

「……だからあんなふうに泣ける人間を羨ましく思うよ」

 実の父親が死んでも表立っては泣けない。自分とあの三人の間には分厚い壁が横たわっていると穂高は言った。

 こちらの方が暖かいからと、エリザベートが少し離れた場所にあるサンルームに千歳を誘った。真冬なのにガラス張りのその部屋は暖かく、色鮮やかな花々が咲き誇り、甘い芳香を放っていた。

「突然の事でびっくりしちゃったかな?」

「いえ、ただ……私に話していい話かと、それに将貴さんはこの事を?」

「私達を知っている人なら、大抵知っている事実だよ。自分からばらしたのは千歳さんが初めてだけどね」

 エリザベートがどこからか紅茶を調達してきて、部屋の真ん中にあるテーブルに置いた。紅茶と花の芳香が混じって心が優しく癒やされていくのがわかる。

「私をかわいそうな人間に思う?」

 穂高の問いに千歳はゆっくりと首を横に振った。紅茶を一口含んでソーサーに戻した穂高は、そうでなければ困ると穂高は言い、何度も頷いた。

「でもね、思春期の頃は一年間だけ荒れたんだ。ほら、学校ではどこかしら真実が漏れ聞こえてくるし、佑太や将貴が家に来るだろう? あの二人は美留と本当に楽しそうでさ、佐藤邸の父母の自慢をしまくるんだよ、それが当たり前なんだってな。今から思うと馬鹿らしいんだけど子供の頃って豪邸とか傅かれる生活に憧れたりするんだよね」

「そういうもんなんですか?」

「うん。まあそれでぐれてぐれて、母さんは泣くし父さんは怒るし、姉さんは激怒するしでギクシャクしてた。妹の美留が怒鳴る私より、優しい将貴に懐いたのも無理は無いさ……」

 日常生活というものは複雑に人の心が入り混じって動いていく。十分に幸せなはずなのにさらに多くを望み、却って幸せが遠のいていく事実を知る人間はどれ程居るのだろう。

「見かねた雅明父さんが私が十歳になる頃、お前の望みを叶えてやると言ってドイツのシュレーゲル一族……祖母の実家へ私をやってくれたんだ。私は有頂天だったさ、将貴や佑太に水をあけられたってね。傍目にも嫌な少年だったろう。そうしたらある日、このエリザベートが私を引っ叩いたんだ。何故勘当されていたはずのアウグスト(雅明)の息子のお前がここに来れたと思っている、アウグストや、お前の実の父親のアクセル(貴明)が一族に許しを請うてくれたおかげなのだと……」

「オットー(穂高)はわがまま放題だったのよ、皆注意したけど聞かなくてね。だからついカッとなったの」

 エリザベートが懐かしい思い出を語るように目を和ませた。穂高が微笑みながら、隣りに座ったエリザベートの重ねられた手を愛おしげに撫でた。

「あの貴明って人は、私に知られないようにあれこれ手を尽してくれてたんだ。一度も息子としては認めなかったけど、私が画家をやりながら企業経営なんてできるようになったのもあの人のおかげさ。誰もわからないように巧妙に隠されてたけど私にはわかるんだ」

 千歳はふと自分の家族を思い出した。家族が自分を勘当したのは、家に戻って近所の噂に傷つかないように配慮してくれたからなのだ。

「いいお父さんが二人も居て幸せですね」

「ああ、そう思えた時にこのエリザベートにプロポーズしたのさ。25も私が年下だからなかなか相手にされなかったけどね」

「2、25も? あてられちゃいますね」

 周囲の大反対を押し切って結婚したような深い愛情に、千歳は悩ましいため息が出る思いだ。穂高がくすくす笑った。

「佑太にもね、それがしっかり遺伝してるんだ」

「なんでいきなり佑太さんなんです?」

 いきなり夢物語から現実に戻され、千歳は思わず頬をふくらませてしまった。あの意地悪な佑太と優しい貴明のどこが似ているというのだ。貴明と最後の会話は聞いていたがどこかやっぱり信じられない。遺伝しているのは経営手腕ぐらいだろう、そう言うと穂高はそんなわけないよと笑った。

「そうら千歳さんは気づいてない。千歳さんを将貴に近づけたのも、将貴の病気が治ったのも、将貴がちゃんと経営できるのも、二人が結婚できたのも、皆きっかけは佑太の行動にあるはずだよ?」

「……でもあの人は」

「あいつが将貴から家を奪わなかったらどうなってたと思う? あとちなみに将貴に嫌な陰口を叩いてた連中を数年前に叩きだしたのも佑太だよ? 貴明に出来なかった事を皆あいつはやってのけたんだ」

 それで悪口が全く聞こえなかったのだ。

「どうして貴明お父様はされなかったんです?」

「権力者が子供可愛さにそういう事をすると歪みがひどくなる。だが佑太は若いからそれが未熟者だからという理由で許される……、権力を行使して邪魔者を追い出すのは中々難しいんだ。奴らは仕事だけはよく出来たし、世渡り上手で貴明も手が出せなかったんだ。でも佑太は汚名を承知で追い出した」

 千歳は何も言えなくなり黙り込んだ。穂高は千歳が思い込んでいる佑太像を破壊していく。本当の姿だと思っていたあの意地悪な態度や子供っぽさは、まだ仮面に過ぎなかったらしい。佑太はもっと奥深くに本当の自分を隠している。隠していなければたちまち足を掬われる世界に居るのだから。

「あいつは誰よりも将貴を大事に思ってる。だから本当はもっと立派な令嬢と将貴をくっつけたかったんだろうが、将貴がそれを望んでいないから、千歳さんみたいなタイプを探してたんだろうね。将貴に足りないものを補う女を」

「じゃあ、あの憎まれ口は皆演技なんですか?」

「さあ? 演技の部分なのか本気なのか、誰にもわからない。佑太の心は佑太にしかわからないさ。私は結果論を言ってるにすぎないからね。ともかく佑太は将貴を誰よりも大事に思ってる、それは確かだ。佑太は貴明よりやり手だから、将貴に千歳さんがふさわしくないと思ったら確実に引き裂いたはずだ」

「確実に……」

「千歳さんならわかるだろうが人間はなかなか本心など見せないよ。佐藤一族は特にそれが顕著だ。表から見えている姿や本当だと思った姿は見せかけに過ぎない場合が多い……、気をつけるんだね」

 目の前の穂高はそう言って千歳にも紅茶を飲むようにと言い、そろそろ出棺の時間だからと付け加えた。

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