天使のマスカレイド 第60話(完結)

 火葬された貴明の骨壷が祭壇に戻され、ようやく告別式は終わった。ひと月後に教会の隣のお墓に埋葬されるとの事だった。千歳と美留は麻理子を手伝い、弔問客を見送った。後片付けは従業員達が大わらわで行っている。一段落ついたのは夜の9時を回った頃で、麻理子が皆を労って解散した。

「お母様、お食事は召し上がれますか?」

「そうね……なにか食べたい気分よ」

 美留が麻理子を椅子に座らせ、千歳が用意されていた食事をテーブルに並べた。普段着に着替えた麻理子はひどく疲れきっていた。喪主として立ちまわっていたので疲労は想像できないほど蓄積されているだろう。美留が優しく言った。

「片付けは明日私がしますので置いたままになさってくださいね。おやすみなさい」

「おやすみなさい、貴女達もゆっくり休んで頂戴」

 二人は麻理子の部屋を出て、やっと本当に終了したと思った。廊下はもう節電が始まっており薄暗くなっていた。

「佑太さんはどんな感じですか?」

 いきなりそんな話をする千歳に美留は驚いて目を見開いたが、楽しそうにきらきらと輝かせた。

「かつてないほど上手くいってるわ。あれからうっとうしいくらい謝ってくるし、甘えてくるし……大きな子供みたいよ」

「……それはよかったです。すみませんいきなりこんな」

「いろいろ見苦しいところをお見せしたもの。ごめんなさいね。私達は愛し合ってるのにぎくしゃくしてたから」

 美留の顔は葬儀の手伝いで疲れていても、しっかりとしている。あの日には無かった揺るぎない自信が美留の中に芽生えているのがわかった。千歳は心の底から安心した。すると今度は美留が言った。

「将貴さんはどんな感じ?」

「佑太さんや皆さんと同じでお父様が亡くなられて落ち込んでますけど、家を出たらしっかりしてますよ。でも部屋でふたりきりになったら子供みたいに甘えてきます」

「うっふふ。同じでおかしい」

「本当に」

 二人でだらだらと廊下を歩いていると、手前の部屋の扉が開いて佑太が出てきた。千歳に気づくといつもの食えない笑みを千歳に向け、

「怖がりがこの先の階段を一人で昇れるのかな?」

などと一番恐れている事を言い、美留が、

「また意地悪を言って!」

と怒り、将貴を呼ぶために部屋の中へ電話をかけに行った。

 突然ふたりきりで廊下に残されるとやっぱり気まずい。だが黙っているのも何なので、千歳は気になっていた事をずばりと聞いた。

「……佑太さんが会社を奪ったのは、将貴さんの為を思っての事だったんですか?」

「はあ?」

 何馬鹿を言ってるんだと言わんばかりに佑太が千歳を見て、ついで大笑いした。戻ってきた美留が不穏な空気を察して注意しても、佑太はなかなか笑い止まなかった。ようやく笑い終わると佑太は言った。

「僕自身のために決まってるだろ? そんな甘ちゃんな事考えるような伴侶だと、兄さんのこれからが心配だな」

 穂高の話を聞いた後でもこのような態度を取られ続け、千歳はどうしても佑太の態度の底に将貴を大事に思う心が隠れているとは思いにくかった。佑太が見せつけるように美留の頬に口付けたので背後を振り返ると、将貴がこちらに向かって歩いてくるところだった。

「仮にそうだったとしたら、最愛の美留ぐらい奪っても罰はあたらないだろ……? じゃあおやすみ」

 そんな嫌味たっぷりの言葉と共に、ぱたんと扉が閉じられた。中からかすかに美留が怒っている声が聞こえたが、深刻な感じではなかった。千歳は深い溜息をついた。

「何を話してたんだ?」

「世界情勢」

 明らかな嘘をついて千歳は笑った。将貴は何も言わずに千歳の手を握ってくれた。言わなくても通じる何かが確実に二人の間には存在していた。

 部屋に入って二人は遅い夕食を食べた。それは厨房の池山の味ではなく将貴が作ったものだとすぐにわかった。

「池山さんのごちそうも好きだけど、やっぱり将貴さんの味が好きだな」

「俺も千歳の作った味噌汁とかが好きだよ。焦げた秋刀魚はいらないけど」

「もう焦がしてませんよ」

「ふふ」

 鰤の照り焼きは脂がしつこくて千歳はあまり好きではないのだが、将貴が作るとほんのりと香るゆずと脂が適度に抜けた身がとても美味しい。盛り付けからして無駄なものがなく、形よく薬味とバランスよく盛りつけられている。大根と油揚げの煮物も寒いこの季節にはうれしい。一緒に入っているはと麦のぷちぷちとした食感が千歳は好きだった。

「よくこんなメニューが浮かぶね?」

「ん? 適当だよ。もっときっちりとメニュー組める人は組めるからね。食材も思うようなのが無かったからなあ」

 千歳はありあわせの食材でバランスのあるものを作るというのが苦手だ。未だに本を見てメニューを決めないと料理ができない。

「整体観って言ったの覚えてる? あれはもう旬のものを食べるに尽きる。千歳、最近貧血じゃなくなっただろ?」

「そう言えば……」

「季節と食材と身体のバランス……、あと生活をプラスして整えたら元気なるんだよ皆」

「将貴さんも、お父様が亡くなられても元気ですものね」

「父さんが居ないのは辛いけど、父さんのくれた心は確かに俺の中に生きてるから」

「うん」

「……俺がこうして幸せなのは父さんが生きていた証だからな」

 ああ駄目だ湿っぽくなってきたと千歳は思った。将貴は落ち込むと際限なく落ち込むのでほどほどで切り上げないといけない。千歳は汁物を啜った。

「あー、この蛤と菜の花のお吸い物が癒やされます。酢の物やお漬物は池山さん?」

 計算通り将貴は浮上して呆れ顔になった。

「そうだけど。……ったく、いい事言ってるのに食い気なんだから」

「そういう将貴さんだって食べてるくせに」

 五穀米ご飯には大豆とひじきとしょうがが一緒に炊き込まれていた。薄味で噛みしめるたびに旨味がにじみ出てきてたまらない。今度作り方を教えてもらおうと千歳は思った。

 将貴が先に食べ終え、まだ食べられるならこれをどうぞと、りんごと赤い枸杞の実と蜂蜜を混ぜあわせたデザートを、静かに千歳の茶碗の脇に置いた。千歳は先にそのデザートをひとくち食べた。甘みと酸味が良いバランスで頭が染み渡るようで、疲れている千歳にはいい甘さだった。

「甘いー。癒されるー」

「うんうん。千歳は美味しいもの食べると幸せだよね」

 将貴が頷き、自分もそのデザートを食べた。

「これは父さんがよく作ってくれたんだ。……だから、寂しくない」

 デザートを懐かしむように愛おしむように見つめ、将貴は微笑んだ。緑色に染まった瞳からほろりと涙が滑って落ちた。あっさりと湿っぽい空気に元に戻ってしまい、そうね、大好きなお父さんだものねと千歳は将貴を包み込むように見つめた。

「……泣いたらお父様怒っちゃうよ?」

「今は寝てるからばれない」

 千歳は硝子の器を銀のスプーンで軽く叩く将貴に近寄り、流れた涙をそっと拭った。将貴の腕が回されて膝に抱き上げられた。

 強く抱きしめられて一瞬千歳は息が詰まり、将貴の背中を撫でて緩めてもらった。

「ありがとう。千歳が居てくれるから俺は……今こうしていられる」

「私も」

「うん……」

 重なったキスは甘酸っぱい味がした。

 

 それから二年の歳月が流れた。千歳と将貴は相変わらずあのボロアパートに住んでいる……。

 千歳は階下の住人の理絵とアパートの前の空き地で井戸端会議を開いていた。時々近所の家からも主婦が出てきて大きな会議になる場合もある。話しているのはやっぱり大した事ではない。それでもそれが人との繋がりを作る。まずい事件が起こっても井戸端会議で解決できたりするのだ。

 空き地には春の草花がそこかしこに生い茂っていて、小さな子供達がそれで花輪を作ったり、ただむしり取ったりするのに夢中になっている。

「やっぱり千歳ちゃんとこの方がかわいいわよね」

「理絵さんまたそれ? うちの子がちっこいからそう思うんじゃないの?」

「うーん、あれは将来イイ男になるわよ。葵と結婚してくれないかしら」

「年下よ?」

「構わないわ。いいわー千歳ちゃんちは旦那様も美形だし子供も美形だし、うちの芋と交換してくんないかな」

「またまた、旦那様とたべたしてるのこの間見ちゃったわよ」

 理絵のところの夫婦仲の良さは、千歳のところとタイマンを張れるくらいなのだ。

 千歳は自分にと草をむしり取ってきた長男の陽向(ひなた)からそれを受け取り、笑顔満面になるのを見てよしよしと自分譲りの黒髪を撫でてやった。陽向は顔つきがどちらに似ているのかさっぱりわからない顔で、将貴に見える時や千歳に見える時がある。黒い目なのを将貴がひどくうらやましがっていた。将貴は感情が思い切り瞳に出るのでやはり困っているらしい。  

「ねえ、あの旦那様のかっこいい弟さん一家はもう来ないの?」

「夏休みあたりに来るんじゃないかしら?」

「あの弟さんもいいのよねー。ああいう親戚が猛烈にほしい」

 本性を知ったらどうするのかなと千歳はやれやれと呆れながらも、普通が一番よとだけ言った。佑太は来るたびに高級食材をわんさか持ってくるので処理に困る。美留が頑張って選んでいるようでいらないと言えないのが困ったところだ。食べきれないそれを千歳が近所に配り回るので、そういうのが大好きな理絵には大歓迎らしい。

「あと工場長の福沢さんとか、とうとう結婚しちゃったのが悲しいわ」

「理絵さんは本当にミーハーですねえ……」

 福沢はこの4月に矢野と結婚した。矢野の猛攻撃に撃墜されたと工場内では評判だが、実際には矢野に骨抜きになっている福沢を思い出して千歳は微笑した。

 べちゃくちゃと話していると、将貴の白のクラウンが走ってくるのが見えた。千歳はそれを見て理絵と別れ、陽向を連れてアパートに入った。程なくして将貴が鍵を開けて入ってくる音がした。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 千歳が下ごしらえしておいた煮物の美味しそうな匂いがキッチンに漂っている。手を洗った将貴が煮物の鍋の蓋を開けて中を覗き込んだ。

「また出来もしない新作?」

「今日は絶対に成功するわ」

「楽しみにしてるよ」

 千歳は陽向を胸に抱き上げた将貴に自分の方から抱きついた。キッチンの窓の外では、明日また東から昇ってくる太陽が今は西の山の端に沈もうとしている。

 アパートの窓にまたひとつ明かりが灯った。

【第三章 御曹司と結婚 天使のマスカレイド 終】

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