天使のマスカレイド番外編 将貴の過去 第01話

 身を切るような冷たい風が頬を撫でた。

 どこまでも続く田舎の一本道を将貴は一人でとぼとぼと歩いていた。道を取り巻いている裸の田畑にはたっぷりと雪がある。家がある東京は暖かく、雲ひとつ無い青空が広がっていたのだが、このあたりはどんよりと厚い雲が垂れ込め、青空など欠片も見えない。春の気配など少しも感じられなかった。突き当たりの道は左に行くともっと田舎道へ、右へ行くと駅にたどり着く。将貴は右へ曲がり、遥か向こうに商店街が見える道をそのまま歩いた。

 凄まじい水音が近づいてきた。

 大きな橋で将貴は足を止め、水が勢いよく流れている川を見下ろした。見るからに冷たそうな水は、川べりの石にぶつかって白い水しぶきをあげながら、恐ろしい速さで流れている。落ちたらひとたまりもなくゴミのように揉みくちゃにされてしまいそうだ。

 将貴が右手に持っているのは今日のために用意した薔薇の花束だ。束ねているピンクのグラデーションが入ったリボンが薔薇の華やかさを引き立てており、こんな花束をもらったならどんな女性でもその美しさにうっとりとするだろう。

「……持って帰るより、ここで捨てようか」

 投げやりな気分を胸に抱いて、将貴はまずレースのリボンを解いて川へ捨てた。あっという間にそれは流れに巻き込まれて見えなくなる。何十本もある薔薇の花も一本一本川へ放った。その薔薇は大切に将貴が育てていたもので、花屋の薔薇に比べるとやや品質が落ちるがそれでも美しく、捨てるのは勿体無いように思われるのに将貴は躊躇いなく捨てていく。すべて捨ててしまうと、今度はコートのポケットに手を入れ、紺色のビロードの小箱に入っているサファイヤの指輪を取り出した。大粒のそれは将貴が貯めた小遣いをすべてはたいて買ったものだったが、それも躊躇いもなくポンと川へ投げ捨てる。ついでに小箱もゴミを捨てるように放った。

 数年間かけて準備したものは数分で消えるあっけないものだった。幾分かは気分もスッキリしたが、心の痛みは増すばかりでそこへ冷たい風が凍み入るようだ。

『僕が好きか?』

『好き……』

『兄さんよりも?』

『佑太さんが好き……、ずっと好き』

 経験が無い将貴は、初めて絡み合う男女を見たショックがまだ頭から抜けない。それが自分の弟の佑太とプロポーズしようと思っていた従妹の美留だという事実がさらにショックに拍車をかけていた。

 不意に背後から声がかかった。

「身投げでもする気か?」

「……いいえ」

 振り返らなくても聞き覚えのある声に、将貴は川を見下ろしたまま返事をした。いつからそこに居たのかはわからないが、伯父の雅明がいた。

「ベルギーに行っていたのではないのですか?」

「行ってたよ。だけど、確か今日だったと思って心配になって私一人戻ってきたのさ。そうしたら案の定の成り行きでね。ずっと家から後つけてたけど気付かなかった?」

「まったく。俺は何をしても平均以下ですから」

 将貴は振り向き、五歩ほど下がったところで腕を組んで立っている雅明を見上げた。雅明はずいぶん背が高いので、いつも見上げる形になってしまう。

 白い息を静かに吐き、雅明は腕を組み直した。

「残酷な話をするようだが、美留はお前の事を兄としてしか見えていないくせに、お前にほだされて愛と勘違いしていたんだろう。若い頃には良くある事さ」

「俺は穂高兄さんにそっくりですから」

 穂高は雅明の息子だ。親が双子同士でそっくりなため、当然子供達がそっくりになっても不思議ではない。穂高と将貴はよく似ていた。ブラコンの美留はその兄の穂高に似ている将貴にとても懐いていた。それを自分が錯覚してしまっただけなのだった。不意に雅明が話を変えた。

「……足をひきずっているようだが、怪我はまだ治っていないのか?」

「折れた骨が冷えると痛むようです」

 ずっとつけられていたのなら、気付かれても仕方が無いかと将貴は思いながら頷いた。

「お前、自分の身体の事をどうしてそう他人事のように言うのかな? ったく、貴明や麻理子さんにはちゃんと言えと言ってるだろう。隠されている親の身にもなってみろ。おまえ、なんだって虐められ続けてそれをこの三年ずっとそれにあまんじてたんだ? 制服は何回買い換えた? 教科書もノートも、いつも新品なのはおかしいだろうが」

「学校用と家用に分けてましたから」

「金はどこで用意したんだ?」

「株を売ってましたから。こづかいを元手に増やしました」

「……ははぁ、よく考えたな」

 卒業祝いと称されて受けた暴行の跡を将貴は言わない。とはいえ血のにおいで気付いているだろう。将貴を虐めていた城崎はじめのグループは、いつも眼に見えないところを傷つけた。顔や首や手を傷つけない暴行は実に巧妙なやり口といえた。高校入学と同時に始まった虐めは将貴が抵抗しなかったためエスカレートするばかりで、教科書ノートの紛失は日常茶飯事、体操服に汚物を塗り付けられたり、机を廊下へ出されたり、教師の眼の届かない集団暴行もよく行われた。クラスメイトの福沢篤志が何かと庇ってくれたが、かえっていじめは酷くなった。福沢はクラスおよび学校の人気者であり、成績は常にトップでサッカー部のレギュラーとして活躍し、三年になってからは主将になったうえ、さらに生徒会長までやっていた。そんな篤志が平均以下の顔だけ御曹司の将貴を庇うのだから、虐めグループがストレス発散に将貴を痛めつけるのは当然の成り行きだったといえるのかもしれない。教師達は事なかれ主義ばかりで見て見ぬフリだった。

「お前、確か空手段持ちだったろ?」

「さあ……?」

 気の無い返事に雅明の眉間にしわが寄った。

「投げやりになるな。お前は十分その辺の奴らよりは実力はある。平均より上だ」

「伯父さんがそう言いますか? 出来のいい弟はそのはるか上です。美雪姉さんも穂高兄さんも……美留も。その前で自分の頑張りなど誰も認めませんよ。顔が似てなければ橋の下で拾われたと言っても誰もが信じるんじゃないでしょうか」

「将貴!」

 平手打ちを喰らった将貴は雪の上へ転んだ。先日に虐めグループに煙草を押し付けられた足首が痛み、一瞬だけ将貴は顔をしかめた。

「お前、貴明が何も見ていないと言うのか? 麻理子さんがどれだけ心配していると思っている? あいつらはお前がこの現状を言うのをずっと待ってるんだよ。何故それがわからない?」

「……恵美伯母さんなら、いちもにもなく聞いてくださるでしょうね。そして本人である俺より悲しんだり笑ったりしてくれるのでしょう。俺は伯父さんのように殴ってくれる父親が欲しかったです」

 将貴は立ち上がり、雪を払った。

「将貴、家へちゃんと帰って言え。すべてぶちまけてしまえ。虐めは犯罪だ」

「……心配しなくても奴らはそのうちぼろを出します。俺が直接手を下す真似はしたくない、そのように世の中はできているはずです」

「その歳で悟ってどうするよ?」

「悟ってなんかいません。馬鹿が悟れるわけないでしょう」

 かたくなな将貴に、雅明は呆れたようにため息をついた。

「将貴……お前な。もうちょっと肩の力を抜いたら楽になれるぞ。よく考えてみろ。あの会社を継ぐなんて面倒くさい事極まりない。そんなものできる弟に放り投げたって思えばいいじゃないか。美留にしたって、その歳で生涯の伴侶決めるなんて早すぎてつまらないと思わないか? もっといくらでもいい出会いがあるし、お前に似合う女が待ってるって。私だって恵美伯母さんを奥さんにしたのは29歳の時だぞ? 貴明だってそうだ。お前はもっと自由になるべきだ」

 伯父の慰めは、ただでさえずたずたになっている将貴のプライドを傷つけるばかりだった。

「もう……いいです。俺の為を思うのなら俺の事は放っておいてください」

「……将貴、あのな」

「失礼します」

 将貴は雅明に頭を下げ、再び駅に向かって歩き始めた。誰も彼もわかっちゃいないと寂しい思いに駆られる。でもそれはすべて自分が招いた事で誰も責められない。理解しようとしてくれる周囲を遮断したのは自分自身だ。わかってくれるのは美留だけだと思っていた。それなのに……。

『……時々将貴さんが怖い時があるの』

『怖いって、何が?』

『眼の色ががらりと変わる時、どうしようもなく怖くなるの。なんでかしら』

 昨年の夏休み。伯父の家で将貴と一緒に来ていた佑太にそう言った美留。アイスを買いに外出して戻ってきた将貴は、それをたまたま偶然立ち聞きしてしまった。気軽に入れる空気ではなくて、将貴は足音を消してキッチンの冷凍庫にアイスを入れると、泊まっている客室に入った。壁にかかっている鏡に青から緑へと色を変えた目の自分が映った。感情的になるといつも色が変わる自分の眼を将貴はとても気にしていた、幼い頃からこの眼でからかわれては虐められ、人間じゃないとまで言われた。西欧人種では特に珍しがられないらしいが、黒目の日本人達は眼の色など変わらないので目立つのだ。

「怖い……か」

 思いのままに感情を彼女の前で吐き出していた。目の前で眼の色が変わる人間が居たのなら、それはさぞ怖かっただろう……気持ち悪かっただろう。自分だって好きじゃない。誰に言われなくても世界で一番自分が嫌いだ。自分でさえ嫌いなんだから皆好きになるわけがないのだ。

「馬鹿か俺は……、ったく、もういいじゃん、誰だって同じなんだし。特別な誰かなんてもういらない」

 将貴は黒のサングラスをかけて眼の色を隠した。こうしていれば眼の色が変わっても誰も気付かない。金髪は左程目立たないのでそのままでも大丈夫だ。今は田舎でも脱色やカラーリングは当たり前の世の中だが、将貴の祖母のナタリーはそのあたりで苦労したと聞いている。自分より大変だったろうなと将貴は思う。祖母は数年前に病気で亡くなったが、いつも将貴を案じてくれる優しい性格で、伯父の雅明がナタリーは父親の貴明より厳格だったと言っても将貴は信じない。思えば最大の味方の祖母が居なくなってから、将貴への世間の風あたりが強くなったように感じる。

(世の中は広いの。佐藤グループよりもっと遠くにある世界を見なさい。将貴にしかできない事はたんとあるのよ)

 伯父の雅明と同じような話をいつもしていたナタリー。しかし、父親のようになりたい将貴にはそれはただの慰めにしか聞こえなかった。自分は父親の貴明のようになりたいのだ。あの誰にも膝を屈しないほどの強さと、超人じみた存在感が欲しい。いじめを跳ね返せなかった弱い自分は、それを両親に知られたくなくて必死に隠し通した。見つかればきっと父親はがっかりする。ただでさえ出来が悪いのに失望する。だから絶対に言ってはならないと思っていた。だけど思えばその頃から父親との距離が遠くなった気がする……。

 こんな自分はもっと惨めに落ちぶれてしまえ。そう思いながら城崎たちの虐めを受け入れるようになった。城崎たちは楽しかっただろうか? ふとそんな考えが将貴の脳裏を過ぎった。

 田舎の駅には無人駅が多いが、ここは珍しく駅員がいる。どこまでかと聞く駅員にいつもの駅名を言おうとして、ふと駅員の背後の壁に貼ってある路線図が眼に入った。自分がいつも降りる駅よりもはるか遠くに続いている見知らぬ駅の名前。気がついたら将貴は一番高い切符を買っていた。家へ帰りたくないという気持ちがそうさせたのだろう。佑太の勝ち誇った顔に今度こそ自分は爆発するかもしれない。でも一方で佑太に怪我をさせたりしたら、愛する美留が悲しむであろう事もわかっている。その二つの思いに引き裂かれて自分が狂うかもしれないという恐怖もあった。

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