天使のマスカレイド番外編 将貴の過去 第02話

 やがてやって来た鈍行電車に乗り、がらがらの座席のひとつに座ると、将貴は何故か心が開放されていくのを感じた。外はとても寒いのに車内は暖房が効き過ぎて暑いくらいで、来ていたコートを脱いで膝の上へ置いた。通路を挟んだ斜め向こうに小学生くらいの男の子二人を連れた母親がいる。二人は腕白盛りで突然喧嘩を始め、母親に痛そうな拳骨を頭に喰らって大人しくなった。思えば将貴はあんなふうに叱ってもらった記憶がない。深窓の令嬢だった母親の麻理子は手を上げるという事がそもそもなく、また、将貴が怒られるようないたずらを考え付いて親を困らせるという事もなかった。佐藤グループの御曹司としての自分を意識して生きていた将貴は、常に模範的な子供だった。……高校受験に失敗するまでは。

 ふうとため息をついて、午後の暖かな陽射しを頭から受けながら将貴は目を閉じた。サングラスのおかげでまぶしくない。

 何かにつけて佑太と比較され続け、長兄としてのプライドを保つために寝る間も惜しんで猛勉強したのに、どうして高校受験に失敗したのだろう。そして対して勉強もせずに要領のよい佑太は、何故将貴が受験した高校よりもレベルが高いアメリカの高校へあっさりとパスできたのだろう。何故自分は頑張っても報われないのか。将貴の人生では頑張れば成果が出るというのは幻の言葉で、頑張っても駄目な事の方が圧倒的に多い。そもそも成功した事など今まであっただろうか。

(将貴様は、顔以外のものを母親の腹の中に忘れてきたらしい)

(成る程、兄が忘れたものを弟が拾ってきたってか)

(どうしようもないな。あんな馬鹿じゃあ佐藤グループももう駄目だ。佑太様なら期待できそうだけどなぁ)

(そうなるんじゃないか? 社長は能力のない者には容赦ない。息子でも冷酷にばっさり切るだろうよ)

(佐藤家の恥だよあれは。なんであんな高校に落ちれるんだ? うちの会社で管理職になるには最低でもあの高校以上の偏差値のとこでないと無理なんだぜ? そんな馬鹿を社長になんて真っ平だ)

(だから心配しなくても、あれはうちに入社すら出来ないよ。どこかに養子に出すんじゃないか? ほら、社長の兄の雅明様のとことか……)

(馬鹿かお前。雅明様の長女の美雪様は自分で立ち上げたブランドで、昨年派手にファッションショーして大成功してるし、長男の穂高様はシュレーゲルの事業を引き受けてる秀才だぞ? 佐藤グループにいないだけでレベルが高すぎる。次女の美留様だって、超難関の星京大付属の高校なんだぞ?)

 社員達がこそこそ話していたのを思い出し、将貴はなんともやりきれない気分になった。このうえその美留にふられたと噂が流れたら、ますますあざ笑いと失望と好奇の視線の的になるだろう。屋敷のメイド達の振る舞いですら、将貴より佑太の方へ重きを置いている。母の麻理子が眼を光らせているので表立ってはわかりにくいが、かなりおざなりになっているのだ。食事にしろ、掃除にしろ、他にしろ、すべて一番最後で、ともすればすべて将貴本人がやっているのを多忙な麻理子は知らない。

 辛うじて都内の大学は合格したが、それですら彼らにとっては笑いの的だ。一般家庭の子息でももっとまともな大学に行けると言うのだから……。

「お兄ちゃんこれあげるー」

 いきなり飴の包みを目の前ににょっきりと出され、将貴はのけぞった。いつの間にか斜め向こうの子供のうちの一人が、将貴の横でニコニコ笑っている。将貴は礼を言って受け取り、楽しそうに再び座席に戻って母と小声で話す子供をうらやましく思った。遠い遠い昔に……そう、佑太が生まれる前まではあんなふうに父母と過ごした気がする。

 何度目かの駅で母子は降りていった。それからも電車は止まっては動き、人を吐き出しては吸い込んだ。夕暮れ時になると仕事帰りのサラリーマンやOLや部活帰りの学生達でいっぱいになった。むんむんとする人いきれの中で将貴はぼんやりとその乗客たちを眺めた。疲れた顔だったり、楽しそうな顔だったりしたが、皆将貴よりまともな人生を送っているように見える。

 両親に愛されているのはよくわかっている。でも一方でそれが信じられない自分もいて、その自分の存在を感じるたびに、やっぱり自分は馬鹿なのだと将貴は思うのだった。

 窓の外が夜の闇に塗りつぶされて、電気の明かりが宝石のような光を放つのを見て、将貴は一人でこんな長時間外出したのが初めてだと気付いた。いつもボディーガードや両親、弟や妹と一緒だった。それで人々の好奇の視線に晒されて、空気になってしまいたいと消え入りそうな心地でそれに耐えていた。

 今家族はそばにいないし、ボディーガード達もいない。誘拐の恐れはあっても今の将貴はまったく怖いと思わなかった。ただの一人だと誰も将貴を気にしない。眼の色さえ隠してしまえばその辺の人間と同じだ。それがとても気持ちを楽にさせてくれた。

 眠くなってきた頃、電車が終着駅に止まった。何もない田舎の駅で外はぽつんとひとつの外灯があるだけで真っ暗だ。車掌が駅のベンチに寝転ぶ将貴を心配して声をかけてきた。

「君未成年じゃないの? 家は?」

「高校なら卒業しました。どこまで行けるかって旅行なんです。な?」

 将貴は同じベンチで寝転がっている大学生に声をかけた。二つほど前の駅から乗ってきた大学生は酔っ払っているので、将貴を友達かなにかと勘違いしたらしい。

「そーそー。だからだいじょうぶでーす」

「まあこの辺は暖かいからいいけどね……。気をつけなよ君達」

 車掌は仕事をしたくないタイプなのか、将貴にとっては好都合な事にそれ以上は突っ込まずに駅へ戻って行った。深夜12時過ぎのこの駅は始発の5時まで無人になるのだろう。三つあるベンチにはそれぞれ酔っ払いたちが寝転がっている。将貴はコートを布団代わりに羽織ってベンチに寝転がった。固くて寝心地は最悪なのに、自分を誰も知らないのだと思うだけでひどく気分が良かった。駅についていた照明がすべて消えて真っ暗になると、夜空の星がきらめいて降ってくるようだ。東京の空ではお目にかかれない美しさに心が弾む。静かに将貴は眼を閉じた。

 翌日、見事に風邪を引いてしまった将貴は、鼻の頭を赤くして駅舎にある自動販売機で温かいスープを買った。よく考えると外で貴重品を持ったまま寝るなど無防備もいいところだ。それでも財布が無事なのは余程のんびりとした田舎なのだろう。ぼんやりしながら始発の切符を買い、心配する駅員に大丈夫だと笑って電車に乗り込んだ。誰もいない車内は明るく外はまだ真っ暗だ。ずずずと鼻をすすりながらスープを飲み干し、お腹がすいたなと思った。どこかの駅で弁当を調達しようと思いながら、将貴はふと気になってスマートフォンの電源を入れてみた。するとずらりと母麻理子からのメールや着信履歴が表示された。父の貴明は確かおとといから明後日まで家にはいない。履歴やメールにあるのは母だけなのを見て、将貴は友達が一人もいないなあと思いながら、母に電話をした。するとワンコールもしないうちに母のややヒステリックになっている声が響いた。

『将貴! どうしてそんな所にいるの。石川の家へ行ったんじゃなかったの? 雅明さんから聞いて心配していたのよ。帰っていらっしゃい』

「連絡しないでゴメン。悪いけど暫く家には戻らない。皆にもそう言っておいて」

『何を言っているの? 美留ちゃんはどうしたのよ』

「相変わらず鈍いな母さんは。振られたから感傷旅行なんだ」

『どういう事なの……』

 母の麻理子はいつも色恋沙汰には鈍感すぎると誰かが言っていた。佑太の事をまだ知らないのだろうか。弟が美留を狙っていたのはずっと将貴は知っていたし、それなりに将貴も牽制していた。それでも取られてしまったのは……。

「佑太に聞いて。じゃあ」

 帰って来いという麻理子の声を無視して、将貴は電源を切った。持たされているスマートフォンにはGPSがついている。居場所を探り当てられて連れ戻されたくない。電車はまだ出発までに時間があった。将貴はホームに下りてスマートフォンをコンクリートの上に置くと、思い切り踏み潰して破壊した。原型をとどめなくなるまでぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に捨ててあった新聞紙に包んで捨てた。

 しばらく経ってから電車は発車し、昇り始めた太陽と同じように将貴の心も晴れ渡っていった。

 一番人が多く乗ってきた頃岡山駅で一旦電車を降り、売店で弁当を買って行きかう人々を見ながら将貴は一人で弁当を食べた。ひとりぼっちなのにまったく寂しく思わないのは何故だろう。学生達やサラリーマンやOL達が出社していく混雑の時間の中、昨日の夕方とは逆なのだなと思う。皆決まったように過ごしている中、自分はいつもと別の時間を過ごしているのを強く感じた。将貴は食べ終わった弁当のトレイをゴミ箱に捨て、改めて路線図を眺めた。ふと海を渡りたくなった。香川県の高松行きの電車がもうすぐ来る。将貴は躊躇いなくそちらのホームへ移動し、滑るように入ってきた電車に乗った。窓際を陣取って車窓から瀬戸大橋を渡ると、瀬戸内海の島々がはっきりと見えた。島を見るのは初めてだ。

「駅から見るより橋を渡って見る方がいいわね」

 隣で旅行客と思われる若い女性が、恋人らしき男性に強請ってカメラで写真を収めている。将貴はカメラなど持っていないので、ただじっと通り過ぎる島々を眼に焼き付けた。あの島にも人が住み、毎日の生活を送っているのだろう。やがて電車は四国へ上陸していく。

 さらに電車を乗り換え終点の徳島にたどり着いた。そろそろ思い切り歩きたいと思った将貴は徳島駅を降り、昔城があったという城跡の石垣を眺めながらぶらぶらと歩いた。そこへ誰かがぶつかってきた。よろめく将貴に若い男があやまり走り去っていく。将貴はそこで財布をすられてしまったのだが、気付くのはあと何時間も経ってからだった。

 

「…………」

 ぎゅるぎゅるとお腹が鳴る。いくら外見が天使のように美しい将貴でも生きている人間なので、やっぱりお腹はすくしトイレにだって行く。というかそのような場合ではない。

「財布がないとやばいなぁ」

 はあとため息が出る。朝の時の一人旅のうれしさは一転、夜になると心細さと後悔が押し寄せていた。家へは帰りたくないが食べられないと辛い。朝に弁当を食べたっきり、あちこち歩きまくって人生初のヒッチハイクをして、知らない山の麓でおろしてもらいイザ遅すぎる昼ごはんだと目の前にあった食堂に入ろうとして、そこで初めて財布を紛失している事に気付いた。サングラスに金髪の男という事でじろじろと不審者を見るような目で店員に見られ、直ぐにその場を離れたが、行く当てもなくさ迷い歩いて、山の傍の温泉街から大分外れた山道の端に座りこんだ。

「どうしようかな。はあ……」

 山のせいか昨日より冷える。ぶるりと体を震わせて見回した。少し離れた所にある温泉街の旅館から硫黄に混じって食べ物のおいしそうな匂いが漂ってきて、またおなかが鳴った。もはや感傷旅行どころではない。食べる事ばかりさっきから考えている。

 財布にはお金しか入れていなかったのは幸いだ。将貴はいつもクレジットカードなどのカード類は別にして、コートの内側の奥に入れている。これを使用すればいいのだが、使用すると自分の居場所が家族にばれてしまうので使えない。おまけにブラックカードだ。見るからに挙動不審な未成年が持っていたら怪しまれるに決まっている。即、家へ強制送還だろう。それだけは嫌だ。もうおそらく佑太が帰っているだろうし、プロポーズに失敗した情けない兄だと佐藤低内で面白おかしく噂が飛び交っているだろう。そんな所に帰るには、プライドだけは高い自分が惨め過ぎる。

「真剣にどうすりゃいいのかわからない。俺ってすげーボンボンだったんだな。篤志ならなんとかできるんだろうな」

 例えば佑太ならスリなどに遭ってもすぐ気付くだろう。篤志だってそうだ。そして今の自分の境遇も上手く乗り越えられそうだ。細い道の向こう側から人影が近づいてきたので、将貴はさらに山の奥に入って身を隠した。とにかく家へ帰るのが嫌だった。寒くて骨の髄まで冷え切り、熱が出てきたのか頭がぼうっとする。かじかむ手に息を吐きかけて木陰にうずくまる。少しはくちくしようと、将貴はたまたまコートに入っていたキャラメルの箱から一粒キャラメルを取り出して口へ放り込んだ。甘くておいしいがとても空腹には敵わない。山の木々に囲まれて昨日のような星空はまったく見えないので、ひどく心細かった。自分は子供の頃から成長できていない。将貴は自嘲して眼を閉じた。

 まだ言葉が操れるかどうかの頃、父母も周囲もとても優しかった気がする。毎日が楽しくて温かくて、悩みなど全くなく、生まれたばかりの佑太と咲穂が眠っているベビーベッドを覗き込んでいた。父の貴明はいつも兄弟でお互いを大事にするのだと将貴に語った。世界でたった三人の兄弟なのだからお互いを助け合って生きるようにと。お前は長男なのだから二人を護るのだと。

 父に認めてもらいたくていつも兄らしくしていた。模範となるようにわがままをいつも我慢して弟妹を優先していた。一体何が狂ってこうなってしまったのだろう。いつしか父は将貴を褒めてくれなくなった。無邪気に振舞う弟妹を前に黙っている将貴を何か言いたげに見つめ、その間に佑太が入って場の雰囲気が暖かくなる。いつしか兄としての行動を佑太が取るようになっていた。

 高校へ入る頃には、父と挨拶以外に会話らしい会話をしなくなった。父が避けていたのではなくて将貴が徹底的に避けていた。もともと父は仕事で家にいない事が多く、月に五日もいれば良かった位だ。いつも父は将貴に話しかけようとしてきて、それを遠目に確認すると将貴は逃げてしまうのだった。母からはさすがに逃げ切れず、それでも出来る限り会わないようにしていた。身体中にある虐めの証を悟られまいと必死だった。

「すみません父さん、すみません……」

 身体中が痛い。熱がかなり上がっている。明日までなんとか持たせてそれから考えよう……。意識が遠のきかけた頃、誰かが将貴の頬をぺちぺちと叩いたが、将貴は冷え切っていて返事が出来なかった。

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