天使のマスカレイド番外編 将貴の過去 第03話

「うわ、超美少年。どこで拾ってきたのこれ」

「人を物の様に言うんじゃない。熊が出たって向こうの華の屋旅館の連中がうるさいから、支配人とうちの連中で山に入ったんだ。そしたらこの子が寝てたんだ」

「自殺でも考えてたのかな? 今はまじで熊出るかもしれないのに」

「あそこで自殺なんて生まれてこの方聞いた事ねえわ。迷ったかなんかだろう」

 年寄りの割れ金のような大声と元気のいい少女の声。うるさくて寝ていられず将貴は目を覚ました。そこは山の中ではなく木の天井がある狭い和室だった。かなり古いようで壁紙が黄ばみ剥がれかかっている。あれ……? と思いながら首を回すとそれだけでくらくらした。

「おう目ぇ覚めたか坊主。なんだってあんな山の中に居たんだ? 荷物はどこにやった?」

「…………」

 年寄りの声に返事をしたいが声が出ない。喉が腫れ上がっているのか声にならない吐息が漏れるだけで、将貴は口をぱくぱくさせた。

「こりゃあ重症だな。明日医者に連れてってやるからな」

 行きたくないと顔をしかめる。ひゅうひゅうと喉や胸が痛む咳が出た。将貴はあまり身体が強い方ではなく風邪を引きやすい。でも同時に治りやすいので外で寝るのを気にしていなかったのが完全に裏目に出た。

「ねえお父ちゃん。この人肺炎じゃない? 今病院に行った方がいいんじゃ……」

 少女の声が心配そうに呟く。行きたくないと思いながら将貴の意識はふたたび闇に沈んだ。

 今度は眩しい光に顔を照らされる。何故夜なのに寝させてくれないのだろう。誰かが身体中を確かめるように触れるのが不快だ。冷たい石を載せてきたり、肘や膝をコンコンと叩く。痛いから止めろと言いたいのに声は出ない。手足も千切れるように痛んでちっとも思い通りに動かない。腕を針で刺されて呻いても止められない。異常な寒さで震えているのにどうして服を脱がしたりするのだろう。嫌な手は、足首の火傷の跡を勝手に触って痛みを加速させる。虐めグループの一味がいるのだろうか。喉が渇いて水を求めると、誰かが器具を使って飲ませてくれた。誰だろうと思って重たい瞼を開くと、美留だ。どうしてこんな所にいるのだろう。

「み……る」

 愛してくれていると信じていたのに。どうしもっとて早く佑太が好きだと言ってくれなかった。そうしたら愛してるなんて言って困らせたりしなかった。いつだって将貴は美留の幸せを望んでいるのだから。安心したらいい。もう二度と美留の前に姿を見せたりしない……。

 美留の柔らかな手が将貴の手を包んでくれる。気味が悪くて怖いのを我慢してまで触れなくていい、……それ以上優しくされると余計に惨めだ。

 眩しい光が窓から漏れる光だとわかるようになった頃、将貴の熱は下がっていた。太陽の光がさんさんと黄色くなっている白い壁紙を照らしている。喉も少し痛いぐらいで声も出る。身体もまだだるいがスッキリしていて関節などの痛みもない。引き戸が開く音がして、将貴と同い年ぐらいの少女が部屋に入ってきた。ぽっちゃりとしていて色白で愛嬌のある顔つきをしていた。

「あ、起きてる。もう大丈夫?」

「ここ……」

「貴方、山の中で倒れてたの。うちのお父ちゃんが連れて帰って来たときは酷い状態だったの。肺炎で大変だったわよ。もう一週間ぐらい経ってる」

「そんなに……すみません」

 将貴が謝ると、少女は軽く将貴の頭をげんこつで小突いた。

「すみませんじゃなくて、ありがとうでしょ?」

「ありがとうございます」

 ふふふと少女は笑った。とたんに将貴のお腹がぎゅるると鳴った。将貴は恥ずかしくてお腹を押さえ、少女は大笑いを繰り返した。

「すぐにコンビニでお弁当買ってきてあげる。作ってあげたいんだけど厨房は今大忙しでちょっと無理なの」

「厨房?」

「ここ、玉の湯旅館って言う温泉宿なの。この部屋は従業員が仮に寝泊りするところ。あ、でもお弁当なんて食べられる?」

「……食べられると思う」

「じゃあ待ってて。大人しく寝てるのよ、熱は下がってるけど体は弱ってるから」

「わかった」

 ぽんぽん言う少女に気圧されて、将貴は再び布団に寝転がった。直ぐ近くが厨房なのか調理人達が忙しそうにしている空気が伝わってくる。活気に満ちていてとても陽気で楽しそうだ。それでいて仕事の厳しさがあるような……。父の貴明が仕事へ向かう時の後姿を思い出した。社員達が頭を下げる中、颯爽と肩で風を切って歩いていくその姿はとても格好が良かった。

「お待たせー。なるべく胃腸に優しそうなの買ってきたわよ」

「……ありがとうございます」

 将貴はゆっくりと身体を起した。少女がコンビニの袋から焼鮭が入っている弁当と、煮物、お茶を出し、割り箸を割って将貴に渡してくれた。実のところ将貴はコンビニの弁当を食べた事が一度もない。食事はいつも家で作ったものを弁当として持ち歩いていた。ごくりと唾を飲んで下を向いた将貴を少女が不思議そうに見つめた。

「そういやあんた名前は? 私は稲田朝子(いねだあさこ)って言うの」

「……さ、石川将貴」

 佐藤と言いかけて止めた。どこで佐藤と繋がる人間がいるかわからない。朝子は疑わずにそっか将貴ねと言って笑った。将貴は内心でドキドキしながら弁当を口に運び、思ったより普通の味の焼鮭やご飯を夢中で食べた。

「あんたすっごい綺麗に食べるわね。どっかのお坊ちゃまなわけ?」

「……まさか、その辺の一人旅したかった学生。……卒業したけどね」

「おうちに電話しなくていいの? あ、コートとか着てたものはここにあるわよ」

「大丈夫です。俺、両親はいないし」

「ええ? じゃあ家は!?」

「……帰る場所なんて、ない」

 将貴は箸を下ろした。顔色を変えた朝子がお父ちゃんに相談しなきゃと言いながら立ち上がった時、引き戸ががらりと開いた。白髪交じりの作務衣を着た男と、スーツを着た壮年の男が入ってくる。将貴は壮年の男の顔を見てドキリとした。この顔には見覚えがある。

「お父ちゃん大変っ。この子……帰る場所がないんだって!」

「わかった、朝子、お前はバイトに戻れ」

「うん……でも」

「ここはわしらにまかせとけ。もう少しで昼の時間は終わるからな」

「わかった」

 将貴の胸にじわりと冷たい物が広がっていった。二人の男が枕元に座った。朝子が消えた部屋はしんと静まり返り、息詰る空気が将貴をさらに息苦しくさせた。

「佐藤君」

 壮年の男が言った。やっぱりばれていると将貴は震え上がった。壮年の男は、一度だけ訪れた事がある社長室にある肖像画の男に瓜二つだった。つながりがあるはずなのだ。

「佐藤の家では君を探している。なのにどうしてこんなところにいるのかな?」

 将貴は口を噤んで布団を握った。

「コートの中にクレジットカードがあるね。これを使えばいいのにどうして山の中なんかにいたのか教えて欲しい」

「……家には」

「まだ知らせてない。いちいち教える義理はないからね、私には」

 ほっとした将貴だったがどう言えばいいのかわからない。朝子の父が口を開いた。

「佐藤君は未成年だろう? 本当ならすぐに連絡すべきだったんだが、熱でうなされていた時、家には帰りたくないとしきりに口にしていたからしなかったんだ」

「何故帰りたくないんだね?」

 女に振られたからとか、弟にその女をとられたからだとかは恥ずかしくてとても言えない。将貴は急に自分が小学生の子供になった様な気がした。口をぎゅっと固く結ぶ将貴に、壮年の男はため息をついた。

「帰りたくないならこれからどうするんだ?」

「……働きます」

「未成年など誰も雇わないぞ。おまけに嘘の履歴は直ぐにばれる」

「…………」

 思いつめたせいか気分が悪くなってきた。ぐらりと傾く将貴の体を朝子の父が支え、ゆっくりと布団に寝かせてくれた。大人二人は顔を見合わせて困ったように将貴を見下ろす。居心地がかなり悪い。元気ならすぐに飛び出すのにと将貴は思うが、身体はまだそこまで復活できていない。朝子の父が言った。

「働く意思があるのなら、ここで雇ってはどうですか支配人」

「……しかし、いつまでも佐藤の家に黙っているわけにはいきませんからね。同じ歳でも佐藤貴明は私の義理の甥になりますから」

「なあにここの厨房で働かせたらすぐ家へ帰りたくなるでしょう。どう見ても行儀が良さそうなぼっちゃんですから」

「……そうならいいんですけど。いいでしょう。しばらくアルバイトで雇ってみてから考えましょう。それでいいですか?」

「そうしてください!」

 息を詰めて二人の会話の成り行きを聞いていた将貴は、家への連絡もなしでしかもここで雇ってもらえるとわかってほっとした。働いた経験は無いが家へ帰るぐらいならこき使われたほうがはるかに良い。

「ずいぶんうれしそうだけどな、坊主。うちの厨房は厳しいぞ。大抵の奴は試用期間の一週間で辞めてしまう」

「辞めません、絶対」

「ふうん。まあいいけどな。じゃあ支配人が身元保証人になるのですか?」

「構いませんよ。確かですし。稲田さんは書類をここへ持ってきてもらえますか?」

「はい」

 稲田が出て行くと、壮年の男は見上げる将貴ににじり寄った。歳を取っていてもあの肖像画にこの男はそっくりだ。じっと見つめる将貴に男は相好を崩した。

「私は増田奏(ますだかなで)。君のお父さんの佐藤貴明の義父、佐藤圭吾の弟にあたる。一度も会った事がないけど一応親戚になるわけだ。私の妻の栞と君のお母さんの麻理子さんとはかなり親しい間柄だ。今でも電話でやり取りしてる」

「……それは」

「妻には言わないように固く口止めしておく。取りあえず佐藤の家の連中に見つかるまでは雇ってあげよう。私としては佐藤貴明を困らせるのは嫌な気分じゃない。浅からぬ因縁があるからね、佐藤兄弟には」

「…………」

 しばらく経ってから稲田が書類を持って戻ってきた。増田はそれに記入し、将貴に気分がいい時に書いておくようにと言い残して部屋を出て行った。どうなるかと思って心配したが何とか雇ってもらえそうで将貴はとても安堵した。彼の家へ戻りたくないという気持ちはほとんど恐怖が支配していて、あの家へ連れ戻されるくらいなら死んでもいいと思えるくらいのものだった。この旅館の従業員たちには迷惑だろうが、頑張ろうと将貴は思い目を閉じた。今はとにかく元気にならなければいけない……。

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