天使のマスカレイド番外編 将貴の過去 第05話

「将貴どうしたんだ?」

 料理長の稲田が不審がって聞いてくれる。なんでもないとは言えない。幼い頃から叩き込まれてきた感情のコントロールは今の将貴にはできなかった。そこへ朝子が将貴を呼びに来た。

「将貴さんお客さんだって。支配人が呼んでるわ」

 将貴は首を横に振った。

「行……かない」

「行かないってどうしたの? え? 顔真っ青じゃないっ。具合が悪いの?」

「悪くない……。でも、俺、仕事があるから」

 子供のように拒否する将貴に料理長が呆れて肩を押した。

「何子供みたいな事を言ってるんだ。支配人に呼ばれたらすぐにいままで行ってたろ? 一体どうしたってんだ」

「家の……人間が来た」

「家?」

 将貴はこくんと頷いた。平静を努めようと思っても震えがどうしても止まらない。戻りたくない戻りたくない。ここにずっといたい。料理長と朝子はあきらかに様子がおかしい将貴に顔を見合わせた。料理長は将貴を朝子に任せて厨房を出て行った。朝子は将貴が肺炎を起こした時に使っていた部屋へ将貴を連れて行き、座らせた。すぐに料理長が戻ってきた。

「将貴。帰れって言っといてやったぞ。いばりくさりやがってなんだあいつらのあの態度は。まったくもって気に入らない」

「……あの人たちは、俺を……馬鹿にしてるから」

「ああ、ああ、そんな腹の立つ態度だったな。見るからに気に入らないからそんな奴いないって言っといてやった。安心しろ将貴、お前をあいつらになんか渡さないからな。お前はここで働いていたらいいぞ」

「料理長……」

 不安げなまま将貴は料理長を見上げたが、料理長は温かな笑みを浮かべてはっきりと頷いた。朝子も将貴の手を握ってくれた。元気を取り戻した将貴は厨房へ戻り、いつも通りに料理長に叱り飛ばされながら調理を始めた。ここの皆は厳しくよく将貴を叱りつけるが、温かな心がその言葉の端々にある。だから将貴は皆を家族だと思っていた。

 しかし翌日、柴犬たちを散歩している最中に、将貴は情報部の三名に捕まった。捕まったとは言っても近くの喫茶店へ連れ込まれただけだったが。

「将貴様。事情はあの旅館の支配人に伺いましたが、それはそれこれはこれです。今、お屋敷は大変な状態なんです」

「…………」

「社長が腎臓がんでお倒れになり手術なさったんです。佑太様が業務を代行されています。まだ高校生のあの方がですよ? 長兄の貴方がこの状況を放置されているのは貴方のためになりません」

 貴明が倒れたと聞いて動揺した将貴だったが、佑太の社長代行の言葉に心が冷めた。

「佑太が居るならいいじゃないか」

「何をおっしゃっているんです。恥ずかしくないのですか弟君にすべてを負わせているのですよ」

「あいつの方がうまくできているはずさ。俺になにができる……」

「とにかくこれ以上の我侭は許されません。社長は術後の経過は順調ですが、それでも以前のような覇気はまだ取り戻せません。麻理子様もどれだけ心を痛めておいでか!」

「知らない。俺には関係ない」

 将貴はにべもない。それこそ自分は役に立たない。それだけははっきりとわかる。そこへウェイトレスがアイスコーヒーを注文していないのに持ってきて、それぞれの前へ置いた。

「だいたい専務達は何をしているんです? 社長だけが仕事をしているのではあるまいし」

「確かにそうです。ですがその専務たちを動かすのが佐藤社長なのです」

「なおさら俺には無理だ。佑太の方ができている、本当のところ俺に戻ってきて欲しくないんでしょう?」

 探しに来た割には必死さがない。将貴は好意を感じ取るのは人の数倍劣るが、悪意だけは人の数倍敏感だ。三人とも鼻白み、だがすぐに表情を消して将貴に言った。

「我々の判断で来たのではありません。我々は仕事できているのです。貴方が一緒でないと戻れません」

「佑太に言いつけられて来たんだろ? 父さんと母さんが言うはずがない」

「社長代行に、です」

「あ、そう。とにかく俺は帰らない。死んだとでも言っておけばいい!」

 冷たく言い捨てて将貴は逃げるように喫茶店を出た。柱に括りつけられていた柴犬たちが尻尾を振って将貴を出迎える。将貴はリードを持って柴犬たちと走った。旅館の皆は帰る必要はないと言ってくれた。そう言ってくれる人が居る限り、将貴の居場所はここなのだと思いながら。

 旅館へ戻り、寮の部屋で寝転んでいると、朝子が部屋の戸を躊躇いがちな音で叩き、お茶とお菓子が載ったお盆を持って入ってきた。そのお茶菓子のパッケージに将貴は見覚えがあった。陽輔の土産だ。結局何だかんだ言って仲が良いんだなと将貴はおかしくなる。しかしそんな将貴の顔とはうらはらに、朝子の顔にいつもの陽気さはなく、異様に緊張していた。

「どうしたの朝子?」

 朝子は難しい顔をしたままうつむいて、自分の膝の上に握り締めた自分の両手を見つめていたが、決意したように顔をあげた。

「将貴さんって好きな人居るの?」

「ええ!?」

 何だ突然と将貴はびっくりして起き上がった。本人にとっては全く唐突でびっくりする朝子の質問だった。しかし周囲に従業員がいてそれを聞いていたのなら、やっと告白するのかと言うほどの遅さだった。ずいと膝を進めてきた朝子に押されて、びっくり仰天した将貴はそのまま後ろに退いた。

「それ……今言わないといけないの?」

「居るんだ」

「その……どうしたの本当に……。そんなの聞いたって」

「知ってる、だって将貴さんあの熱で倒れて運び込まれた時、しきりに「みる」って言ってた。その人の事忘れられないんでしょ? でも私、将貴さんが好き! だから東京へ帰らないで!」

 朝子に抱きつかれてその勢いで後ろに倒れた将貴は、東京という言葉ですべてを察した。もう旅館の従業員達すべてに、自分が佐藤将貴だとばれていると。将貴は女の子に抱きつかれるという経験は初めてで、どぎまぎしながら朝子を離そうとしたが、朝子はずいぶん積極的な女の子なのか、唇を押し当ててきた。

「あ、朝子……さ」

「やだ、やだよ帰っちゃうなんてっ」

「落ち着いて、ね?」

 衝撃的かつ突発的なファーストキスに、将貴の眼は完全に緑色に変わっていた。外はまだ午後の昼下がりでとても部屋は明るく、こんな事をしていいとはとても思えない。第一、父親の料理長稲田に見られたら容赦なく張り飛ばされるだろう……自分が。なのにそう思う一方で、柔らかな身体と女性特有の甘い匂いに酩酊している自分も居た。美留と同じだ。でも朝子は朝子で美留ではない。

 どうしたらいいのかわからない将貴は、朝子を探している料理長の声に助けられた。朝子は名残惜しげに将貴から離れた。顔を赤らめたままの将貴をじっと見つめる。

「本当に好きなの。ずっと好きだったの」

「……それは俺をお兄さんみたいに思ってるんだよ。だから……」

「将貴さんの鈍感っ! 本気だからね私はっ!」

 朝子が出て行き一人になった将貴は、そのまま寝転んだ。

「……女ってなんかすごいな」

 胸がドキドキ言い続けている。人に想われるというのは甘美な喜びだった。本気で朝子が言っているのはすぐにわかった。応えてやりたい気持ちにかられかけ、すぐにそれはできないと将貴は自分を戒めた。いい加減な気持ちで朝子の若葉のように伸びやかな心を汚してはならない……。

 暴風が過ぎ去った後の静けさのように、父親の貴明の事を将貴は思い出した。

(父さん手術したのか……)

 心配にはなるが、術後の経過は順調だというから大丈夫だろう。午後の仕事が始まるまでにはまだ二時間ある。眠ろうと眼を閉じた時に増田が戸の外から声をかけて部屋に入ってきた。

「休憩中悪いが、朝子さんが君に告白したと聞いてね」

「え? もう広まってるんですか?」

「広まるも何も……、ここは壁が薄いから筒抜けなんだよ。あれだけ大声で告白してたんだからそりゃ聞こえるよ」

 これはやばいと将貴は思った。朝子はその明るい性格で人気がある女の子なので、清掃などに入っている学生のバイトたちが牽制しあっている程なのだ。

「俺は好きな人がいるんです。ですから朝子さんには応えられません」

「そうか……」

 そこへ今度は麦茶のグラスをお盆に載せた陽輔が入ってきた。なんだってこうも今日はお客が多いのかと思いながら、しかめっつらをしている陽輔から麦茶を受け取り、そっと啜った。

「好きな人とは、弟の佑太君の……」

「そうです。馬鹿だと思うでしょうけど、それでも好きなんです。朝子さんはとてもいい女の子だと思いますが、恋人にはできません」

「……そうか。それは残念だね」

 増田の顔色が妙に白い。将貴は急激な眠気に襲われて目を擦った。寂しそうな増田の声が遠くなっていく。その場で倒れて眠った将貴を確認して、増田はスマートフォンで電話をかけた。程なくして先ほど喫茶店で別れた情報部の三名が現れた。

「ご協力ありがとうございます」

「今回だけだ。この温泉郷を潰すと言われたら言う事を聞くしかない。でもそれは貴明社長の言葉ではないでしょう」

「はい」

「死んだ兄さんのやり口に似ている。そんなに将貴君が邪魔か? 邪魔なのにどうして連れ戻そうとするのか理解できない。この子はここに居たほうが元気でいられるのに」

「我々は命じられた事を遂行するだけです。ではこれで失礼させて頂きます」

 一人が眠った将貴をおんぶして、三人は旅館を出て行く。それを見た朝子が旅館を飛び出そうとして陽輔に後ろから羽交い絞めにされた。

「離してっ。将貴さんが帰っちゃう……」

「馬鹿。あいつはあの佐藤グループの御曹司だぞ! お前の手に届く存在じゃないんだよっ」

「そんなの知らない。将貴さんは将貴さんだもんっ」

「あいつは好きな女が居るんだよ! いい加減にわかれよ」

「知ってるよ、知ってるけど好きなんだもんっ!!」

 ぼろぼろと朝子の目から涙が流れた。将貴は黒の高級車に乗せられ、さよならも言わないままに家へ帰っていく……。二人の背後に居た増田が言った。

「可哀相に。家の為にあの子はまた心が壊れるんだろう」

「ならなんであいつらに協力したんだよ? 鬼かよ父さんは」

 増田は首を横に振る。

「ここで勤めるには、どちらにせよ一度は縁を切りに家へ戻らなければならないんだよ。そうでなければ世間が納得しない。ああいう家柄に生まれた者の不幸と言うべきか。……社長代理の考えは冷たいが正しい。家出したままの長兄をどうして世間に認めさせるか、悩んだはずだろう」

「そうかなー。佐藤佑太って俺より根性悪そうだったけどな」

 唾を吐き捨てそうな陽輔に、くくと増田は笑った。

「お前、根性悪い自覚があったのか?」

「っさいな。ほら朝子旅館に戻るぞ。仕事があるんだ」

 しくしく泣いている朝子の方を陽輔が優しく抱く。いつもそうしてやればいいものを素直じゃない陽輔は大福餅だのブスだの言うから、朝子に嫌われているのだ。とはいえ朝子も本気で陽輔は嫌っていないようだ。素直に頷いて大人しく肩を抱かれたまま戻っていく。おそらく将貴への恋心は麻疹のようなものだろうと増田は思っていた。あの容姿に憧れない女はいない。そして将貴の境遇と彼が持っている暗闇に恐れをなして逃げていくのだ。そうなる前にこうしたほうが良いと増田の理性が判断した。今の朝子は辛いだろうが、いずれ気付くはずだ。

 そうは思っても将貴を裏切ったのにはかわりない。後味の悪さを抱えて増田も旅館に戻った。料理長達に説明をしなければならない……。

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