天使のマスカレイド番外編 将貴の過去 第07話

 ある日、麻理子がにこにこ笑いながら言った。

「将貴、一度ニードルレースでベッドカバーを作ってみない? デザインはまかせるわ」

『サイズは?』

「シングルでいいわ。素材はコットンの方がいいの。あのね、貴方が作ったドイリーをデザイナーの方がとっても気に入ったからっておっしゃってくださったの」

『ドイリーって、昨日仕上げた奴ですか?』

「そう。あれはヨーロッパでも通用する出来だわ。あちらではああいう立体的なデザインがもてはやされるのよ。貴方のはその中にとても繊細なものがあるでしょう? それが素敵だって」

『そうですか』

 レース編みでも認めてもらえると将貴はうれしかった。これで編んで欲しいという生成りのレース糸を見て、わくわくとする。しかし将貴は屋敷内での他人の評価が恐ろしくて、自分の作ったドイリーや、育てた花を母の麻理子以外の部屋には絶対に置かせなかった。

「将貴はもっと自信を持っていいと思うわ。先日なんて、貴方の編んだ薔薇のレースをドレスにつけたいと仰る方もいらしたのよ」

 麻理子は嘘をついているふうではなかった。もっとも麻理子は嘘が下手ですぐにばれてしまうから、嘘をついているのを見た事はない。将貴が白い紙にデザインを書き込んでいると、父の貴明が入ってきた。いつものソファに座るのかと思えば、まっすぐに将貴の横に立った。

「将貴。来年も大学受験をしなさい」

 将貴は顔を上げた。麻理子がはっとしたように掌を口に当てる。

「大学は卒業しておいたほうがいい。四国以外ならどこへ受験しても構わない、ただし経済学部を受けなさい」

「どうしてなの貴明? この子はもう……」

「レースだろうがガーデニングだろうが構わないが、将貴に私はそういう教育をしてきた。なら、当初どおり経済学部を受けておいたほうがいい」

 将貴は父親を無視してレースの線を引いた。貴明は先日の仕事ができない自分を忘れているのではないか。何故いまさら経済学部を受けねばならないのだろう。社長の後継ぎなら、佑太が先日アメリカのボーディングスクールの高校をスキップで卒業し、大学に入ったばかりだ。そちらのほうがはるかに役に立つだろうに。

「増田奏から、お前の徳島での働きぶりを聞いた。お前には商才と人の心を掴む力がある」

「それは私も栞から聞いたけれど……」

「とにかく大学卒業だけはしておきなさい。必ず役に立つ」

 貴明がこうしろと言ったら、その通りにするしかない。将貴は嫌だったが仕方なく頷いた。

「家庭教師をつける。センター試験までに力をつけろ」

 それだけ言って貴明は部屋を出て行った。将貴は線を引くのを止めて鉛筆を置いた。麻理子がおろおろしている。せっかく将貴が伸ばし始めた才能を中断させるのが嫌なのだろう。それは将貴も同じだ。明日からはレースなど編んでいる暇はなさそうだ。将貴はできなくて申し訳ないと紙に字を書いて母に謝り、ぐっと歯をかみ締めて部屋から出た。もう9月下旬だ。このぎりぎりのタイミングで自分の頭でいけそうな大学を選ばなければならない。本当なら経済学部など受けたくなかった。受けて一体どうなるというのだろう。

 徳島へは行くなと釘をさされ、将貴の気分は沈んだ。おそらく貴明は将貴がまたあの旅館に居つくのを恐れているのだろう。佐藤グループの御曹司が田舎の旅館で働いているというのは外聞が悪い。

(一体俺は何をしているんだろう)

 将貴は雨が今にも降りそうな空を窓から見上げた。

 秋から冬にかけて猛勉強した将貴は、偏差値を国公立のレベルまでなんとかあげ、関西の大学を受験して無事合格した。母の麻理子はとても喜び沢山のご馳走を作ってくれた。しかしそこに弟や妹、父の貴明の姿はなかった。佑太はアメリカ、咲穂はドイツ、貴明は仕事だった。二人だけの寂しい祝いでも将貴はほっとしていた。弟達が居たら味などわからない。

「明日マンションを見に行きましょうね。将貴は一人暮らしは始めてね」

 母の手料理を口に運びながら、将貴は頷いた。そうだ、4年間はここから開放される。父母の心配そうな視線も、社員たちの侮蔑の視線も浴びなくて済むのだ。思えばいい選択をした事になる。朝子からはたびたび手紙が来ており、東京住まいの陽輔とはよく会っていた。陽輔は大学も東京を選ぶらしい。

 やがて始まった大学生活を可もなく不可もなく将貴は過ごした。苦学生ではないので働く必要もない。

 中高生の時、将貴の美貌と家の財産目当てに男にも女にもよく襲われかけた。あれは高校の時の虐めよりひどいもので、今から思い返すだけでも気が滅入る。目立たないという事が将貴の生活の条件だった。髪を少し伸ばして後ろで纏め、分厚い黒のフレームの度が入っていない眼鏡をかけた。かすかに色がついているそれは眼の色の変化を知られないためだ。それでいつも地味な格好をしていたら特に目立たず、友達は作る気がなかったので作らなかった。

 サークルにも入らずマンションに帰ったらレース編みや料理ばかりしていた。特にレース編みの方は麻理子を通してたびたび注文が入るようになり、ささやかな収入のひとつになっていた。ためしにブログを立ち上げてみると恐ろしいアクセスがあり、対人スキルがない将貴はかなり驚いた。悪戯などもあったが、それらに対しては麻理子を通じて専門家にアドバイスをもらい、なんとか無難な更新が続けられた。

 それでも将貴は満たされない。彼の幼い頃の夢とこの現実はまったく一致していない。父親の貴明との差を思うとやりきれなくなる。貴明にも苦しい時期があり、それがちょうど今だったのだがそれを将貴は知らない。エリートだった貴明の影さえも踏めない自分が惨めだった。

 二年が過ぎた頃、ずっと帰っていなかった佐藤邸から何が何でも帰って来いというメールが入った。母の麻理子はしょっちゅうメールをくれていたが一度も帰省を強要しなかったのでめずらしいと将貴は思った。徳島から連れ戻された時ほどは嫌悪はなかったので、将貴は了承した。

 しかしすぐにそれを後悔する羽目になる。

 屋敷は相変わらずぞんざいに出迎えられ、何故か礼服に着替えさせられた。何かパーティーでも開くのだろうかと頭を傾げ、早く来て欲しいと促す執事の後を歩いた。そして珍しく和室の応接室へ通された。通された瞬間将貴は冷水を浴びたように顔を凍りつかせた。そこに居たのは和装の伯父夫婦と振袖の美留。同じく和装の父母と佑太だった。他にも重役達や会社の関係者達が居る。将貴だけが洋装なのが異様に浮いて見え貴明が顔をしかめた。

「将貴にも和装しろと言った筈だが」

「サイズが変わっておられまして」

 執事に促され、将貴は母の麻理子の隣に正座した。執事が出て行くと見知らぬ男が口を開いた。

「では今より。結納の義を行わせていただきます」

 ────佑太と美留の結納なのだ。すべてが終わったと将貴は思った。

 結納が終わり、仲人が出て行ったので将貴が席を立とうとすると、貴明がそれを引きとめた。

「まだ話がある」

 将貴はしぶしぶ座った。このような苦痛な場に居たくない。晴れやかな二人を祝うべきなのに呪う言葉しか出てこない自分が忌々しい。忘れていたはずの過去の青い傷がまた血を噴出し、痛みが胸を襲うのだ。伯母の恵美が母と同じような気遣わしげな顔をしているのがたまらなく嫌だ。

「佐藤グループのこれからについてだ」

 その貴明の口調は、もう十何年も前から確かに来る未来の予感のひとつとして、幾度となく将貴の脳裏で再生されたものによく似ていた。将貴に顔を上げて父の顔を見る勇気はなかった。見なくてもわかる、貴明はきっとあの社長然とした厳しく冷たい顔をしているのであろう事が。

「佑太が先日大学をスキップで卒業した。それに伴い佐藤グループの重役および、シュレーゲル一族の間で会議が開かれた」

 シュレーゲル一族とは、父の貴明の母であり、将貴の祖母にあたるナタリーの実家だ。ドイツ貴族で一族は手広く事業を経営している。佐藤グループとは当然深いつながりがあり、将貴も一度だけ訪れた事がある。

「全員一致で佑太が次期社長に指名された。今はまだ就任できないが近い将来そうなる。覚えておくように」

 自分が今どのような顔をしているかはわからない。全員が自分の一挙一動を見ている視線だけは痛いほど感じた。ついにこの日が来たかと思う。何度となくその日の対応を練習していたのに、頭にも胸にも白い空白があるだけで何も浮かばない。ただ自然に頭がさがり、それが了承の意となった。完全に将貴は敗者で、佑太は勝者だった。

 そのあとも貴明は何か言っていたが、耳に厚い膜ができたように何も聞こえない。佑太が今度は何かを言い始め、その時ざわめきが起こり再び視線を感じた。ついで盛大な拍手が沸き起こった。誰もが拍手を送る中将貴は膝の上に手を置き続け、視線はその先の畳の目を見ていた。それは終わりを告げるものだったのか、関係者一同が席を立ち、佑太や美留の周りに集まり始めた。将貴は黙って立ち上がり、何かを言いたげな母を安心させるように微笑み、そっと応接室を出た。外ではいつもどおりの佐藤邸の風景があったが、「みじめだな」という男の声がして同時に慌てたように制止する声が続いた。

(惨め……か)

 確かに惨めだ。ますます自分を取り巻く空気が嫌に粘ついた陰険なものに変わったようだ。珍しい獣を見るような好奇心に満ちた視線。初めてではない。幼い頃からずっと感じていた人間の裏側をむくつけにしたようなどす黒いもの。

 自分の部屋で着てきた服に着替え、将貴は母に捕まる前に佐藤邸を出て都内のホテルに部屋を取った。ベッドに寝転んでぼんやりとしていると、電話が鳴った。母の麻理子だろう。何もかも行動が筒抜けなのは、改めて持たされたGPS機能付きのスマートフォンのせいだ。将貴は一人になりたかったので鳴り続ける電話を無視した。

 経済学部へ行けと言われ、もしかしてとわずかな期待をした自分が愚かしい。では一体今何の為に大学に居るのだろうか。何故貴明は大学へ行けと言ったのだろう。

 電話は何度も何度も鳴り続けている。うるさい呼び出し音の中将貴は眼を閉じた。思えば昨日はレポートの提出の為に徹夜していた。眠い……と、心の中で思った将貴はそのまま眠れる自分を幸福に思えた。

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