天の園 地の楽園 第1部 第01話

 自分のロッカーを開けた途端目に入ってきたのは、泥だらけになった体操服とスニーカーだった。貴明はまたかと顔をしかめる。転校してからこの方、ずっとこんなつまらない悪戯が続いていている。
「おいアメリカ帰り。洗濯ぐらいちゃんとしろよな」
 後ろから言ってくるのは、いじめの首謀者と思われる小山内正人という名前の男子生徒だ。最近仲間とつるんでは貴明に何かと嫌がらせをしてくる。昨日数学の教科書にマジックで落書きしたり、靴箱の靴に泥もいれたのもこの連中だろう。
 この高校は進学校と聞いていたのだが、こんなつまらない悪戯が横行するようではとてもそうとは思えない。
 貴明はこの程度の悪戯では動じないので無視し続けているが、いい加減面倒くさくなってきた。それをなんと受け取ったのか正人が言った。
「なんとか言えよ。アメリカでは何も言わないのが普通だったのか?」
「……授業は休む」
 正人たちの目の前で、貴明は自分のロッカーの中身をゴミ箱に放り込み、呆気にとられている正人たちとクラスメイトを後にして教室を出た。

 学校の屋上は寒風が吹きすさび、雪まで舞っていた。
 この程度の寒さならアメリカでは暖かいと言っていたぐらいだ。貴明は冷え切ったコンクリートの床に寝転び、制服のポケットから煙草を取り出して口に咥え、ライターで火を付けた。美味しいとは思わないがいい気分だ。
 そのままぼんやりと雪雲を見ていると、突然横から手が伸びてきて、貴明が口に咥えていた煙草を奪い取った。
「駄目じゃない。授業さぼって煙草吸うなんて不良よ?」
 取り上げたのは、クラス委員の小川恵美(おがわめぐみ)だった。
 貴明の隣の席の恵美は、編入してきたときからなんやかやと世話を焼いてくる生徒で、一人で居たい貴明にはうっとうしい存在だ。
「うるさいな、体操着がないからさぼってんの。文句言うなら小山内に言え」
「また正人がやったの? もうあいつったら! いじめなんかするやつじゃないと思ってたのに!」
 貴明は煙草を奪い返し、また口に咥えた。
「今じゃただの程度の低い奴だろ? 僕に勉強でも、スポーツでも、女生徒の人気でも負けたから悔しいんじゃないの?」
 貴明はしゃあしゃあと言ってのけ、愉快そうに笑った。
「その態度が問題なのよ!」
 恵美の注意など何処へふく風の状態で、貴明はにやにや笑いながら煙草の煙を燻らせた。
 貴明は、西欧人並みの白い肌に、黄金の髪、明るい茶色の美しい目を持っており、天使の様に美しい面立ちをしている。お陰で学校中の女生徒の人気は計り知れない。それなのに残念ながら、天使の様な外見とは裏腹に性格は悪魔だ。異常な程人間蔑視がひどくて誰とも殆ど口を聞かないし、口を開けば痛烈な辛口ばかりで、人を馬鹿にした様な態度を取る。そのくせ教師には従順に見せかけている。これではいじめて下さいと言っている様なものだ。
 恵美は見ていられなくてあれこれ注意しているのだが、貴明は何処を吹く風といった態度で、全く聞いてくれないので困っていた。
「とにかく替えの体操着を用意してあげるから、授業受けなさいよ」
「嫌だ。お前こそ授業さぼってんじゃん」
「私は先生に頼まれたから来てるの。さぼってるんじゃないの」
「ふーん、ご苦労様」
 貴明は、煙草の火をコンクリートの床で消した。
 どうも吸い足りない。
 もう一本吸おうと思ってポケットをごそごそすると、恵美の手がポケットに入ってきて、煙草の箱を取り上げた。
「あ! なにするんだよ!」
「駄目! これは没収します!」
「お前にそんな権限ないだろうが。返せよ!」
「大体今煙草吸ったりしたら、身長が縮むわよ」
 貴明は鼻で笑った。
「お前なんか、吸ってなくてもチビじゃん」
 恵美は痛い所をつかれて悔しそうな顔をした。貴明の身長が百七十五センチもあるのに対し、恵美は百五十センチもないのだった。
「うるさいわねこれから伸びるの! とにかくあんた……」
 うるさいのは恵美の方なのに、あれやこれや言われるのが面倒くさくなってきた貴明は、いきなり小柄な恵美をコンクリートの床に押し倒した。
「いったいわね! 何す……」
 次の瞬間には、貴明は恵美の可憐な唇を奪っていた。
 恵美がびっくりして身体を硬直させる。
 やっと静かになったと思った貴明が、唇を離した途端、拳骨が横なぐりに降ってきた。
「いてっ! 何するんだよ」
「それはこっちの台詞よ! アメリカじゃしらないけど、日本はキスなんて好きな人にしかしないのよ! しかもファーストキスを勝手に! 馬鹿! 常識知らず!」
 恵美にとってはとんでも無い事に、初めてのキスを奪ってやったと知った貴明はご満悦だ。
 何しろ相手は、男女ともに人気の女生徒なのだから。
「ふーん。お前の最初のキスを頂戴したのか。これは光栄だね」
 余計な一言を貴明は言ってしまい、今度は上から拳骨を食らった。
「いってえな本当にお前女かよ。普通こういう時は、泣くか感動するかどっちかだろう? おっかしいな、お前」
「おかしいのは佐藤、あんたでしょ! 何処の世界に、好きでもない男にキスされて喜ぶ奴がいるのよ! 馬鹿佐藤!」
 ますます恵美はうるさくなり、どちらにしても叱言から解放されないとわかった貴明は、しぶしぶ立ち上がった。
「お前に殴られたせいで、頭がぐらぐらするから保健室行く……」
 恵美は途端に心配そうに顔を覗き込んできた。
「やだごめん。そんなに力一杯叩いたかな。大丈夫?」
「お前……自分で叩いといて大丈夫はないだろ?」
「だってあんたが変な事するから……」
「キス位でがたがた言うなよ。面倒くさ」
 早足で保健室に向かう貴明の後ろを、恵美がついてくる。本当にうっとうしいと貴明は思いつつ、保健室のドアを開けた。
 保健室は静かだった。保健教諭は出張だと壁のホワイトボードに書いてある。
 開いているベッドに寝転がった貴明に、恵美がアイスノンを持ってきた。
「ごめん、これで痛い所冷やしてよ」
 貴明は無言で受け取り、さっき殴られた所に押し付けた。すうっとした冷たさで気持ちいい。
「先生には私から言っておくから休んでてね。殴ったりしてごめん、じゃあね」
「……寝てるから早く授業に戻れ」
「でも」
「寝てりゃ治るんだから。早く行けよ」
「う……ん。無理しちゃ駄目だよ」
「ああ」
 貴明はそれきり黙りこみ、恵美はそんな貴明を見届けると、静かに保健室を出て行った。

 やっと貴明が求めていた静寂が訪れた。
(恵美の奴……、黙ってればまずまずの女なんだけどなあ。なんでやたらと凶暴で勝ち気なんだろう。もったいないな)
 貴明は欠伸をして目を閉じた。
 昨夜は、義父の秘書に仕事についてあれやこれや説明を受けて、それを生真面目に聞いていたせいで、ほとんど眠っていない。
(一体あいつらはどういうつもりなんだろう。本気で僕に、あの会社を継がせるつもりか……?)
 義理の父親の佐藤圭吾は、今年で二十九歳だ。年齢差が十一しかないので、父親というよりは兄と言った方がしっくり来る。
 十一年前、十八歳の時に二十五歳だった貴明の母ナタリーと結婚した。
 貴明は当時七歳で、貴明の母は、夫を事故で亡くしたばかりの未亡人だった。
 初めて会った時の圭吾の目を、貴明は忘れられない。圭吾の目は身を焼き尽くす様な野心に燃えていた。
 こぶ付きのナタリーと結婚したのは、ナタリーの実家と、婚家が持っている財力と権力が目当てだったのだ。それを証拠に、圭吾は結婚後数年で全てを掌握し、このわずか十年ほどで大企業佐藤ブループを創り上げた。
 妻や妻の縁戚の手助けがあったとはいえ、年功序列の厳しい日本で、年長者を押さえつけて、一企業にすぎなかった会社を一流企業に成長させたのだ。凄まじい経営手腕と言うべきだろう。
 それだからだろうか。法律を破る事も他社を踏みつぶす事もやっているらしい。裏の世界と精通しているため、警察沙汰にはならないようだが……。
 大したものだと思う一方で、貴明は圭吾をを毛嫌いしていた。
 わずか七歳の貴明を母から引き離して、単身アメリカに追いやったくせに、今さら日本に連れ戻すとは身勝手にも程がある。
 しかし貴明は圭吾に逆らえない。彼の背後には母のナタリーがいて、おそらく彼女や親族達の意思がそうさせたのに違いないのだから。
 貴明は己の立場をよく知っていた。

 そのまま、放課後まで貴明は保健室で寝ていた。
 帰りの放送で目覚め、ベッドから起き上がってぼんやりしていると、恵美がカーテンを開けて入ってきた。
「佐藤、大丈夫? 授業のノートとっておいたから家で見といて」
 貴明は、ぱらぱらとページを捲ってノートに目を通し、恵美に突っ返した。
「遠慮しなくていいわよ」
「いいよ。わかってるから。それより煙草返してくれない?」
「あれならさっき焼却炉に放り込んじゃって、無いわよ」
 勝手な事をする恵美に、貴明は頬をふくらませた。
「それより頭はまだ痛いの?」
「痛い」
 本当はちっとも痛くなどなかったが、煙草を奪われた腹いせに困らせてやろうと、貴明は嘘を言った。
 案の定、恵美は困惑顔だ。
 貴明は恵美に言った。
「家まで送ってくれる?」
「へ? あんたんちまで?」
 貴明はベッドから降り、制服の上着を恵美から受け取ってボタンを止め、返事も聞かずに歩き出した。
 保健室の外には女生徒が二人立っていた。
「ごめーん。ケーキは明日にしれくれないかな? 佐藤ってばまだ頭が痛いんだって、家まで送ってくるわ」
 恵美が貴明の後を追いかけながら、その二人の女生徒達に謝った。
「えー? 楽しみにしてたのにい……」
「恵美ってばホントお人好しなんだから!」
 文句をいう声が貴明の耳にも聞こえる。ざまあみろと貴明は思いながら、廊下を歩いた。
 昇降口で、貴明が何気なく恵美の靴箱を見ると、ラブレターが何通か入っている。メールなどの手段もあるのに、古風な生徒も居るものだ。
 靴で臭くないのだろうかとか、貴明は余計な事まで考えてしまう。
 貴明は人気はあるのだが、無愛想で冷たくて得体が知れない所があるので、誰もそんなものは入れて来ない。女生徒達はいつも遠巻きに貴明を眺めて、きゃあきゃあ騒いでいるだけだった。
 校舎を出ると、すぐに商店街に入った。まだ夕方前なので人通りはまばらだ。
「ところであんたの家、どっちなの?」
 商店街の中を歩きながら、恵美が貴明に聞いてきた。
「あれだよ」
 この辺りで、金持ちが住むと言われている高層マンションを、貴明は指差した。
「あそこの一番上」
「あそこって確か……一ヶ月百万って所じゃあ……」
「知らないよそんなの。僕が払ってるわけじゃないし」
 やがて商店街を出た。これから先は閑静な住宅街だ。
 あんまり付き合わせると可哀相かなと思いながら、人気の無い道を二人で歩いていると、向こう側から正人達のグループが歩いてきた。
 正人達は、道幅いっぱいに広がって、貴明の前をそのまま通せんぼする。
 ああ、面倒くさいなと貴明は思った。もういい加減に相手をしてやらないと、こういった悪戯は止まないようだ。
 立ち止まった貴明に、腕を組んだ正人がにやりと嫌な笑いを浮かべた。
「保健室でさぼったあげく恵美とデートかよ。大金持ちの坊ちゃん?」
「……どけよ。邪魔」
 貴明はため息をついた。本当に面倒くさい。
 恵美が貴明に加勢した。
「正人! いい加減、佐藤をいじめるのやめなさいよ! 度が過ぎるわ!」
「お前には関係ない。あっち行ってろよ」
 一人が貴明に殴り掛かってきた。貴明は避けずに詰め寄り、殴り飛ばした。
 明らかに喧嘩慣れしている。
 一瞬何が起こったのかわからないでいる正人の仲間に、貴明は天使の容貌にふさわしくない悪どい笑みを向けた。
「お前達じゃ話にならないよ。怪我しないうちに帰ったら?」
「この野郎っ」
 ナイフを持っている生徒が逆上し、貴明に向けて走ってきた。
「刃物なんてあぶな……!」
 恵美が叫ぶ。
 しかし、貴明は特に急いでいるふうもなく落ちている石を拾い、その生徒目掛けて石を投げつけた。
 骨が砕ける嫌な音がして、ナイフは下に落ち、生徒は手を押さえて痛がって泣き始めた。
 正人達はびっくりして声も出ない。
「関節を砕いてやっても良かったけど、クラスメイトのよしみで指で勘弁してやった」
 貴明はまた石を拾った。 
 貴明の段違いの喧嘩のレベルに驚き、正人を残して他の生徒達は走って逃げて行く。

 二対一になった。
「さあどうする? この何ヶ月分かの損害をまとめて支払ってもらおうかな」
「お前んちは金持ちなんだから、屁でもないだろうが」
 いじめをやっていた割には、後悔している様子が見て取れるのが笑えてくる。
 正人は、クラス委員の恵美と親しそうな位だから、恐らく芯からは悪い人間ではないのだろう。
 だからこそ貴明は、今まで何をされても放って置いたのだが……。
 貴明は、手のひらでポンポンと石を転がした。
「だけど物を無駄にするのは嫌だね。お前んちでは物を粗末にする様に教えてるのか?」
「……」
 正人が逃げようとしないので、貴明は石を再び投げた。しかし、正人は他の生徒達よりは場数を踏んでいるらしく、さっと横に避け、石ははるか遠くへ飛んでいった。
「ふーんやるじゃん。大抵の奴は避けられないんだよ?」
「うっせえ!」
 正人が突進してきた。
 貴明は正人を避けて跳躍し、その背後に着地する。振り向きながら殴りかかった。正人は振り返りざま後ろに飛びかろうじて避けたが、次は避けられず頬に貴明の拳が命中する。

 正人と貴明の喧嘩の腕は伯仲しているようで、どちらも引かない。
 恵美は喧嘩を止めたくて必死に叫んだ。 
「やめなさい! やめなさいってば二人とも!」
 それなのに、恵美の声は全く二人には届いていない。頭にきた恵美は、目の前の家にある防水用のバケツを持って来て、二人に目掛けて思いっきりぶちまけた。
「うわっ!」
「冷たい! 何するんだこの凶暴女!」
 真冬の水浴びは凍るような冷たさだ。
 濡れた制服が氷の様に貼り付き、とても喧嘩などやっていられず、二人共縮こまって震え始めた。
「二人とも道の往来で喧嘩なんかよしなさい!」
 びしょぬれの頭の二人には、寒さの痛みに加えて、恵美の怒鳴り声が頭に響いて辛い。
「痛い。割れそう」
「自業自得よ!」
 情けない声で頭を抱える貴明に、さらに、容赦の無い恵美の一喝が放たれる。
「ど、どうすんだ恵美。着替えないと……」
 正人が唇の色を紫にして、恵美と貴明を交互に見た。
「私の家で二人共着替えたらいいじゃない。正人は私の隣の家だけど、今日おばさん遅くなるって言ってたから、うちで泊まることになってるし。一人くらい増えた所でお母さんも何も言わないわ」
「なんでお前の家に泊まらないといけないんだよ……」
 貴明が震えながらぶつくさ言った。
「私の家はすぐそこだけど、佐藤の家は走っても十分くらいかかるでしょう? 風邪でも引いたら間抜けよ。ほら、ぶつくさ言わないでついてくる!」 
 寒さには勝てず、貴明も正人も、しぶしぶ恵美の後ろに付いていくしかなかった。