天の園 地の楽園 第1部 第02話

 恵美の母の房枝は、貴明と正人がずぶ濡れになっているのを見て驚き、すぐに二人をバスルームへ案内してくれた。

「恵美、この二人はなんだってこの寒いのに水浴びなんかしたの?」

「喧嘩をやめないから私がぶっかけたの。さあ二人共早く服を脱ぎなさい、風邪ひくわ」

 恵美は、二人から着ているものを全て脱がせて洗濯機へ放り込んだ。思春期だというのに男の裸をなんとも思っていないようだ。貴明はじっと恵美を見たが、恵美は洗剤を洗濯機に入れながらこう言っただけだった。

「ちょうどいいから泊まったら? 庶民の生活を見るいい機会かも。あと正人と仲直りしなさいよ」

 そう言って、裸の二人を風呂に追いやった。

 二人ともがたがた震えながら湯に浸かった。あまりの寒さにしばらく二人とも口が聞けず、向かい合わせになってじっと身体が温まってくるのを待った。

 やっと温まってくると、正人がポツリと言った。

「ったく……恵美の奴、いくらなんでも真冬に水なんかかけるなよ」

「……全くだ」

 貴明は思わず同意してしまった。正人が上目遣いに貴明を見た。

「お前喧嘩強いじゃねえか。ボンボンのくせに」

「馬鹿。ボンボンだから強いんだよ。お前もけだものだらけの中で生きてみろ」

 正人が湯の中で自分の手を握ったり開いたりしながら呟いた。

「俺、喧嘩負けた事無いんだけどな」

 ふんと貴明は鼻を鳴らして笑った。

「僕とタイマン張れるくらいだから、まあまあ強いんじゃないの?」

「軍隊にでも入ってたのかお前? 何しろアメリカだからな」

「そういう学校もあるよ。拳銃もやったな。狙撃手になれますとか言われたけど……」

 正人が吹き出した。

「言った奴何かの観過ぎだよ」

「僕もそう思う」

 貴明はくすくす笑った。それは無邪気な天使の微笑みで、初めて見た正人は珍しそうにまじまじと貴明を見つめた。

「お前程、外見と中身が違いすぎる奴はいないよな」

「どーせ日本人に見えないよ、目立って仕方が無い。何が天使みたいだ馬鹿どもが」

 すっかり温まったので二人はお湯から出て、用意されていたタオルで身体を拭いた。着替えも恵美が用意したらしく、かごの中にきちんとたたまれて置いてあった。正人がシャツを広げながら言った。

「あれ、俺のじゃん。恵美の奴俺んちに行ったのか。あーあ、またおふくろにどやされる」

「どやされる? 袋に?」

 貴明の勘違いに正人が大笑いした。

「おふくろってのは母親の事だよ」

「ふーん」

 正人の服は貴明にぴったりだった。

 さっぱりとした二人が居間の座布団に座ると、房枝がにこにこ微笑みながら二人に温かいお茶とお菓子を出してくれた。

「佐藤君のおうち電話したんだけど誰もいらっしゃらないみたいで……。どうする? 明日は学校は土曜日でお休みだし泊まっていく?」

 貴明は首を横に振った。

「遠慮なんていらないわよ。留守電に入れておいてあげる」

「……僕は一人暮らしなんです」

「まあ大変ね……」

「別に、平気です」

 房枝は暫く黙っていたが、やがてこう言った。

「やっぱり今日は泊まっていきなさい。まさちゃんも泊まってくれる?」

「俺はかまわないけどさ……」

 正人が頬をなでながら言う。

 恵美がケーキを持ってきて、テーブルに置いた。

「クラスメイトなんだから遠慮しないでよ、はい、泊まりで決まりね」

 貴明は止めるのが面倒になって何も言わなかった。恵美の言う庶民の生活とやらに興味が湧いてきたせいもある。三人が貴明にはわからない事を話して盛り上がるのを貴明は黙って聞いていたが、疎外感は全くなく、むしろ自分を自然と仲間に引き入れられているようで楽しかった。一人暮らしが中心の貴明は、くすぐったい思いに駆られる。こんな空間がある事を貴明は長い間忘れていた……。

 夜になって正人と貴明の布団が同じ部屋に並べて敷かれ、二人はその布団に入った。正人が伸びをする一方で貴明は開口一番に言った。

「……固い。なんだこの枕」

「お前ほんとボンボンだなあ、普通これくらいだよ。お前んちどんだけすげえ枕なんだよ」

「ふーん、でも気持ちいいなコレも。お、あれ僕の服だよな……」

 貴明は部屋の隅に置いてある洗濯物を、布団から這い出て取り、自分の枕元に置いた。正人の分も置いてやった。

「? なにこれ」

 服の中にピンク色のものがあったので、取り上げた。

「わお、あいつのショーツか。過激なの履いてるな~」

 貴明はそのレースが付いているピンクのショーツを正人にも見せた。正人は顔を真っ赤にした。

「佐藤、お前、何するんだよ。恥ずかしいだろ」

 貴明はショーツを横に伸ばした。

「中身が入ってないのに何恥ずかしがってんの? ははーん、さてはお前恵美が好きなんだろ? それで僕をいじめたな?」

「ば、ばか! 違う!」

 貴明は可笑しくてたまらなかった。ショーツを洗濯物の下に置いて、布団にもぞもぞとうつ伏せに潜り込みニヤニヤ笑う。

「いい事教えてやろうか? 恵美の唇柔らかかったぞ?」

「お前! 恵美になんて事するんだよ!」

 貴明は無邪気な笑顔を浮かべる。

「ごめん、あんまりあいつがうるさかったから口封じしたんだよ。拳骨二個くらったけど」

「お前も恵美が好きなのか?」

「は? 別に。うるさいだけじゃん」

 そう言った後で貴明は心の中でそうかなと思った。なんとなく好きになってきている気がする。正人はそんな貴明にあきれるやら腹ただしいやらで、ごろりと布団にうつ伏せになって頭を抱えた。

「佐藤は好きでもないのにキスするのかよ……、信じらんねえ」

 貴明は枕に頬杖をついた。

「お前もさっさとしたら? あいつキスには弱いみたいだよ。硬直してたし」

「馬鹿、好きとも言われないでやったら普通そうだよ」

「ふーん」

 貴明は恵美と同じ事を言う正人に黙り込んだ。外をラーメン屋の屋台が通り過ぎ、その間は騒々しかったがやがてまた静かになった。

「佐藤」

 暗闇の中で正人が言った。

「何だよ?」

「いじめてごめんな」

「あんなのいじめに入らないよ」

 正人が布団の中で貴明の方へ向いた。

「もっとひどいいじめがあったのか?」

 貴明は天井の電灯を見つめたまま言った。

「お前らには縁のない世界でだよ。今日はそれを思い知らされた。僕もできたらこんな家に生まれたかったなあ」

 何もかも恵まれているくせに何を言っているんだこいつは、と、思いながら正人が笑った。

「……だから、決定的なものを手に入れられないんだよ」

 気持ちを読んだ様に自然に貴明が続けると、正人はびっくりして目を丸くした。

「おまえ、人の心が読めるのか?」

「読めるね。読めないと生きていけない」

 母のナタリーが結婚する前、つまり実の父親が生きていた頃は恵美や正人たちのような生活を送っていたように思う。だが、そんな生活の中でも母による英才教育を受ける毎日で、会社を継ぐことを前提に勉強をさせられていた。そしてアメリカで専門の学校へ入れられ、家族の温かさはほとんど味わうことなく過ごした。それを母は後悔しているらしく、日本へ帰ってきてからは何かしらに付け構ってくるが、甘え方を忘れてしまった貴明はそれが鬱陶しくて、一人暮らしをしているのだ。

 笑顔の裏にあるものを常に探れ。

 他人の中で生き続けてきた貴明の、それが第二の本能だった。 

 やがて正人は眠ったらしく一定の息づかいを始めた。貴明は眠るのがもったいなくてなかなか寝付ず、何度も寝返りをした。ふと恵美の笑顔が脳裏に浮かび上がり、恵美に逢いたくなった。

 そっと襖を開けてせまい廊下に出ると、端の部屋から明かりが漏れているのが見えた。深夜だったので足音を殺して歩いてその部屋へ歩いて行く。ドアノブの所に『MEGUMI』と書かれたプレートが下げられているのを見て、なんのためらいもなく貴明はドアを開けた。

 煌々と照らしている照明の下で、低いテーブルの上に身体を預けて恵美が雑誌のページを手を置きながら寝ていた。

「こんな寝方したら風邪引くだろーが」

 貴明は恵美を抱き上げ、部屋の隅にあるベッドに運んで寝かせた。恵美は深く眠っていて起きない。

「…………」

 部屋の中は年頃の女の子らしいモノで満ちあふれていた。白いタンスの上にはいくつかのぬいぐるみ、どこかで見たような俳優のポスターが一枚壁に貼られている。勉強机の上に花がいけられた花瓶。そして写真立て。

 写真立ての中で正人と恵美が笑っていた。体育祭の時なのか二人ははちまきをして体操服を着ている。

 ずきりと胸が痛んだ。貴明は写真立てを倒し、再び恵美のベッドの横に立った。恵美は無邪気な顔ですうすう寝息を立てて眠っている。貴明は無性にその恵美に口づけたくなりひとりごちた。

「減るもんじゃないし、いいよね?」

 貴明はそっと恵美の唇に自分の唇を重ねた。

 次の朝、顔を洗ってキッチンへ入った恵美は驚いた。

 自分より朝早く起きた貴明が、房枝を手伝って朝食の準備をしているのである。見た事も無い笑顔に別人を見る思いだった。貴明は恵美に気づくと挨拶してきた。

「おはよう」

「おはよ……佐藤、あんた早起きね」

「お前が遅すぎるんだよ。僕は毎日朝五時に起きてるよ」

「うそお、たまに遅刻してるじゃん」

「あれは別口、寝坊してるわけじゃない。正人はまだ寝てるんだろ。起こしてきてやる」

 貴明は棚から出した茶碗をテーブルに置いて、階段を昇っていった。恵美はただびっくりして房枝をつついた。

「なあにあれ? お母さん佐藤になんかしたの?」

 房枝は、漬け物を切りながらくすくす笑った。

「もともとあの子はああいう子よ。あんたたちも喧嘩してないで仲良くしなさいよ」

「仲良くしようとしてもあいつ、馬鹿にしてくるんだもん昨日なんてあいつったら……っと……」

 学校の屋上でキスされた事は母親には言いたくない。恵美は顔を赤らめつつみそ汁をお椀によそった。その時二階からドシンともの凄い音がした。房枝は派手ねえと面白そうに笑っている。しばらく経ってから正人が降りてきた。恵美は正人にお箸を差し出した。

「朝っぱら喧嘩?」

「違う、佐藤の奴いきなり布団ごと俺を放り投げやがったんだよ。何だよあいつ危ないなあ」

 後ろから貴明が言った。

「大声で怒鳴っても起きないからだろ。最低五回以内で起きろ」

 朝食が始まった。恵美はなんとなくじいっと貴明を見てしまう。

(なんなの……この穏やかな佐藤は)

 悪魔が悪戯天使になったような感じだった。特に房枝の前では本物の笑顔になる様な……。恵美は隣の正人をつつきひそひそ声で言った。

「怪しいわよね……あいつ」

 正人はこくりとうなずいた。

「佐藤の奴、おばさんが好きになったのかな。ババ専とはしらんかった」

 いきなり箸置きが正人の額に命中した。真向かいの貴明が投げたのだ。

「ババ専じゃないよ。変な事言うな」

「おまえ地獄耳だな~。俺、お前が会社の上司になったら嫌だぜ」

「安心しろ。多分僕は社長になるだけだから、お前が秘書にでもならないかぎり会わないと思うよ」

 房枝が笑った。

「佐藤君ならいい社長さんに成れるわよ。頑張ってね」

「……はい」

 貴明は耳まで赤くしてうなずいた。恵美と正人はどう見ても貴明が房枝を意識している様にしか見えない。

 朝食が終わった後も貴明は房枝の後をついてまわりとても楽しそうだったが、やがてもう帰らなきゃと言って立ち上がった。

「また来てね」

 そう言う房枝に貴明は天使のように微笑み、さようならと挨拶をして帰っていった。

 遠ざかる貴明の後ろ姿を見ながら恵美が母親に尋ねた。

「ねえお母さん、佐藤に何言ったの?」

「別にいつもと同じだけど」

「いつもああしてたら、あいつも友達いるんだろうけどなあ。普段は何様かってくらい人間蔑視がひでえもん」

 正人が頭の後ろに手を組んだ。

 房枝は静かにため息をついた。

「佐藤君みたいな家に生まれると、生きる道が決められてしまっているから意固地になっちゃうのね。今日の佐藤君が彼の本当の姿なんだろうけど……」

 恵美は貴明が住んでいるマンションを眺めた。

 寒空の中ぽつんと建っている姿は、帰っていく貴明の後ろ姿のように寂しげだった。

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