天の園 地の楽園 第2部 第02話
二人はベンチに離れて座り、しばらく何も言わなかった。恵美がどうやって貴明を説得しようかと思って黙り込んでいるのに対して、貴明はそれを聞こうとして黙っているのだった。さっきの時点で負けると思った恵美だったが、この余裕の態度が余計に癪に障った。感情的に流されそうな自分を叱咤し、言葉を選びながら恵美は口を開いた。
「佐藤グループについて……調べた」
「何を」
「不動産と建設、サービス業まである大企業で……従業員数が二万人越えるってあった」
「ふうん、それで?」
恵美は持っているかばんの持ち手を、ぎゅっとひざの上で握った。
「……貴明はその会社を継ぐんでしょ」
「そうだよ。それがどうしたの」
「だから! 私なんかと付き合ってちゃいけないの。かといって私は愛人なんて嫌なの。そしておままごとみたいな付き合いも嫌なの。私は普通でいいのよ。でも貴明は普通の家の人じゃないから……」
大分離れた砂場から、小さな子供の笑い声が聞こえた。
「つまり、僕が家を出て一般的なサラリーマンになれば良いって事?」
「ば、違うでしょうっ。何回も言うけど家柄がつりあってる人と付き合いなさいって言ってるの」
「なんで僕が、そんなの恵美に指図されなきゃいけないの?」
背もたれに両腕をだらりとさげた貴明が、不機嫌な声で呟いた。それがひどく怖いため、恵美は内心で縮み上がったが、落ち着かねばと深呼吸した。
「指図じゃないわ、お願いよ」
「恵美って性悪だよね」
「は!?」
驚いて恵美は隣に離れて座っている貴明を見た。貴明が子供のように口を尖らせながら言った。
「だってそれって皆僕の事じゃない。みーんな家の事ばっかり。僕が嫌いじゃないのに別れるなんて絶対におかしい」
「…………」
それは確かにそうだが、と恵美は唇を噛んだ。
「大事なのは二人の気持ちだろ? 僕は恵美が好き、恵美は僕を好き。それでいいじゃないか。」
「……で、でも私は」
「恵美はさ、先を考えすぎるんだ。もう少し楽観的になればいいんじゃないの?」
「……だから、無理なのよ」
卒業式の時に行ったあの立派なビルが忘れられないし、貴明の人気の高さを思うと、恵美は貴明のように手放しに恋など出来ない。というより自分の貴明に対する想いは憧れの様なもので、恋ではない気がする。しかし貴明はそうではない、その温度差が恵美をさらに躊躇させてしまうのだ。自分が流されやすい性格である事を、恵美は貴明と数ヶ月付き合う事により、やっと知ったのだった。
「……本気なのは僕だけって事か」
くすくすと貴明が笑った。自嘲している様でもあり、恵美の胸に罪悪感が滲んだが、これが本当の気持ちだ。
二人はそれきり口を噤んだ。てっきり貴明が逆上すると恵美は思っていた。しかし貴明は恐ろしいほど冷静で、恵美の身体に触れすらしなかった。それがかえって貴明の憤りを強く感じさせ、恵美は小さな身体をさらに縮こまらせた。
どこからともなく夕餉の匂いが漂ってきた。その匂いは恵美にとっては懐かしさに溢れたものだ。しかし、貴明はどうだろうか。寄宿舎育ちの貴明にこの平穏さがあったとは思えない。家族の事を一切話さない貴明は、この匂いについて恵美と同じ感覚を持ってはいないだろう。きっと家族とうまくいっていないのだ……。
ちかちかと外灯がついた。
いつの間には公園にいるのは恵美達だけになっていた。烏の鳴く声が遠くに聞こえ、夕陽が町並みから消えて、残照だけが薄く残っている。初夏に入ったばかりで夕陽が沈むとさすがに肌寒い。
黙りこんだまま動かない貴明をちらりと見て、恵美は立ち上がった。
「じゃあ、そういう事だか……から」
貴明は何も言わない。恵美はそのまま貴明を置いて公園の出口に向かった。
後ろを振り向きたかったが、もしも貴明が自分を見ていて目が合うと気まずいので、恵美はそのまま公園の外に出た。貴明が追いかけてこないのにほっとしながらも、あっけない別れに拍子抜けもした。一方で寂しいと思う自分も居たが、嫌いで別れようとしているわけではないから当然だった。
あたりはもうすっかり暗くなっている。恵美は帰り道を急いだ。
翌日、よく眠れなかったせいで寝坊した恵美は、二時限目の講義を逃してしまい、諦めてファミリーレストランのバイトに行った。どのみち大学に行ったところで、美樹が貴明との仲についてあれこれ聞いてくるのは決まっていたし、それに答えるのがとても憂鬱だった。
「小川さん、今日は元気ないけどどうしたの?」
バイト仲間の村田公子が、コーヒーカップを洗い場に置きながら聞いてきたので、恵美はあいまいな笑顔で返した。平日なのに何故か今日は繁盛していて、お陰で余計な事を考えずに済んだが、ちょっと間が開くとどっと疲れが出てくるようだった。
このバイトは幼馴染の正人の紹介だった。公子が正人の従姉なのだ。正人は恵美の大学の近くの車の製造工場で働いていて、当然恵美のアパートの近くに住んでいた。まだまだ下っ端の正人は毎日真っ黒けになって夜遅くまで働いたり勉強したりで忙しく、あまり恵美のアパートに来てはくれなかったが、幼馴染の正人が近くに居てくれる安心感が、今の恵美の精神的な支えになっていた。そうでなければ一人暮らしもできていたかどうかわからない。
恵美の仕事は裏方が主で、美人の公子はウェイトレスをしている。恵美が給仕を手伝う事もあるが、大抵洗い場で皿を洗っていた。
「まあいろいろとありまして。ウェイトレスじゃなくて良かったと思っているところです」
「そりゃあ、今の小川さんじゃあちこちで声かけられるわよ」
「はあ……、やっぱり怒られるんですか」
ちちちと公子が人差し指を恵美に突きつけた。恵美は瞬きを繰り返して、皿と泡立っているスポンジを持ったまま公子を凝視した。
「憂い顔の小川さん、男好きする顔なのよ」
「お、男好き? 私、別に彼氏は募集していませんけど」
「ちがーう。もてるって事」
恵美は大笑いした。美人の公子を冗談好きだと思っていたが、ここまでとは思っていなかった。
「村田さんて本当に面白いですね。私がもてる、はははっ」
「……笑いを提供しているわけじゃないんだけど。はあ……無自覚って罪よね」
最近、意味もなく厨房を覗きに来る客が増えた。それは恵美が洗い場で働きだしてからだ。男のバイト達やチーフもちらちらと恵美を見ている。たまにウェイトレスの人数が足りなくて、恵美が駆り出される時などは何故か客が増える。
確かに顔つきは平凡そのものだが、恵美はとても愛くるしい顔をしているし、腰まで伸びている長い黒髪はさらさらとしてさわり心地が良さそうだと、ショートの公子はうらやましく思っている。そして小柄なのに豊満で女らしい身体つきなのが男の目を引くし、何より時々儚げに揺れる目が庇護欲を誘う。勝気なくせに妙にか弱いというギャップが、さらに男受けするのだろう。
(望まなくても、彼氏候補が山ほど出てきそう……)
公子が居る時は公子がけん制しているが、居ない時は要注意だと公子は思っていた。恵美は夜の十九時までしか入らないので、危険は低い方だが油断はならない。
「彼氏出来たら絶対に私に見せるのよ? 変な男だとストーカーになるわよ絶対」
「やだなあ、村田さんてば怖い事言わないでくださいよ。そんな人会った事ありませんから、これからもありません」
「甘い! あのねえ、それは多分幼馴染の正人とか親切な誰かが守ってくれてたのよ! こう言うのもなんだけどあんた無防備すぎ。ちょっと情けを見せてつきあったりしたら、相手は死んでもあんたを離さないよ」
「……死んでもって…………」
恵美はさすがに考えてみる気になった。思えば幼い頃から、ずっと正人がつききりでいてくれた。ひょっとすると正人がいつも守っていてくれたのかもしれない……。それよりもっと気になるのが、死んでも離さないという言葉だ。貴明の魔を感じる目を思い出して、恵美は背筋をぞくりとさせた。あれから電話もメールもないが、貴明は最後まで別れるとは口にしなかった。
つまり、貴明は別れるつもりはないのだ。絶対にまた恵美の前に現われるはずだ。顔を青くした恵美に公子が気づいて言いすぎたと謝ってきたが、恵美はもう上の空だった。
「おーい、恵美いる? 久しぶりにお前のメシ食いたいんだけどー」
厨房に幼馴染の正人がひょいと顔を出した。公子がほっとした顔で正人に振りかえる。
「あら、もうあがる時間なのね。小川さん、ナイトがお迎えよ」
恵美はうなずき帰り支度を始めた。なんとなく貴明の腕に抱かれるような感触がして、心が落ち着かない……。