天の園 地の楽園 第2部 第05話

 恵美はがちがちになっていた。目の前に居る圭吾にどうしても緊張してしまう。大学から少し離れた場所にあるこの喫茶店に入ったのは今日初めてで、静かに流れるクラシックも、人通りから外れた静けさも、モダンな店の雰囲気によく溶け込んでいた。ぶつかった自分が悪いと恵美は謝ったのだが、何故か圭吾がおわびにコーヒーか何かをご馳走したいと言い、逆らえないまま恵美はここに連れてこられた。初対面の人間といきなりこんなふうになってしまい、緊張しないほうがおかしい。一方の圭吾の方はのんびりと椅子に腰掛けて、コーヒーを楽しんでいるようだ……。

「コーヒーは嫌いか?」

「あ、いえ、特に好き嫌いは……」

 ようやく口を開いた圭吾は、顔を真っ赤にしている恵美を見ておかしそうに笑い、一枚のパンフレットを出した。

「こういうものは好きか?」

 差し出されたパンフレットを手に取った恵美は、それが今度の旅行先の近くにある寺院だと気づいた。恵美は歴史全般が好きなので、当然寺院めぐりも嫌いではない。

「嫌いではないですけど」

「そうか……私はとても好きだ」

 何故そんな話を初対面の自分にするのか、恵美は不思議でならない。

「今度の歴史研究会の旅行には行くのか?」

「いえ」

「行かないのか。お前が行くのなら、たまの旅行も悪くないと思っていたんだが」

「お前」と初対面の人間に言われているのに、何故か恵美は怒る気になれず、圭吾の顔を見上げた。切れ長の漆黒の双眸がしっかりと恵美を捉えて答えを促しているのに、どぎまぎしてどう返事したらいいのかもわからない。

「で、も……、今回は彦根より北には行かないって」

「あまり知られていない秘仏が多いんだぞあの辺りは。平安時代には沢山の寺院が建立されていたそうだが、戦国時代の戦火に巻き込まれて寺だけが焼失し、助け出された仏像だけが集めてある施設もあるくらいだからな」

「あの」

 勝手に話を進める男が貴明以外にも居た。だがこの圭吾の方が強引だ。恵美が一緒に行動して当然という口ぶりなのに、どうして許してしまうのだろう。

「……嫌か?」

 圭吾がサークルメンバーに配られていた、旅行の日程表を広げた。

「夜の二時間だけがサークルの行動タイムで、後の時間は個々で思い思いの場所へ行くのだろう? この表を見ると、お前はペアがいないようだが」

「……はい、でも」

 貴明が行くから、旅行は行きたくないと言ってしまった。どうすればいいのだろう。きっと貴明は恵美とペアを組みたがるに違いない。ペアどころかずっと一緒に引っ付いて離れないに決まっている。アメリカンを口にしながら恵美は悩んだ。圭吾と行動したいと思うが、笹川が気をつけろと言った相手だ。この強引さが女を陥落させる手だとしたら、もう自分ははまりかけている。それなのに圭吾という人間に惹かれてならないのだ。

(……あ)

 一方で貴明を思い出し、恵美はとても後ろめたい気分になった。結局自分は貴明の想いから逃げて、彼の想いを踏みにじっているのではなかろうかと。

 圭吾がため息をついた。

「初対面の人間だから嫌か。そりゃそうだろうな、わかった……」

「すみません」

 謝りながらも恵美は残念に思った。きっと圭吾といろんな場所を廻れば楽しいはずだ。こんな短時間で、圭吾の歴史好きが恵美よりはるかに上である事がわかる。話も弾むに違いない。

「スマートフォンを持っているか?」

「え? はい」

「アドレスを送るから登録しておいてくれ。旅行当日気が変わったら、連絡して欲しい」

「……あの」

 もう圭吾は自分のスマートフォンを手にしていた。その真っ黒なフォルムに銀のラインが引かれている機種に、恵美は見覚えがあった。同じ型で貴明が白のフォルムのものを持っていた。一般では見かけないその機種は、セレブの間で流行しているのだろうか。

「アドレスくらい構わないと思うが。笹川教授の知り合いと言うだけで、怪しい身分でないのは保証されていないか?」

「……はい」

 確かに笹川教授が付き合う人間に、やくざな者はいないようだ。先ほどの応対振りからも、笹川教授が圭吾に信頼を置いているのがわかる。それなのに赤外線通信をしながら、恵美は何か引っかかりを感じていた。そう、この男は貴明に似ている部分がある。現に圭吾は恵美の事を知っているが、恵美は圭吾に関する事を何一つ知らされていないのだから。貴明とまったく同じ癖だ。

 聞くのすら憚られる雰囲気が漂っていて、恵美は貴明と同じように圭吾の存在に圧倒されているのだった。それでいて惹かれるのは何故なのだろう。

「あの……上の名前」

 恵美は圭吾の名前を登録しようとした時に、圭吾のスマートフォンが鳴った。二三話した圭吾がレシートを持ち、すっと立ち上がった。

「すまない、急ぎの用が入った。ではまた連絡してくれ」

「え? でも……」

 よほどの急ぎの様なのか、圭吾は勘定をすませるとさっさと店を出て行ってしまった。ぽつんと一人残された恵美は、冷めたコーヒーを前にして呆気にとられた。店内は相変わらず静かなクラシックが流れるだけで、雰囲気は全く変わっていない。しかし、恵美の心には貴明以外の人間が住み始め、なにやら嵐が起こりそうな気配が立ち始めていた。

 結局、すぐスマートフォンに貴明からの着信が入り、恵美は大学に戻った。サークルのメンバーは皆帰っていて貴明しかおらず、恵美はため息をつきそうになった。それでも貴明の隣に座ると、貴明が神妙な顔をして頭を下げた。

「さっきはごめん。恵美に嫌な思いをさせたね。びっくりさせようと思っただけだったんだ」

「そうなの……。もういいわ」

 捨てられた犬のように傷ついた目をしている貴明に、恵美は強い態度に出られなかった。この辺がつけあがらせるのかもしれないが、藪を突いてしまうかもしれないのでこのあたりで許すべきだろう。

「美樹さんもごめんって。午後の講義があるから行っちゃったけど」

「そう」

「あと、ペアの事なんだけど、恵美は単独行動でいいんだよね?」

 机の上の書類を見ながら、貴明が鉛筆をくるりと回した。恵美は貴明が強引にペアを組んでいると思っていたので少しだけ驚いた。それが伝わったのだろう、貴明は気まずそうに笑った。

「強引にペア組んでもよかったけど、恵美に嫌われたくないから止めた。だから旅行には行こうよ、美樹さんも皆もそう言ってた」

「貴明」

「今日は講義はないんだろ? もうお昼だしどこかでご飯食べようよ」

 貴明は自分の鞄にペンケースや書類を丁寧にしまっていく。おそらくずっと恵美を待っていたのだろう。恵美は申し訳ない気分でいっぱいになった。そんな恵美に近づいた貴明が、ふっと顔を翳らせた。

「恵美、煙草のにおいがする……」

「え?」

 きっと圭吾の煙草だろう。恵美は自分の腕のにおいを嗅いだ。……の前に、貴明の手が乱暴に恵美の腕を掴んだ。

「……これ、男だろう?」

 恵美がびっくりしていると、貴明は悲しそうに金色の睫毛を伏せた。

「だめ、だよ。あの圭吾だけは恵美にふさわしくない」

 煙草のにおいで誰かわかるとは、驚きだ。

「貴明、彼を知ってるの?」

「やっぱりそうなんだ……」

 恵美は窓の横の壁に押さえつけられた。見上げた貴明の茶色の目に怒りが乱舞している。

「あいつがどういう男か知らないよね?」

 貴明を怒らせてしまい、恵美は震える声で言った。

「知らないも何も。今日会ったばっかりなのよ。どうして貴明が……っ」

 それ以上は、貴明の唇が重なってきて言えなかった。貴明とのキスはひと月ぶりで一瞬酔ってしまいそうになる。でも駄目だ。自分は貴明を選ばないのだから。歯を噛み締める恵美に貴明が直ぐに唇を離し、両腕をだらりと下げた。恵美は荒い息を吐きながら貴明を再び見上げた。

「ふ……さすがだよね。隠していたってすぐばれる。僕に隠せるものなんて何にもないんだ。大嫌いな人間に一生監視される……、こんな人生が一生続くのかと思うとうんざりするよ」

 貴明の目は目の前の恵美を見ておらず、宙に浮かぶ誰かを見ていた。恵美は一体何の話だかさっぱりわからない。わからないが、その目に憎悪や悲しみが深くたゆっているのを見て息を呑んだ。そうだ、この影が自分は怖いのだ。この影の前では自分は無力で翻弄されてしまう。

 かたんと音を立ててパイプ椅子に座った貴明が、くすくす笑い出した。

「あいつはね、僕の親父」

「……は?」

「この世で一番居なくなってほしい人間さ」

 早生まれで、来年の誕生日で十九になる貴明の父親にしては、恐ろしく若作りだと思いながら恵美は言った。

「お父さんって……若すぎやしない?」

「当たり前だよ、僕の本当の父親はとうの昔に亡くなってる。あれは義父で昨年三十歳になったばかりなんだ。あいつは途方もない女好きでね。会ったからわかると思うけど、女から見たらたまらない魅力を持っているらしいよ。だから僕の母をほったらかしにして、愛人をとっかえひっかえでやりたい放題」

「……でも」

 貴明が机を拳で思い切り叩いたので、その大きな音に恵美は肩をびくつかせた。

「何を言われたのか知らないけど、遊ばれるだけ遊ばれて捨てられるだけだから止めておいた方がいいよ。きっと、僕をめちゃくちゃにしたくて近づいたんだろうから」

 不穏な物言いに恵美は眉をひそめた。本当に同一人物の事を貴明は言っているのだろうか。あの圭吾は女を弄んで捨てるような男には見えなかった。本当に歴史が好きそうで、多少強引だったが不快なものはなかったのだから。

「その……圭吾さんが今回のツアーの出資をしてくださってるって、聞いたわ」

「……ふうん、そう。……僕と恵美について何から何まで見抜いてやがる。嫌なやつだ…………」

 片手で机に頬杖をついた貴明は、ひどく疲れているようだ。さっきは恵美も怒っていて気づかなかったが、貴明の目の下にはくまがあり、いささかやつれ気味で疲労の色が濃かった。恵美は気がついたらこんな事を口にしていた。

「今日も車なんでしょ? そのままで帰ったら途中で寝ちゃいそうだから、私のアパートで休んでいく?」

「……うん、でもね恵美」

 さすがに貴明は断ろうとした。しかし明らかに疲労の極致にいる人間を、このまま高速で一時間も運転させるわけにはいかない。送ってやれればいいが、恵美も運転免許はつい最近取得したばかりで高速で運転する自信がなかった。

「ごちゃごちゃ言わないの! ご飯なら作ってあげるから。布団ならお客さん用があるし仮眠とって帰りなさいよ」

 恵美が優しい声で貴明の肩をぽんぽん叩くと、少しだけ元気が出たのか貴明は優しい笑みを浮かべた。

「うん……、ありがとう」

 恵美の中に渦巻いていた怒りは遠くに消えていた。もちろん圭吾へ芽生え始めた想いも……。どちらにしても、それはひと時だけのものだったのだが。

web拍手 by FC2