天の園 地の楽園 第2部 第06話

 貴明は、恵美が用意した布団に寝転ぶなり、すぐにぐっすり眠ってしまった。身長が百八十センチある貴明に、恵美の用意した布団は小さいようで足先が出そうになっている。恵美は洗濯物をたたんでいたが、ふと貴明の布団の足元の部分に黒革の手帳が落ちているのに気づいて拾い上げた。開いて見るとそれはやはり貴明のもので、時間刻みでぎっしり詰まっているスケジュールが、貴明の多忙さを物語っていた。
 すうすう寝ている貴明は、やはり天使のように綺麗な顔をしている。鋭さや冷たさがなりをひそめた顔はとても無防備で、やっと年齢相応の顔になったと恵美は微笑んだ。それだけに時間を作って逢いに来る貴明の切ない想いが胸に沁みてきて、彼を拒絶する罪悪感がじんわりと広がっていった……。
「……なんでそんなに私が良いの?」
 身体を壊していたら意味がない。恵美は貴明の想いのひたむきさに、泣けてきそうになった。どうして友達では駄目なのだろう。恋人として求めてこなければ、いつだって応えられるのに。こんな必死さを見せられたら決意したものが壊れていきそうで、恵美はご飯を作るためにキッチンに立った。

 貴明が目覚めたのは六時間後で、時計は夕方の五時を指していた。むくりと起き上がった貴明に気づいた恵美は、勉強している机から振り返った。
「良く寝てたね。ご飯食べる?」
 貴明はぼさぼさ頭で無言で頷き、それが妙に可愛くて恵美はけらけら笑った。貴明はいつも車に積んでいるという着替えを持ち、シャワーを借りると言ってバスルームに入った。恵美はその間にご飯を温めなおし、低いテーブルに並べた。暫く経って出てきた貴明は、並べられたご飯にうれしそうに顔を綻ばせ、礼を言った。
「恵美の手料理久しぶり……」
「貴明様のお口に合うかわかりませんけどね」
「何言ってんだか」
 くすくす笑いながら貴明は両手を合わせ、箸を手にとって食べ始めた。安っぽい皿やお茶碗が申し訳なるぐらい、貴明は品よく食べる……が、恐ろしく食べるのが早い。恵美が三分の一も食べない間に自分の分を食べてしまった。
「……よく噛んで食べないとお腹に悪いわよ」
「お腹を壊した記憶がないな」
「呆れた」
 恵美は味噌汁をすすり、静かにテーブルの上に戻した。じっと貴明が見つめているので食べにくい。不意に圭吾を思い出して後ろめたい気持ちに駆られた。やはり彼らは似ている。
「そんなにあいつが気になるかな」
「何でわかるのよ」
 むっとして恵美は言い返した。占い師か何かのように、貴明は時々的確に恵美を見抜いてしまう。貴明が、はあ……と重いため息をついた。
「誰だってわかるさ。恵美、女の顔をしてる」
「女なんだから当たり前でしょ」
「相変わらず鈍感。恋する女の顔だって言ってんの」
 恵美は箸を置いて両手で頬を隠した。女の顔というのは初めて自分に対して聞かされた。
「変な事言うのね。なんでそんなの貴明が知ってるのよ」
「そういう顔で普段からあちこち見られてる」
「……相変わらずなのね」
「恵美じゃなかったらそんなの迷惑なだけだ」
 冷たくはき捨てる貴明に恵美は心底呆れてしまう。もう少し愛想よくしたらいいのにと思っていたが、大学に入っても変わらないようだ。恵美はふと貴明が手にしているジュース缶を見て、ああっ! と叫んだ。貴明はぐびぐびと飲んだ後、面倒くさそうに恵美を睨んだ。
「なんだよ」
「それお酒じゃないっ。どっから手に入れたのよそんなもの」
「酒? 十四パーセントしかないのなんて、ジュースじゃん」
 葡萄の絵が描かれているそれは、確かにジュースの様なデザインだ。でも缶の裏側にこれはお酒ですと大きな字で書かれている。お酒に弱い恵美はとんでもないと目を吊り上げた。
「どーすんのよっ。飲酒運転なんかしないでくれる?」
「しないよ。三時間で抜ける。大体今も酔っ払ってなんかいないよ」
 貴明は更にそのお酒をあおった。
「第一あんたまだ十八歳じゃないっ」
「相変わらずうるさいなあ恵美は。そんなに四角四角してたら生き辛いんじゃない? たまにはジュースで現実逃避したっていいじゃん。今日はもともとホテルに泊まる予定だったし、そのつもりで前もって買ってあったんだ」
「ルームサービスとかあるでしょう。あんたどっちみちビジネスホテルなんて泊まらないでしょ」
「だーれにも会いたくない時があるの」
 恵美は貴明を部屋に入れた自分を後悔していた。酔っ払いと一緒に居るなんて真っ平だ。でも車で来ている人間に帰れとも言えない。もんもんとしている恵美を横に、貴明は自分の後ろに敷かれたままになっている布団にごろりと寝転がり、子供が母親を見上げるように恵美を見上げた。
「……どこも落ち着かない。恵美の傍が一番安心する」
 心底疲れている貴明の声音に、恵美は降参するしかなかった。

 そのまま寝入ってしまった貴明を起こすのは諦め、また食事を再開した。しかしすぐに携帯端末が鳴り始め、恵美は誰だと思いながらディスプレイを見た。あったのは見知らぬ番号だったが、すぐに相手は見当がついた。アドレスだけ登録したのではなく番号も登録してしまったのだろう。名前を入れないまま登録したので電話番号だけが表示されていた。貴明は眠っていたがその場で会話しづらくて、恵美は起こさないようにベランダに出た。
「……もしもし」
『私だが』
 想像通り、圭吾の艶のある低い声が聞こえた。
「はい」
『すまないが、私の万年筆は知らないか? 帰ってきたら無くなっていて、ひょっとするとあの喫茶店で無くしたかもしれないのだが』
 そういえば圭吾は万年筆を手にしていた。しかし、喫茶店を出る時にテーブルの上には無かったように思う。
「見ていません。喫茶店には聞かれましたか?」
『聞いたがないそうだ。……そうか』
 残念そうに圭吾が言い、恵美は笹川教授の部屋かもしれないなとなんとなく思った。一方で、ずっと聞こうと思っていた事を聞きたい欲求にかられていた。本人の姿がない今なら威圧感も感じないから聞きやすそうだ。急にだまりこんだ恵美の耳に、どうしたのかと聞く圭吾の声が響いた。恵美はかなり躊躇ったが、真実をどうしても確かめたかった。
「……あの、貴方は……、佐藤圭吾さんなのでしょうか」
『………………』
「私、貴明さんとお友達なんです」
『………………』
 圭吾は何も言わなかった。圭吾を怒らせてしまったと後悔したが、口から飛び出した言葉はもう戻らない。恵美はじっと圭吾の返事を待った。しかし圭吾が何も話さないまま、アパートから離れた場所にある線路を電車が通過していき、大学帰りの学生二人が、べらべら話ながらアパートの横を歩いていった。恵美は電話を切れない。圭吾も切らない。この間の公園の時と同じような匂いが漂っていて、それらがより一層恵美に電話を切らせなかった。違うという答えを恵美は聞きたかった。
 長い沈黙が続いたが、それを破ったのはベランダの窓を開けた貴明だった。振り向いた恵美は、貴明に携帯端末を素早く奪い取られた。
「恵美に何の用だ。今の愛人の公子さんとやらと遊んでいれば良いだろう? それとも恵美とつながりを持ちたくて公子さんと付き合いだしたのか。僕を会社でどうしようが勝手だが、プライベートにいちいち口を挟まないでくれ。ナタリーには何も言わないくせに僕には言うのか。僕はお前に何も言わないのに」
 貴明の口から公子の名前が出てきて、恵美は目を見張った。公子と言えばウェイトレスの公子しか浮かばない……。言いたいだけ言って貴明が通話を終了し、突っ立っている恵美の腕を引っ張って室内に入った。
 恵美は電話を切られた事よりも、公子の方が気になった。そしてナタリーとは誰だろう。何も言わないとは何だ? 情報が沢山入りすぎて混乱した恵美は何を聞こうか悩んだ。貴明は黙って自分が使った食器を洗い始めた。恵美はご飯を食べる気が失せてしまい、ラップをかけて冷蔵庫に入れた。貴明が濡れている手を差し出したので、恵美は汚れている食器を渡した。手持ち無沙汰に皿を洗い続ける貴明を見つめ、どうやって公子と圭吾の関係について聞き出したらいいのか考えあぐねてしまう。恵美がしようとしているのは、明らかに他人の恋路や家の事情を嗅ぎまわるもので、家族からしたら良い気持ちがしないはずだ。
 やがて全て洗い終わった貴明が水道の蛇口をしめ、シンクの横に掛けてあるタオルで両手を拭いた。
 貴明は怒っているようで、また、何かを思いつめているようでもあった。貴明もきっといろいろと悩んでいるのだろう。恵美よりも状況が読めているだけに、整理する必要があるはずだ。
「恵美」
 名前を呼ばれて、俯いていた恵美は顔を上げた。貴明の鋭い茶色の目に何かを決意したような光が灯り、真っ直ぐに自分を見下ろしている。貴明が身長百八十センチあるのに対し、恵美はとても小柄で百五十センチに僅かに届かない。その体格差に怯えた恵美はリビングの方へ後ずさった。
「逃げないで」
 それはまるで恵美の動きを封じる甘い呪文だった。動けなくなった恵美がそれでも動こうとすると、貴明の手が恵美の腕を掴んだ。
「でもっ……、あ」
 腕を取られリビングへ連れ込まれた恵美は、貴明がさっきまで寝ていた布団に押し倒された。布団はとても柔らかだったので痛くはなかったが、衝撃が恵美を襲っていた。とても優しい手が恵美の驚いている顔をゆっくりと撫で、柔らかい唇が頬に落ちてきた。
「貴明」
「ごめん。もう我慢するの止めにする……」