天の園 地の楽園 第2部 第08話
ゴールデンウィークに入る直前、正人は、公子のマンションに来ていた。慎ましくひとり暮らししていた公子が最近妙に派手になり、引っ越したかと思ったら、引越し先は絶対に公子の給料では家賃が払えそうにない新築マンションである。正人は近くに住んでいる事から、彼女の家族から様子を見に行って欲しいと言われ、仕事帰りの宵闇を縫ってやって来たのだった。
コンシェルジュはつなぎの汚れた上下を着ている正人を怪しんだが、公子の承諾の電話にしぶしぶ彼を通した。三階にある公子の部屋に入った正人は、明らかに様子が違う公子に気づいた。公子は自分の分量をとっくにオーバーしている量の飲酒をしていて、広いリビングにアルコールの臭いが漂っていたのだ。
「……一体なにやってるんだよ。おふくろさんも心配してる」
「まあまあそう怒らないで、お酒でもどーお?」
「酔っ払いか。俺は未成年だからいらねえ。ていうか二十歳過ぎてもいらねえよ」
「なあんだ下戸かあ。つまんなーい」
目のやり場に困る露出が激しい公子のワンピースに、正人は早く退散したい思いに駆られていた。恵美にはこんな公子を見せたくない。公子が自立してしっかりしていたからこそ、正人は恵美にバイト先として公子が勤めているレストランを紹介したのだが、こんな有様では悪影響をうけそうだ。これから海外出張の為に飛行機に乗らなければならない正人は、もう帰ろうとソファから立ち上がった。
「待ってよお。今日はひとりぼっちなの」
「はあ? ずっと一人だろうが」
ここまで言われたら恋人の存在を疑うべきなのに、正人は恵美同様この手の気配に鈍感だった。
「正人くんはあ~、恵美ちゃんとつきあってるんですかぁ?」
「んなわけないだろ。あいつはもう彼氏がいるんだ」
正人は貴明を脳裏に思い浮かべながら言った。あはははと嫌な笑い方をして、公子がお酒が入ったグラスを煽った。
「いるよね~。見た見たこの間~っ。超キレーな御曹司さまだったよね。いいよねえ恵美ちゃん愛されてさあ」
「公子だってそういう相手を見つければいいじゃねえか」
「正人くんはどうなのよー」
「俺? 俺は当分車に命懸けたいね。女はいらねーよ」
「ふーん……男はいいよね、頑張ったら頑張った分這い上がれるもん」
ぐたっと二人かけのソファに横たわった公子は、さらに酒を煽った。そして困り顔の正人にグラスを掲げて、投げやり気味に言った。
「くそばばぁとくそじじぃと甲斐性無し弟に言っといてよ。二度と私に関わるんじゃねえってね。正人くんもあいつらに関わらないほうが良いよ~、都合のいい事しか言ってないサイテーな奴らだから。私一人だけならず者にしてぇ、自分達だけは普通の良い人ですって振舞ってるんだからねえ。うふふふ、いいわよねーカネになる娘が居てさあ」
「……一体何の話だよ?」
公子が、テーブルに音を立ててグラスを置いた。
「あいつらはねぇ。手を出しちゃあいけない相場に手を出して、何千万って負債を作ったのよ。しかもそれうちの工場の運用資金でねぇ。株になんか手を出した事無いど素人が先物取引で一攫千金狙ってさあ、ばっかみたい」
「……まじかよ」
公子の家は、金属部品を作っている小さな町工場で堅実な経営をしていたはずだった。今日、正人がパスポートを実家に取りに戻った時も、近くにある工場はまわっていたし、公子が話しているような気配は無く、従業員達も笑顔だった。
「当たり前よぉ。私の全財産と身体で払ってあげたんだからぁ。工場様も従業員様もクソ野郎どももいつもどおり~っ。私だけがさいってーなのよぉ。あいつらのせいで~今まで積み上げてきたものがパアなの~っ」
「じゃあなんでこんなマンションに……」
公子は白い太ももを惜しげもなくさらけだして、大声で笑った。
「ほんっと正人くんてば世間知らずねえ。いいわあ……」
「もういいよ。事情は出張から帰ってきたら、おっちゃんとおばちゃんに聞いとく。仕事帰りで疲れてるんだろ? 寝たら?」
「うふふふやさしーい……。あの男とは大違い?」
「あの男?」
「私の旦那さまー。って言っても、もうすぐ代わるんだけどね」
「どういう事?」
正人はようやく公子が陥った状況が読めてきた。公子は自分を売らざるを得ない状況に、両親達によって追い込まれたのだ。公子の一家はとても仲が良いのを知っているだけに、よほどの事情が絡んでいるように思われる。
不意に公子の口調が変わった。
「……恵美ちゃんに身辺に気をつけるように言っといて……。あの綺麗な御曹司も恵美ちゃんには駄目だわ、もう手遅れかもしれないけど」
酔っ払いながらも口調が普段に近いものになった公子の肩に、正人は毛布をかけてやりながら眉をひそめた。駄目とはなんだ。貴明は本当に恵美を思っているし誠実な人間だ。公子はそんな正人の考えを嘲笑った。
「正人くんはまだまだ若いから人間が見えないのよね。あの子、綺麗な外見持ってるし確かに誠実そうだけど、心の芯が二つもあるの」
「二つ?」
「そう、永久凍土みたいに凍りついた心と、ぐつぐつに煮えたぎっている地球のマグマみたいな熱い心があるの。まだ子供だから上手くセーブできないのよね……、今のままでは恵美ちゃん確実に巻き込まれるわ」
「……誰だって二面性はあるだろ。第一何に巻き込まれるってんだ?」
公子は毛布に包まってふるふると首を横に振った。
「あの子のは大きすぎるの。でもあの子だってあの男には敵わないわ……、だってあの男は炎そのものだもの。迷いなんて一片もない」
「あの男って、お前を買った男か?」
悲しそうに自分の頬を撫でて顔を傾げた公子は、ちょっと触れたら砂のように崩れていきそうだ……。
「……私を愛してくれないかなーって思ったけど、無理だった。すんごい極上の男でねー……」
「何が極上だ、そんな男止めとけ。いくらなんだよ借金」
「もうないわよ。その男が支払ったもの」
「いくらだよ」
ぽすんと公子はソファの上に寝転がった。
「もういいの。私の役目は終わったから用済み。夢を叶える気は失せたから、おとなしくその男が用意してくれた新しい男と結婚するわ。まずまずの男だしお金には苦労しなさそう……」
「バカ言ってんなっ! やけになるなよ。レストランは……っ」
「今日辞めて来た。もう恵美ちゃんのおもりも必要なくなるし……」
「どういう意味だよそれっ」
公子は大あくびをした。
「ねむーい……もう寝るわ。」
「おい……、ちょっと!」
「大丈夫よ……恵美ちゃんならあの男に捨てられないわ。きっと恵美ちゃんも好きになる……」
ふふふと公子は笑い、さらに話を聞きたそうにする正人を置いてそのまま眠ってしまった。
「なんだってんだよ!」
こんな得体の知れない話を聞くと不安になるし、家族がいない恵美が気にかかる。直ぐに電話したがあいにく留守電だった。貴明も同じでため息が出る。空港へ行く時間は刻々と迫っていたので、正人は諦めて公子のマンションから出た……。とにかくすべては家に帰ってからだと思いながら。
歴史ツアー参加者達は、横浜駅から滋賀の米原駅まで新幹線で行き、そこから普通電車に乗り換えた。当然のように恵美の横には貴明が居て、皆もそれを微笑ましく見ている。人目を引く貴明の容貌に女子の羨望の眼差しがかなり痛いが、貴明なりに配慮してサングラスをしたり帽子を深く被ったりしているので、恵美は何も言えない。電車は観光客と帰省客でごみごみとしていたが、貴明がつぶされそうな恵美を庇ってくれたのでなんとか立つスペースを確保できた。どちらにしろ米原から彦根は隣同士の駅なので、ほんの少しの我慢だ。
「滋賀は空気がなんとなく淀んでるね」
「……湖の湿気のせいだって、なんかのブログで読んだわ」
直ぐに電車は彦根駅に着き、サークルのメンバーも恵美も貴明もホームへ降りた。改札口を通って階段を下りたそこは西出口で、リーダーの佐野がメンバーを集め、これからの説明を始めた。
「午後の七時にこの場所で集合して夜の彦根城を見学します。来ない人は居ないと思いますが、都合が悪くなった人は必ず俺か、サブリーダーの宮野さんに連絡してください。それまで自由行動にします。解散!」
メンバー達は、まず荷物を置きにサークルで予約したホテルに向かった。恵美も行こうとしたが貴明に腕を掴まれた。
「そっちじゃないよ」
「え? なんで」
「別のホテル予約した。親父が居たらどーすんの? 笹川教授も来てるから同じホテルに泊まるはずだよ」
「でも」
「さあ、こっち」
恵美は貴明に導かれるまま、タクシーに乗る羽目になった。車は駅前通りを抜けて彦根城の横を通り過ぎ、琵琶湖の横を走っている道路に出た。
「ちょっとどこにいくの? こんなに離れたら不便じゃないっ」
「大丈夫。二十分ぐらいだよ」
ようやく貴明はサングラスを外した。貴明の横顔の向こうに、優しいなだらかな山脈と琵琶湖の水色の水面が見える。恵美はこんなに大きな湖を見たのは初めてで、思わずじっと見入ってしまった。しかし貴明は景色には興味ないらしく、俯いてスマートフォンで何かををチェックし始めた。恵美はそれを見てなんだか物足りないと思うのだった。
ほどなくして湖岸に建てられている白いホテルの玄関前にタクシーは泊まり、貴明が恵美の分の荷物を持って、さっさとフロントに行きチェックインの手続きをした。結局こうなるんだと恵美はあきらめながら思い、でも一方で圭吾と同じホテルで出会ったりしたらどういう顔をしたらいいのかわからないから、これでよかったのだと思い直した。エレベーターに乗り宿泊する部屋に入ると、恵美は喉が渇いたので持って来た水筒を取り出した。
「貴明もお茶飲む?」
「んー……寝たい」
眠そうな顔の貴明は靴を脱いで、まっすぐにベッドにダイブした。
「寝るんならシャワー浴びてからにしたら?」
「起きたら浴びる。あ、誰が何と言ってきてもドアを開けたら駄目だよ?」
「何で?」
「絶対に親父の手先だから。……わかった?」
ごろりと転がって、恵美を見た貴明の目は笑っていなかった。恵美は胸がちくりとしたが、だまって頷き、貴明が寝ているベッドの横の椅子に腰を掛けてお茶をゆっくりと飲んだ。