天の園 地の楽園 第2部 第09話

 午後の四時過ぎに恵美は貴明に揺り動かされて目覚めた。すっかり寝込んでいたようで、恵美は目を擦りながらゆっくり起き上がった。貴明はシャワーを浴びたようでスッキリしている。

「ごめん、一時間くらいの予定がかなり寝ちゃってた」

 貴明が謝った。

「……いーよ。それより猛烈におなかすいてるんだけど……」

「レストランが一階にあるからそこへ行こう」

 恵美と貴明は再び一階へ降り、二つあるレストランのひとつの方を選んで入った。そこで恵美は公子を見かけてびっくりした。公子は職場の姿からは想像もつかないような派手やかなスーツを着て、セレブの様な見知らぬ若い男と食事をしていた。公子は恵美に気づいたが知らぬ振りをして視線を逸らした。二人から遠く離れた席に座った恵美は、知らぬふりをされたショックで、メニューを選ぶ気にもなれない。

「……恵美が気にすることじゃあないよ。向こうが勝手に負い目感じてるだけなんだから」

 貴明が小さく囁いた。恵美はうなずいたが、なんだか納得がいかない。

「わかってないね。あの女は佐藤圭吾からあの男に下げ渡されて、それが恵美にばれてると思ってるのさ。まともな神経持ってたらああなって当たり前」

「……なにそれ?」

「そのまんまの意味」

 中年のウェイトレスが来たので、貴明は会話を中断して近江牛の定食を頼んだ。恵美もあわてててんぷらの定食を注文する。ウェイトレスが立ち去ると、再び貴明は言った。

「一緒に居るのは、つい最近うちと取引始めた不動産会社の専務だな。成る程、お互い利益があるわけだ」

「利益?」

「あの女はあの男の妻か愛人として安心した生活を、あの男は美しい女とうちとのパイプの強化を、親父は飽きた女を厄介払いできた上に手下を増やして新しい金儲け先を囲い込む……と」

「……」

 恵美は氷が入った水を飲み、どこか幸せそうでない公子のさっきの顔を思い浮かべた。レストランではあんなに生き生きしていたのに見る影も無い。バイトに久しぶりに入った日に、チーフから公子は結婚が決まったから辞めるらしいと聞かされただけで、恵美は何も詳しい話を聞かされていなかった。お祝いを贈ろうにも電話番号も住所も知らなかったのだ……。

「僕達じゃどうしようもない。人は所詮自分の事で手一杯さ」

 貴明が冷たく切り捨てた。それは確かにそうなのだが、恵美は貴明の中に経営者の非情な一面を見た気がした。

 食事を終えて恵美はちらりと公子達が居たテーブルを見たが、もう二人の姿は無かった。楽しいはずの旅行がなんとなく味気ないものに感じ、彦根駅へ向かうタクシーの中で恵美はため息をついた。行きは空いていたのに今ははひどく車が混んでいてなかなか進まない。貴明が早めにホテルを出たわけがわかった。湖はいつもは夕陽に映えて美しいらしいが、あいにく曇っていて灰色に見えるだけだった。

 駅前でタクシーを降りた恵美は、メンバーが集まっているところへ走った。時間は午後7時でギリギリ間に合ったという感じだ。

「おそいわねー、お楽しみだったの?」

 美樹が意味深に笑いながら言う。恵美は何のことやらさっぱりわからないので、寝てただけだと言い余計に美樹達を喜ばせた。女子達の騒ぎを横に、恵美はぼんやりと戦国の武士の銅像を見上げた。貴明が言った。

「井伊直政だよ」

「彦根藩初代藩主の? どんな人だったか貴明知ってる?」

「うーん……歴史は興味ないから知らない」

 貴明は相変わらずそっけない。恵美はつまらなくなって黙り込んだ。そんな二人を見て、美樹達は仲良くしすぎて疲れたのだと下世話な話をしていた。やがて佐野がやって来て全員の集合を確認し、見学する彦根城までぞろぞろと歩き始めた。夕闇が深くなっていて、車や商店街のライトがないと何も見えない。観光地なので人通りはあったが、東京ほどの人混みはなかった。恵美は貴明の隣を歩きながら視線を動かして笹川教授の姿を見つけた。教授は二人の男子学生に挟まれて、楽しそうに何かを話している。恵美の目当ての人物はいなかった。

(当然といえば当然か。親子で参加なんて変だものね)

 結局は貴明の警戒しすぎだと恵美は思った。考えてみたらちょっと会話をして、歴史好きで話があったからメルアドを交換しただけだ。向こうにとってはそれ以上でもそれ以下でもない。ただ勝手に恵美が恋をしただけの話で、恵美から何かをしなければ何も起こるわけが無いのだ。

 恵美はライトアップされている城を眺め、なんだか幽霊城のようで気持ち悪いと思った。貴明は恵美がサークルメンバーに囲まれているので安心したのか、同じ大学の連中と懐中電灯の明かりの下で何かの本を読んでいた。夜の城は天守閣の観覧が禁止されているので、皆、堀の傍でいろいろな論議に花を咲かせている。なんとなく疲れた恵美は、木造の橋に凭れて、ライトの光のせいで見えない曇りの夜空を眺めた。

「彦根城の石垣は、あちらの佐和山にあった城から移動して来たものだと知っているか?」

 聞き覚えのある男の声に恵美はぎょっとした。いつの間にか隣に圭吾が立っていた。サークルメンバー達が次々に歩いていくのに、圭吾に腕を取られた恵美は逆の方向へ歩かされていく。

「こ、困りますっ」

「教授の許可は取ってある」

 車通りがほとんどない、ぽつんと外灯があるだけの静かな道まで歩いてくると、圭吾は恵美の手を離した。横に城の石垣の壁があり、恵美はたまに通りかかる車のライトに照らされて浮かび上がる、ごつごつとした石に触れた。その小さな手に圭吾の大きな手が重なり、恵美はかっと自分の身体が熱くなった気がした。

「初代藩主の井伊直政について何か知っているか?」

「……徳川家康に信頼されていたと。娘婿を徳川家康の次の将軍に据えようとしたとか……」

「そうだな。そんな意見するのが許されるほど信頼されていた。本多忠勝や本多正信らに隠れてあまり表には出てこない人物だが、優れた外交手腕の持ち主だったそうだ。なにしろこの近江は朝廷と大坂を初めとする西国の連中を見据える拠点だからな。だから城のつくりも実戦用に作られている……。徳川譜代というのは大体与えられる石高は十万石程度だが、井伊には三十万石だ。どれほどの好待遇かわかるか?」

 知らない話を圭吾から聞き、恵美は暫く戦国時代に飛んでいたような気がする。そして暫く経ってから、ようやく圭吾の手が重なっている事を思い出した。背後の圭吾が照れくさそうに笑った。

「私は建築に関してはほとんど素人だ。だから社長になった今でもこうやって時間を作って出歩いている。調べれば調べるほどいいものだな……」

「ええ、そう思います……けど」

 ふいに圭吾の身体が後ろから密着し、圭吾が恵美を押しつぶすようにして石垣に耳をつけた。不思議な事をすると思いながら恵美も同じようにしてみた。

「なにか、過ぎ去った時代を感じるような気がしないか?」

 圭吾の声がひどく心地いい。恵美は小さくうなずいた。歴史の遺跡に訪れるたびに恵美はその時代に想いを馳せ、当時の人々と同じ場所に立って、その人々の呼吸を感じるような気がするのだった。彼らが居たから今の自分が居る。それがなんともいえない喜びだった。恵美がそう言うと、圭吾がよくわかると言いながら身体を離した。

 車が時々通るだけでそこは本当に暗かった。恵美は何故自分が圭吾を恐れないのか不思議だった。それよりももっと触れてみたい……、心に浮かんだその願望に恵美は恥ずかしくなった。

「……近くに、昼に見つけた隠れ場のような店があるから行くか?」

 恵美は首を横に振った。彼は妻帯者なのだから、二人きりで出かけるのはおかしい。仕事相手でもないし友達でもない。

「貴明から、私の事を聞いたようだな」

「やはり貴方は佐藤圭吾さんなんですよね?」

 走ってきた車が二人の横で止まった。それは黒いキャデラックで、運転手が出てきて後部座席のドアを開けた。

「乗れ」

 先程とは温度が違う圭吾の声の低さに、恵美は怯えて後ずさった。しきりに警告音が頭の中に鳴り響く。

「全てを知りたいと思うなら乗れ。公子についても聞きたいだろう?」

「ここで話せばいいと思います。事情が事情だけに乗れません」

 ライトに照らされた圭吾の顔が苦笑した。そんな笑いでも圭吾の男のしての魅力が恵美を押し包んだ。その隙だった。恵美の背後に立った運転手が、薬品を染み込ませたハンカチを恵美の鼻と口に押し当てた。驚いた恵美が押さえつける腕を離そうとしても、それは一瞬の抵抗に過ぎず、すぐに目の前の闇が本当の闇に変わって行くのは止められなかった。ぐたりと気を失った恵美の身体を圭吾が横抱きにして、後部座席に横たわらせ、自分も乗り込んだ。車が滅多に通りかからないその場には誰もおらず、キャデラックが走り去った後はしんとして静まり返った。

 キャデラックは国道の車の群れの中を走っていく。恵美は圭吾の膝に頭を載せられて眠っていた。圭吾のスーツのポケットに入っていたスマートフォンが着信し、圭吾は相手も見ずに出た。

「……小川恵美さんは急用が出来て東京に帰りたいと言っています。ええ。愚息にもそのようにお伝えください。旅行ツアーはあと数日ありますから。はい。いえ、とんでもありません、出資しているサークルの方をお助けするのは当然です。では……」

 通話を切った途端、またスマートフォンが鳴った。着信音が通常とは異なるそれに、圭吾の口元に意地の悪い笑みが浮かんだ。

「必死に探し回っているようだな。ああ、無事だとも……よく寝ているが。このまま佐藤邸に帰る予定だ。お前はお前の用事があるだろう? ナタリーがどう言おうと関係ないな、お前の相手がどうこうというのなら関係はある。ナタリーはお前とこの女との交際に大反対だ。言っておくが気がついたのはナタリーであって私ではない」

 スマートフォンから聞こえる貴明の声はとても乱れたもので、圭吾はおかしくてたまらなかった。いつも氷のように冷たくて小憎らしい愚息は、それ程この娘にいれ込んでいるのか。自分は面白いおもちゃを手に入れたようだ……。

「ちょうど私の隣の部屋を改装したから、そこにしばらく住んでもらおうと思っている。なに……手荒にはしない、反抗しなければの話だが」

 そこで通話を切り、圭吾は柔らかな恵美の身体を抱きかかえた。数日で飽きた公子は他の男に押し付けられたし、当分はこの娘で遊べそうだ。普段から圭吾は貴明が気に食わない。どれだけ業績をあげても、結局は貴明が後を継いでかっさらう事が決まっているのだから、面白いわけが無い。その貴明の弱点を手に入れたのだから、思う存分楽しませてもらおう。

 圭吾と恵美が乗っているキャデラックは、そのまま彦根インターから上り線に入り、東京へ向かって走っていった。

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