天の園 地の楽園 第2部 第16話

『そうか、元気でやってるんだな。安心した』
 久しぶりに聞く正人の声に恵美は癒されていた。あと三ヶ月ほどドイツに行っているという正人に会うのは難しい。でも携帯での通話は可能だ。恵美は貴明から渡された携帯で正人と久しぶりに話をしていた。蓼科から無事に貴明のマンションへ移動して一週間ほどが経過している。
『佐藤とはうまくいってるのか?』
「うん……」
 圭吾の愛人にされたり、貴明のマンションで引きこもり状態になっているとはとても言えない。もしも正人が本当の兄だったなら、恵美はなりふり構わず正人に助けを求めただろう。でもどれだけ仲が良くても正人は他人だ。それに夢と会社の責任の一端を背負って渡独している正人に、帰国させるような願いなどとても言い出せたものではなかった。
『良かった。公子が変な事言ってて心配だったんだ』
「……なんて?」
『お前が危ないだの、佐藤が冷たいのに熱いだの。あいつ、どっかの金持ちの愛人やってたらしくてさ、それも家の借金の身代わりらしくて。あいつの様子も気になるんだけどお前知らない?』
「公子さん、バイト辞めちゃったし」
 正人は恵美が公子の境遇に驚かないのを、不思議に思わなかったようだ。もともとそういう機微に彼は疎い。
『そうかー。まあとにかくお前と佐藤はうまくやれよ』
「うん。正人もがんばってね」
 通話を切り、恵美は携帯端末をテーブルの上に置いた。正人や高校の友達には連絡できるのだが、大学で知り合った人々とは連絡しないほうがいいと貴明に言われている。貴明によると、笹川教授が一番話してはいけない相手らしい。笹川が研究費のために、圭吾へ自分を売り渡すような真似をしたとは信じられなかった。しかし貴明がそんなつまらないうそをつくわけがないし、思えばあまりにスムーズすぎた誘拐に笹川の関与があったのは否めない。
 お金や権力は人を狂わせる。お金を手に入れたら幸せになれると人は錯覚を起こしている。確かにないよりあったほうがいいが、圭吾も貴明もとても幸せには見えない。形が見えない愛という存在が欠けた心は、形があるお金では完全に満たせない。
 とにかくアメリカへ行くまでの我慢だと貴明は言った。アメリカは貴明が長年住んでいた国で親しい人が多いのだと言う。そう言われる度に恵美の心は深く沈んだ。
 歴史に造詣が深い恵美にとって、建国してわずか数百年のアメリカは興味がわかない国だった。そして、出来る限り美しい英語を習いたい恵美が行きたい国はイギリスで、ロンドンにいずれ留学したいと思っていた。アメリカではその夢は果せない。アメリカ英語は一応英語だが夢とは大きな隔たりがある。恵美の夢はアメリカにはないのだ。それとなく打診してみたが、貴明の気持ちはイギリスには向かないようだった。やはり人脈があるアメリカのほうが起業もしやすいのだろう。
 一番心が沈むのは、貴明が永住を匂わせてくる点だ。恵美は数年なら海外にいてもいいが、将来的に住むのなら日本が良い。
 圭吾が自分をあきらめてくれれば、すべて解決するのにと思う。貴明やナタリーへの嫌がらせに利用されるなどまっぴらだ。しかし、どんな人間であれ救いの道は残されるべきだと思っている恵美は、圭吾の想いが報われることを祈っていた。そうすれば不幸な望みが消えて幸せになれるのだから。

 インターフォンが二回鳴り、恵美は貴明が来たのだなと思いながら玄関へ向かった。鍵が解錠される音がして貴明が入ってきた。
「ただいま恵美」
「……おかえりなさい」
 貴明が行儀悪くソファに脱ぎ捨てたスーツを拾った恵美は、何か違和感を感じた。何がどうというのではないが、何だか知らないものが混じっている気がする。
「どうしたの恵美?」
「ううん、なんでもない」
 ハンガーにスーツをかけ、恵美は作っておいた夕食をテーブルに並べた。外出不可能なマンション生活で唯一の気晴らしは料理だった。多趣味な女性ならば手芸や広いベランダでガーデニングなどをするのだろうが、恵美はどちらとも嫌いだったし、どちらかというと完全に屋外で活動するほうが好きだった。
「ごめんね。料理なんてやらせて」
「いいの。私の趣味って料理くらいだから」
「うん。後もう少しの辛抱だからね。今日、アメリカの親友のベンと連絡を取ったよ。向こうは大歓迎だって」
「そう……」
 恵美はテーブルに座り、お箸を手に取った。貴明が湯気を立てている味噌汁を静かに飲んだ後、おいしいと微笑む。その無邪気な表情が恵美は大好きだった。
「ベンもフィアンセがいるんだって。あいつ、ボーディングスクール時代から寄宿舎抜け出してよくナンパしてたけど、どうやってご令嬢を射止めたのか気になるよ」
「……ボーディングスクールって何?」
「え? 簡単に言ったら寄宿舎つきの学校だよ。僕が行ってたのは将来経営者になる奴が行くような学校だった。世界中の企業家の子供がわんさかいたよ」
「ふうん……大変そうね」
「ベンとはいつも主席争いしてたなあ。でも友達だったんだ。今は僕と同じで大学生だよ」
「へえ」
 こんなに流暢に過去を話す貴明は珍しい。よほどアメリカ生活に期待しているのだろう。夕食を終えて食後のデザートを食べている時に貴明が言った。

「ねえ恵美」
「うん?」
 珈琲ゼリーに生クリームを混ぜながら、恵美は貴明に返事をした。なんとなく気まずい話を貴明が言いそうな気がしたので、目は珈琲ゼリーに落としたままだった。
「アメリカに行ったら、僕と結婚してくれる?」
「……何言ってるの。冗談もほどほどにして」
 恵美は笑いながらゼリーをスプーンにすくった。
「冗談じゃないよ。アメリカに行ったら僕はただの貴明になる。旧姓の石川に戻ろうと思ってるんだ。そうしたら恵美の言う御曹司じゃなくなるんだ」
 黙って恵美はゼリーを食べた。痛いほど貴明の視線を感じるが、あの鷹の目に見入られたら最後だ。
「恵美は御曹司の僕が嫌だから別れると言ってた。だからいいよね?」
 急き込んだように言う貴明の必死さが恵美は怖い。恋人ならばまだしも結婚となると話は別だ。恵美の決意は変わらない。
「何度も言ってるわ。結婚は駄目」
「ただの貴明でも?」
「そう」
「どうして? 僕が嫌いになったの?」
「そうじゃないわ。私の事情が変わったの」
 恵美はスプーンを置いて両手を重ねた。左手に貴明の指輪が光っているのを見て、やはりそのつもりだったのかと思いながら言った。
「私はもう圭吾の愛人だった過去を消せない。貴明に普通のサラリーマンが出来るとは思えない、きっと経営者になるでしょう?」
「…………」
「貴明ならきっと立派な社長さんになって、企業を大きく出来ると思う。貴明は頭も顔も運もあるし……きっとそうなる。そんな人の奥さんが私みたいな汚い女じゃいけないの」
 貴明が椅子を立ち、恵美の横の椅子に座った。
「汚くなんかない。そんな事言わせない」
「貴明の前では言わないわよ皆。私は自分のせいで貴明が陰口をたたかれるのは嫌なの」
「僕は気にしない」
「私は気にするの」
 椅子を立とうとした恵美は、貴明の腕に抱きしめられた。その時に恵美はさっきの違和感の正体がわかった。貴明から別の女のにおいがするのだ。それはメイドのあすかのものだったが、恵美は彼女を知らないし貴明との関係も知らない。ただ、においが移るほどの関係であることはわかる。貴明はきっとこれからも女性にもてはやされるし、こうやって自分に愛をささやきながら他の花を見繕うに違いない。結局圭吾と同じだ。圭吾は飽きたら捨ててくれるらしいが、貴明はどうだろう。
 恵美は一人の女性として一人の男性にずっと愛されたいのだ。たくさんの中の一人など真っ平だ。
「絶対に駄目、結婚はしないわ」
「……じゃあもし、僕の子供を宿したとしたら?」
 声の温度が低くなり、恵美はその考えにぞっとした。貴明の手が恵美の胸を服の上からゆっくりと包み込んだ……。
「大きくなったね。親父に抱かれたせい?」
「貴明まで圭吾のような真似をするの? どうして……」
 恵美は何度もつばを飲み込んだ。震える恵美にくすくすと貴明が笑った。あの無邪気さは消え、妖しい美しさだけが際立つ怖い笑い方だ。
「冗談だよ」
 声は柔らかくなったが、貴明は恵美が欲しいらしく、そのままブラウスの襟を捲って肩に吸い付いた。同時にスカートを割った指が下着の上から局部を押した。恵美は身体を捩じらせて止めようとしたが貴明の指はそのまま下着の脇から進入して柔らかな秘肉を撫でた。
「今、嫌……」
「欲しいんだ。恵美が今」
 びくともしない腕が怖い。圭吾と同じだ、何もかも二人はそっくりだ。
「やめ……え」
 圭吾とは違う指の動きに恵美の身体は敏感に反応した。往復する指に秘唇が火照って緩み、蜜を滲ませ始めた。
「ん……ううっ……はっ」
 急に愛撫が止み、横抱きにされた恵美はそのままリビングを出て寝室のベッドに寝かされた。服を脱がせる手は優しかったが、どことなく乱暴だった。見上げた貴明はとても切羽詰ったような表情をしている。全裸になった貴明に身体を押し付けるように抱きしめられ、息が苦しくなった。
「はあ……っ」
 誰かにすがろうとした恵美は、すがりたかった貴明にもうすがれないのだと気づいた。なぜか圭吾の姿が浮かび上がり、自分の気持ちに恵美は慌てて蓋をする。
「恵美、大好きだよ」
 熱っぽい目の貴明がキスをする。あの初めての時のような雰囲気は消え去り、貴明は慣れた手つきで恵美を快楽の高みへ押し上げていく。誰も彼もが夢や未来へ向かって変わっていくのに、自分だけが取り残されている……。
(愛される資格なんてないのに)
 流れた恵美の涙を、貴明が優しく吸い取った。