天の園 地の楽園 第2部 第19話

 瑠璃は、沢山いる恋人の一人の男の腕の中で、にんまり笑った。
「未練がましいブス女。生まれが卑しい会社社長。女の価値のわからない馬鹿御曹司。この先どうなるかせいぜい楽しませてもらいますわね、うふふ……」
「何の話だよ?」
「うふふふふ、なーいしょ」
 ソファの上で恋人の愛撫に身をゆだねながら、瑠璃は楽しそうに身をくねらせた。今頃貴明は、義父の圭吾の手痛い制裁を受けているだろう。自分という美女に目もくれず、あんなくだらない女を愛した報いだ。

 実の所、瑠璃は貴明に一目ぼれしていた。ドイツの伯爵家、シュレーゲルの血を引く美しい御曹司。難関の星京大学にストレートで主席入学できるその頭脳と、発展して行く佐藤グループの次期社長という輝かしさだ。天使のように美しい貴明を自分の夫に出来たらさぞ愉快だろうと胸が踊ったのだが、貴明はあのどう見てもつまらない、平凡女の恵美が良いのだとお見合いの席で言った。

 そこで瑠璃は貴明と手に入れるために、貴明の意に沿う提案を持ちかけた。自分も愛する男が居るのだが、厳格な父親は許してくれそうもなく、隠れた付き合いをしているのだと。実のところ瑠璃の父親は放任主義で、瑠璃が複数の男たちと乱れた関係でつきあっても、文句を言わない男だった。つまり、貴明との協力関係は瑠璃はばれても全然困らず、子供だましの茶番劇に過ぎなかったのだ。
 おそらく貴明もそれはわかっていたから、期限などをつけたのだろう。

 貴明の失敗は、瑠璃が自分を手にいれようとしているとは、夢にも思わなかった事だ。貴明は、佐藤貴明という人間の価値を見誤っていた。一般の女ならともかく、富も権力もある家の令嬢の目には、己など、沢山居る金持ちの男の一人にしか過ぎないだろうと思い込んでいたのだ。

 男女関係のそれに鈍い貴明に、瑠璃はマンションに居る間中、それとなく何度もモーションをかけたが無しのつぶてで、だんだんと貴明に対する不満が高まっていた。そこへ昨日の恵美の言葉だ。この平凡女は一体何様のつもりだと不満が爆発し、謝罪に来ない貴明も許せなくなり、気がついたら義父の圭吾に電話を掛け、すべてをばらしていた。
 しかし、圭吾の返事は『知っている情報はいらない』とこちらを馬鹿にしたもので、さらにまた頭に来たが、所詮圭吾も下賎な人間だと思いなおした。

 見ているだけでむしゃくしゃした、貴明と恵美が引き離せて良い気分だ。恵美の圭吾へのおびえようは面白かった。今頃は圭吾にめちゃくちゃにされて、めそめそ泣いているだろう。使い捨てにヤられまくって、再起不能な売女になって、最後にはやくざに売り飛ばされて死ねばいい。

「瑠璃、さっきから本当に一体何なんだよ? にやにや笑ってさ」
 男の手が止まる。瑠璃は舌を可愛く出した。己の魅力を十分に理解しているのだ。
「ごめーん。蛆虫が一掃出来て気分がいいの」
「ここは綺麗だろ?」
「綺麗な場所なのに沸いてたの。定期的に点検しなくてはね……」
 恵美の男心をそそらせる風情を思い出すたびに、瑠璃は吐き気をおぼえる。下品極まりない女に位置づけられた恵美は、瑠璃には蛆虫同然なのだった。


 佐藤邸の一室では、瑠璃の想像以上の暴力が展開していた。
「止めて! 止めてくださいっ」
 あすかは男たちに取り押さえられながら、必死に叫んだ。その隣には煙草の煙をくゆらせた圭吾が、ゆったりと壁に凭れている。切れ長の目が見ているのは床に倒れている貴明だった。わずかに指先を動かす貴明に、圭吾が言った。
「……それくらいでくたばってどうする? この女が男にめちゃくちゃにされていいのか?」
「お願いです圭吾様。このままでは貴明様が死んでしまいます」
「急所は外させている。死にはしない」
 そんな言葉はとても信じられない。あすかは自分の胸を淫靡に撫でる男たちの手よりも貴明が心配だった。恵美の置手紙を見た貴明が屋敷に帰ってきたのが深夜三時だ。たまたま夜勤だったあすかは貴明に叩き起こされて、恵美が圭吾の元に戻ったのを知り、大急ぎで着替えたところで部屋に男たちがなだれこんできて、いきなり圭吾の命令で集団リンチが始まったのだ。逆らえばあすかを男たちに犯させる、動けなくなっても同様だと言われ、貴明は暴力を甘んじて受け続けている。これは圭吾の愛人を奪って逃亡を謀り、さらに会社を捨てようとした事への制裁だった。
 貴明が立ち上がろうとした途端、男の一人が、倒れている貴明の顔を横から蹴り、歯が何本か折れて鮮血と共に飛び散った。
「ぐ……」
 仰向けになった貴明の腹を別の男が思い切り踵で突き、もう何も出せない貴明の口から胃液と同時に血も流れた。それでなくとも貴明の顔は至るところが殴られたり蹴られたりして腫れ上がり、頭から流れる血で赤く染まっていた。
「が……あっ」
「貴明様っ」
 ここにいる数人の男たちはいわゆる圭吾のSPのようなもので、いずれも海外で実戦経験のある者たちばかりだった。人を痛めつけるのに慣れている彼らが、一時間近く抵抗しない貴明を弄り続けている。
「お願いしますっ、私はどうされようと構いませんから!」
 本当にこのままでは貴明は死んでしまうとあすかは必死だった。しかし懇願だけでは止めそうも無い圭吾に、あすかは言い方を変えた。
「ナタリー様にどういいわけなさるおつもりです! 貴明様を再起不能にしたら、ナタリー様のお怒りは……」
 鋭い眼光を浴びてあすかは口を噤んだ。しかしここでひるむわけにはいかない、このままでは確実に貴明はなんらかの後遺症が残り、健康体には戻れない。自分をどうにかしたいのならどうにかすればいい、どのみち借金のかたに圭吾に捧げられたようなものだ。家族は誰も悲しまない。

 あすかの覚悟を是と見たのか、圭吾は男たちを止めた。
「お前は、貴明に最後まで利用されるつもりか?」
「貴明様はお優しいお方です。どう利用されても私は構いません」
「こいつの頭にあるのは別の女だ。振り向きもしない男に人生を投げるつもりなのか?」
「それで貴明様が助かるのなら」
 一点の曇りも無いあすかの目を見つめた後、圭吾はあすかを開放させ、貴明を佐藤邸内の病院へ連れて行くように言った。
「……それだけの忠誠心があるのなら、貴明の暴走を何故止めなかった?」
「貴方のなされようは酷過ぎました」
「それはお前が見ていられなかっただけだろう?」
 あすかは、はっとした。圭吾の顔には嘲りも何も無い。 
「愛しているのに奪い取る度胸が無いのなら、さっさと諦めてしまえ」
「ご自分ができない事をおっしゃらないでください」
 圭吾は苦笑した。
「死んだ人間には勝てない」
「…………」
 そうではない事をわかっていながら圭吾は言った。おそらく生きていたとしても、ナタリーは圭吾には振り向かなかったと断言できる。絵の才能しかない田舎の農夫が、どうやってナタリーの心を手に入れられたのかずっと圭吾はわからなかった。しかし恵美に出会ってからなんとなくわかる気がする……、おそらく相手の中に自分では永遠に手に入れられない、不可侵な聖域を見たのではないかと。
「貴明についてやれ。だが怪我が治ったら離れたほうがいいぞ、今ならいくらでもやり直せる。他の誰かに愛されているのならそいつを選ぶべきだな」
 あすかは圭吾に頭を下げて、佐藤邸内の病院へ向かう担架に乗せられた貴明について行った。まだ夜明けまで屋敷内は薄暗い。そこは佐藤グループの社員ならびに縁者だけが受診できるところで、外来診療は行われていない病院だった。担架に乗せられている貴明は微かな呼吸があるだけのかなり危険な状態で、すぐにそのまま集中治療室へ運ばれた。

 圭吾はメイドの夜勤の部屋を出て、自分の部屋に戻った。そこには早くも貴明のリンチを聞きつけたナタリーが待ち受けていて、いきなり圭吾は頬を平手打ちにされた。
「貴明にあんな大怪我をさせて一体どういうつもり!?」
「……あの娘とアメリカに逃避行の計画をしていたんだ。あれくらいは当然だ」
 怒ったナタリーがさらに頬を張った。圭吾はかわさずにそれを真正面から受け止め、小さく笑った。それがますますナタリーの怒りを買い、今度は手の甲で反対側を張られた。
「全治二ヶ月の重症よ! 歯は何本も折れて義歯を入れなきゃいけなくなったし、左腕なんかは複雑骨折してるわ! 打撲がひどい上に裂傷がいくつもあって……、いくらなんでもやりすぎでしょう!」
「………………」
「あの子は大事なこの会社の跡取りなのよ。傷物にされたらたまったものじゃないわ!」
 圭吾は黙ってナタリーの横を通り過ぎ、隣の寝室に入った。圭吾の大きなベッドには怪我の手当てがされた恵美が眠っていた。恵美は走行中の自動車と衝突したものの、相手が徐行運転をしていた為軽症だった。ただ、手と足にいささか深い怪我を負ったため、麻酔代わりに眠らされている。
「その子も一体どうするつもり? いい加減に開放なさい!」
「黙れ!」
 静かに恵美を見下ろしているだけだった圭吾が、振り向き様ナタリーに怒鳴った。
「お前は最近私のプライベートに口出しが過ぎる! この娘をどうしようが私の勝手だ!」
「何を言っているの。貴明へのあてつけに囲っているのはわかっているのよ。いい加減にしてあげなさい。その子は……」
「もう一度言う。二度と私のプライベートに口出しするな」
 初めて見る圭吾の恐ろしい目の光にナタリーはたじろいだ。圭吾は黙ってスーツのポケットから、あのエメラルドのネックレスを取り出すと、それを恵美の首にかちりとかけた。そして恵美の左手薬指に嵌められていたダイヤの指輪を外し、それも自分が持っていたエメラルドの指輪に変えてしまう。ナタリーが大きく目をみひらいた。
「……貴方、その子に本気で」
「だったらどうする……?」
 跪いていた圭吾は、ゆっくりと立ち上がった。危険な香りがする圭吾にナタリーはさっきから押されっぱなしだ。
「……確かに経営方針はお前が決めていたが、組織運営をしていたのはすべて私だ。私だからこそ出来た組織拡大を忘れるな。お前、何の苦労も無しにお坊ちゃん学校へ行っていた貴明が、今のままで社長になれるとか本気で思っているのか? 女の為に社員を捨てるような男に誰がついてくるんだ?」
「………………」
「なんなら今すぐ離婚したって構わないぞ。そしてまたやってみるか? 金や浮気はし放題、ただし自分には一切手に触れるなというとんでもない契約で男をたらしこんで……!」
 ナタリーは大きなため息をついた。
「どちらにしてもやりすぎだわ。もう二度とやらないでちょうだい」
「………………」
 圭吾は何も言わず、ベッドの脇に腰をかけて寝ている恵美の頭をやわらかく撫でた。それもナタリーがはじめて見る圭吾で、彼女は頭が痛くなってきた。圭吾も貴明も彼女にとっては大事な人間だというのに、二人共同じ普通の女を取り合っている。
 恵美はまだ何も知らずに眠り続けているが、目覚めた時の事を思うとさすがにナタリーは同情を隠せない……。